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73.裏表の世界





―――くさい、生ものが腐った臭いがする。


低い声で呟いた私は、そのまま羽継に抱きつく。……石鹸の香りと、ミントの爽やかな香りがした。


「おい…!あ、あああ朝から何してんだお前は!?」

「……いいなあ羽継…この臭いが分からないんだね…」


羽継は私よりもその力により感知能力に長けているが、それはあくまで気配探知なので嗅覚に訴えかけるようなものには鈍い。

私にとっては羨ましいことこの上ない話なのだが、無意識に垂れ流している羽継の異能がこの悪臭を消してしまっているので、私の苦しみを理解できないのである…。


「臭いって…やっぱり学校に潜んでるのか、アレ(・・)は」


「アレ」こと魔導書の半分を持って逃亡していると思われる「三好」さんの事は同学年の間ではすでに有名になっている。

もちろん家出扱いではあるが、この通り魔だの殺人未遂事件だのと恐ろしいことばかり続く状態でのその情報に、生徒は皆、最悪の予想をしている。


「…潜んでるだろうね……学校は歪みの酷い場所の一つだから力を得やすいし、自分の通い続けた場所だしね、居やすいんじゃないかな…まあ、元の姿でいるかは分からないけど……」


―――基本的に、一般人が魔導書を使用すればただでは済まないし、そのほとんどが魂を奪われて廃人となるか、魂が傷ついた結果その姿も変えて怪異として生きることになる者ばかりだ。

その中で数少ない生き残り―――いや、「適合者」が魔術師の素質がある人間である。


……ちなみに異能力者は魔導書の適合者にはなれない。

使用したくても反応しないか、突然自分自身の異能のコントロールが効かずに爆発するか。物によっては触れた途端に喰われた、なんて話もある。


「……彩羽」

「ん?」


小さく名前を呼ばれて、私は引っ付いていた体をちょっと離してから羽継を見上げる。

羽継は考え込むような表情で学校を見つめていたかと思うと、綺麗な緑の瞳を私に向ける。

真剣な眼差しに見下ろされて思わず姿勢を正した私にちょっぴり笑うと、羽継はぐしゃぐしゃと私の頭を撫でた。



「俺とお前で、()()()()()を付けよう」



―――それは、言外に「最悪の場合、お前と共に手を汚す」という宣言で。

優しいその口調は、あの日、羽継の服に縋って泣いていた私に向けられたものと似ていた。











―――昼休み。

昼食にサンドイッチと菓子パンなどなど、ついでに紅茶を購入する私を何とも言えない顔で見つめていた羽継だが、彼の友達から突然の委員会の集合命令を聞かされて、渋々私から離れていった。


「すぐ戻る。俺が帰ってくるまで動かないように」


もうこの校内にいるだけで危険でない場所は無いようなものなのだが、それでも一人でいるよりは複数人で行動していた方が襲われにくい。

しかし私は魔術師見習いで、この学校に潜む魔導書の片割れを所持している身であるがゆえに人ごみに紛れても意味はない。もし向こうが襲いかかるときには、例え大勢の生徒を巻き込んででも襲いに来るものなのだ。


……けれど、何度探ってみても魔導書の気配は波のように強かったり弱かったりしている。

恐らく三好さんの魂が限界状態に近いのだろう―――彼女が壊れたとき、真っ先に私か文ちゃんに襲いかかるはずだ。



(……文ちゃん、大丈夫かな)


文ちゃんはまさに「薄幸の美少女」な容姿のせいか、今にもどこかへ消えてしまいそうな雰囲気がある。…縁起でもないので言いたくないが―――私の知る同性の中で、一番「死」に近いような気さえする。


……今回、文ちゃんの護衛役として付いている榎耶のことは信頼しているのだけど…。うーん、あの子、変なところで運のなさを発揮するからな…。


「……文ちゃんに、もう一回お守りあげればよかったなあ…」


紙袋の中にあるものは、今日一日だけなら耐え切れるだろう守護の術が込められたお守りだ。

怪異を引き寄せやすい人間は、怪異にとっては「美味しい餌」の一つでありその遺体や現場にとり憑いた強い感情は、新たな怪異を生むか呼んでしまう。管理人としては最も避けたい事態だ。


―――食料とお守りの入った紙袋を抱え直すと、私はメールで「購買に来れる人は至急複数の人と一緒に来てください。朝のメールで伝えた通り、お守りを配ります」と打って一斉送信する。

……ちなみに、朝出会った瞬間、羽継がお守りをタカ君の爽やかな笑顔に向かって全力投球したので彼の分は無事渡してあるし、吉野さんと宮野くんの分は彼ら自身が「死にたくない」と呼びかける前に来てくれたので渡し済み。

