71.始まりの朝
―――朝。快晴の空のように澄んだ気持ちの私と違い、お父さんの隣で寝ていた羽継は死んだ魚みたいな目をしていた。あの綺麗な瞳に一切の輝きがなかった。しかもぶつぶつと「視線が…視線が…」とか呟いている。何があったんだろう……。
なんだか聞いてはいけないような気がして、私はそっと羽継から視線をそらし、家を出ようとする私たちを見守るお父さんへと振り向いた。
「行ってくるね」
元気に笑うも、お父さんの表情は暗い。
「……彩羽。昨夜にまったく怪異が起きなかったということは、おそらく今日、恐ろしい怪異が君を襲うだろう。
お父さんは正直、そのことが心配でしょうがないが―――君も誇りある安居院家の娘。そして次期当主だ。遅かれ早かれ超えねばならぬ試練だ……」
―――そう重々しく言うと、お父さんは懐から綺麗な指輪を取り出す。
アンティーク調の透かし模様が美しいそれに、思わず感嘆の声を上げた。
「気に入ってくれたかい?よかった……彩羽、これはお守りだ。私が君に与えられる唯一の護りだ。
一応学校の近くで監視はするが、今回の件は君の力ですべて上手く終わらせなければならないよ。何故なら君があの魔導書の、半分を所有する主なのだからね。
君の目の前に現れる魔導書の半分には『悪』のみがある。手鞠を手に入れた時と違って、力でもって捩じ伏せ、自らが主なのだと示さなければならない―――その試練で僕が介入すれば、魔導書は僕を主と見なし、屈服させることも出来なかった君は魔導書が完成するための贄として喰われてしまう。
勿論、君がこの直接対決で負けても同じこと。どちらにせよ、不名誉極まりない死があるだけだ」
「…はい」
「―――だから、部外者の僕にできるのは、このお守りを渡すことだけ……なあに、お守り一つくらいなら誰も文句は言わないさ。古今東西、親の心配性というのは変わらないものだからね」
最後に普段の無表情な顔から無理に茶目っ気たっぷりに笑って、お父さんは願いを込めるように指輪を握り締めると、そっと私の指に通した。
「この指輪は、一度だけ君を守ってくれるだろう。使い道を間違えないように」
お父さんはそう囁くと、もう一度笑って「いってらっしゃい」と私の背を押す。
私も元気よく「いってきます」と言い、羽継は掠れた声で続いた。じんわりと暑い夏の朝を、清々しい風が吹き抜けてゆく―――。
………。
……………ん?
………………あれ、お父さん、羽継にはお守りくれないの?
「……羽継っ!」
「はいっ!?」
何故か背後(つまり私たちを見送っているお父さんの方)をチラチラと見ていた羽継の手を引くと、あの子は驚きのあまりビクッと体を揺らした。
その様子にちょっとタイミングが悪かったかしらと反省しつつ、私は鞄の中で大人しく眠っている手鞠の耳にもたれかかるように置かれたある物を取り出した。
「これ、お守り」
「――――…へ?」
ぽかん、としている羽継の手をとり、そっと乗せたのは―――あの日、文ちゃんたちとケーキを食べてはしゃいでいた日に手に入れたテディベアのストラップである。
黒の毛並みにきっちりしたネクタイ、どことなく気難しそうな表情は羽継を連想させる―――……そう、連想させるがゆえに、ついつい丁重に扱っている子だ。
「この前ね、お母さんが『そんなに気に入っているのなら』って非常時用のお守りにしなさいってその手の魔術書を貸してくれてね―――私お手製だから、お母さんほど安心感のないものだけど」
「いや、でも……おまえ、昨日も一緒に眠るくらい大事にしてただろ、それ」
「い、一緒に寝てないもの!」
「いや、今朝の寝汚いお前を起こしたのは俺なんだぞ…?」
「むむむ…!」
きっとお父さんが起こしてくれると信じて羽継ベアとこっそり眠った私だったが、お父さんはここ最近の激務に疲れて爆睡していたために―――目覚まし替わりにしていたのだろう携帯を片手に私を起こしてくれたのだ。
相変わらず朝からイケメンなあの子だけど……なんで微妙にニヤニヤしてたんだろうか…。
―――まあそんなことはどうでもいい。
私はぐいと羽継ベアを押し付けて思わず両手で受け取った羽継から顔をそらした。
「とにかく!それ持ってて!失くしたり汚したりしたら許さないからね!」
「……はぁ」
渋々と受け取った羽継だけど、鞄にしまう際に綺麗に折りたたまれたハンカチで包んでくれた。
そして何故か先ほどよりもかなり機嫌良く朝の通学路を歩きだしたのである。
*
「文や、お爺さんはちょっと出かけてくるが、欲しいものはないかね?」
朝食後、祖母と共に後片付けをしていると、背後から祖父が穏やかに尋ねてくる。
文は「ありません」と答えようとして、皿を洗う手を一度止める。隣の祖母が目を向けるときにはその頬を少し染めて、どこか照れくさそうに「あの、」と振り向いた。
「お、女の子が好きそうな、お菓子……明日の分も、買ってきてほしい、です」
小さな声のおねだりに、祖父は明日もあの娘は来てくれるのかと―――あれ以来ずっと塞ぎ込んでいた可愛い孫娘の淡い笑みを見て、思わず口元が緩む。
「友だち」と文が珍しく自分からそう紹介した少女は、彼の孫娘と違って華やかで元気な少女。そしてその隣にいつもいる少年は礼儀正しくよく孫娘を気遣ってくれる。