他の同学年の子たちにも渡し、上級生たちにはさっき羽継と一緒に渡してきたので残るは下級生のみだ。



「彩羽ー、一緒にご飯食べれる?」


壁に寄りかかっている私に歩み寄るのは穂乃花で、桃色の可愛いお弁当包みを抱いている。

私は手の中で弄んでいた携帯から目を離し、穂乃花に与えたお守りがちゃんと機能していることを確認してから首を振った。


「んー…しばらく購買(ここ)にいるから……あっ、今日は教室で食べてね」

「分かった……無茶しないでよ?」

「大丈夫ですぅー」


おどけたように言えば、ちょっと不安そうだった穂乃花の表情が安堵に変わる。

私はダメ押しのように二カッと笑うと、「なんせ私は天才だからね!」と胸を張る。今度は呆れた表情に変わった。







けれどその瞬間、隙を突くように私は背後から何かに腕を力強く掴まれて―――世界が暗転した。












文の背後で大きな飛沫を上げて現れたのは―――女生徒だった。


この腐った汚水で濡れて肌にまとわりついているのは、まるで放浪の旅にでも出たかのようにボロボロの制服で、服から露出した肌は酷い切れ目が入って今にも腕が落ちそうだ。いや―――落ちそうなのを、暗い赤の糸が引き上げている。小さく「キッキッ」と張り詰めた音が聞こえる…。


髪は所々抜け落ちていて、文の白い素足に今もなお触れては鳥肌を立てさせるそれと同じ長さだった。思わず、鳥肌が立つ。


「――――…った」

「……え…?」


無意識に二三歩後退る文の耳に、掠れた少女の声が届く。

お守り代わりに力強く抱きしめていた魔導書をさらに握り締めて、文は恐る恐る女生徒―――いや、「三好」という女生徒を見つめた。



「ダメだった」



震える声。死体のように色のない頬に、透明の雫が流れ落ちる。



「流鏑馬くん、私のこと、好きになってくれなかった」



ぽとん、ぽとんと、雫は次々と落ちて足元に波紋を作っていく。



「私より、自分自身より、大切なひとがいるんだって。笑っていてほしいひとがいるんだって。幸せにしたいひとがいるんだって」



涙声に、ボロボロの体がふらりと揺れる。



「そのひとは、私ではダメなんだって」



「私だって、私を、幸せにしてくれるひとは、流鏑馬くんじゃなきゃ、イヤなのに……」






「―――だから思いついたの。ねえ、()()()()()()?」


「え?」




今にも死に絶えそうな、そんな雰囲気であった三好は、唐突に口調を熱に浮かされたような声を出したかと思うとガバッと顔を上げる。


小さかった唇は大きく裂け、覗く歯は凶器のように鋭く幾十本も並んでいる。髪で隠れていた片目はすでに無く、空洞の穴からは「キャキャキャ」と笑う子鬼たちが棲んでいた。



「あナたニィ、ナレれバ…ャ、ャャ…ヤブサメくゥん、ハ…ワたシヲ…アイシテくれルのヨ…?」



三好と、それ以外の―――悪()()()()が重なり合い不気味な音として文の耳を穢す。

じゃぼん、と倒れそうな一歩を踏み込んだ三好は、立ち竦む文の腕を掴むと大きく口を

裂いた。


「ひっ…、いや―――!」

「そノナかみ、ジャまよゥ」


なるべく文の肉体を傷つけたくないのだろう、三好の狙いは文の魂だ。

大きく開いた口から呪詛に染まった黒い霧状の手の群れが伸び、文の体に触れると毒のように染み付いてその体から魂を引き剥がそうとする。

唇を噛み締め必死に抜け出ようとするものを抑えるも三好の呪詛から抗えず、徐々に文の胸の中から、「大事な何か」が喉へと上がろうとし始めた。


「ぅ、く……げほっ、ううぅぅぅ……!!」


やがて顔も白く、力が出なくなって立つことも困難―――になってきた姿に勝利を確信したのか、よろめく文を拘束する力を緩め、魂を吸い上げる力を強めた。


もう限界ね、――――そう三好が笑った瞬間、彼女の喉に強い衝撃が走る。



「は…―――」


衝撃の元、魔導書を用いて三好の喉を思い切り突いた文の手は、小刻みに揺れている。

それでも気丈に三好を睨みつけると、



「こ、の―――触るな物の怪め!」


乱れる呼吸を深呼吸一つでなんとか落ち着かせる。

そしてパン、と強く柏手を打つと、文は不慣れな言葉を、しかし凛と迷うことなく響かせた。


(あめ)切る(つち)切る八方(やも)切る。(あめ)八違(やたが)ひ、(つち)(とお)文字(ふみ)秘音(ひめね)(ひとつ)十々(とおとお)―――」


じめじめとした空間に冷え切った体の指先から、カッと熱いものが流れてくる。

文の白い頬に淡い色が戻り始めたとき、恐れ慄く三好の体には薄らと罅が入り始めた。


「―――(むつ)十々(とおとお)…吹きて、放つ!」


力の溢れる言葉を前に、三好は文が最後まで言い終えるのを聞くことができず、陶器が砕けるような音とともに上半身と下半身が真っ二つに割れる。

もはや少女のものではない不協和音の悲鳴を背に、文は振り返ることなく準備室に駆け込むと息つく間もなく鍵を閉めた。


遅れてドドン、と体当たりするような音が二つ(この意味を文は想像したくない)して、しばらくは何度もしつこく扉にぶつかる音が文の体を震わせた。




「た」


―――やっと音がしなくなった頃、文の体は力が抜けて、ずる、と床に座り込む。



「た、すかった……」








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