彼らの正体を知ったときは不安を覚えたが、今ではもう大丈夫だろうと思っている。なにせ、彼らのおかげで孫娘は自らの力を知っても前向きに付き合っていこうと考え始めたのだから―――。
「いいねえ。じゃあ僕はそこにケーキでも希望しておきます」
よかったよかったと祖父母が満足気な笑みを浮かべていると、落ち着いた少女の声が穏やかな会話に入り込む。
一瞬背筋の伸びた祖母とちがって祖父はゆっくりと振り向くと、柔らかな笑みを浮かべて「やあ、おはよう」と挨拶した。
「榎耶ちゃん、今日の朝ご飯は和食なのだが大丈夫かね?」
「大丈夫どころかありがたいです。朝はやっぱり、味噌汁が欲しいですから」
艶やかな黒髪を靡かせ席に着くと、祖母が「よく眠れましたか」と微笑んで朝食を並べていく。
文も寝坊した榎耶のためにお茶を淹れていると、視界の隅で寝転がっている毛玉を見つけた。
(……なんだか、昨日よりも疲れてるみたい…)
羽継たちが帰った後、しばらく毛玉は姿を見せず―――ふらっとどこかから戻ってきたかと思ったら、そのまま文の膝に甘えて眠ってしまった。
ぐったりとしたその様子が不安を煽り、そわそわしている文を見かねた榎耶は一言、「疲れてるだけさ」と落ち着かせるように文の頭を撫でた。
『嘉神羽継は、この手のものでは最高の護衛だからね。それが去ったとなれば……』
いやはや大変だ、と笑った榎耶の手は気持ちがいい。
あまり他者に関心を寄せず、感情を悟られないような言動をするところはあるが、榎耶は気に入った人間には素直で柔らかい反応をする。
どういうわけか文もまた榎耶の「お気に入り」となっていたわけだが、彼女はどちらかというと、友人というよりは文に対して姉のように接することが多かった。
「お茶ですよ」
「ありがとう」
榎耶は朝に弱く泊まりに来るたびに寝坊してくるが、文たちはそれに呆れることも怒ることもしない。
だって、朝の寝起きとなればあの飄々とした少女が隙を見せて年相応に幼い表情をするのだ。いつもと違ってちょっぴり情けない姿も見せてくれることが、彩羽と出会うまでまともな友だちのいなかった文には嬉しかったのである。
そして、祖父母は―――本家の次期当主、恐ろしい魔導書を幼くして二つも所有している娘に対して、怒りを買うようなことをしたくないだけであった。
たとえ幼い子どもの御機嫌伺いをしていると嘲笑われようと、彼らは可能な限り長生きをしたい―――少しでも長く生きて、孫娘の幸せを、守り、見届けたい。
それが祖父母にとっての幸せで、最愛の娘夫婦への贖罪だった。
そうして、昼食が終わってしばらく。
「……毛玉、毛玉……髪を梳いてあげる。だから…」
大きな毛玉になって、と言おうとして、まったく身動ぎもしないぬいぐるみに項垂れる。
文の指先は、水仕事をしたわけでもないのに冷えていた。
(どうしてかしら…お祖母さまも榎耶さんもいるのに……とても怖い……)
居間では祖母が出かけて行った祖父の服を繕っている。頼りの榎耶は先ほど難しい顔をして「今回はあっちか…」と席を立った。
そんな自分は自室で復習していて、室内は快適な温度で静かである。
……なのに「ここにいたら危険」と頭の隅で叫ぶ自分がいて、落ち着かない。
みんなが「家から出なければ大丈夫」と言っているのに―――文はすぐにも恐ろしいものに飲み込まれそうな気がして、幼い頃から自分を守ってくれていた毛玉に縋りたくなった。
「毛玉……」
掠れた声で呼ぶと、小さく毛玉の手が震えた。思わずそのぬいぐるみの手を握る。
「私は……きっと、みんなと…夏休みを、過ごせるよね……?」
きっと、どんなに年老いても、キラキラと眩く輝くような―――そんな、優しい時間が訪れるのだと。
いつもみたいに、あの大きな体で、あやすように囁いて欲しかった。
「……ぉ-ぃ」
「え?」
外から、聞き慣れた声がする。
思わず窓からこっそり覗いてみれば、玄関から少し外れた庭先で国光が手を振っていた。
「ぉ-ぃ、ぉ-ぃ」
真っ直ぐと文を見るその顔は、いつもと違って少し困った顔をしている。
その手には厚みのある紙袋があって、もしかして学校をサボった帰り道でお土産でも買ってきてくれたのだろうか。
(一人で来たのかな?)
今日は彩羽たちは遊びに来れないと言っていた―――それで、今日は誰も家に入れるなと祖父母にも榎耶にも彩羽にも言われていた。
(携帯があればなあ…)
もう思い出したくもないあの日の放課後のせいで、文の携帯は壊れている。
その後も何度も家に嫌がらせの電話などが来ていたせいで、新しい携帯を欲しいとも思わなかったし、電話という存在を無意識に消してきた。
そのせいで彼に電話がかけられない。申し訳ないことに、国光の携帯電話の番号もしっかり覚えていなかった。
(困ったな)
昨日のうちに国光には「今日は来ないで」と伝えていたはずで。
たくさんの人間に「警戒しなさい」と口酸っぱく言われたのもあって、大好きなひとを前にして疑う気持ちが出てくる。
(なんだろう…なにか…おかしい―――)
じっと国光を見ていた文は、反応のない自分を悲しそうに見つめる国光の表情を見て心が痛んだ。彼を疑う自分が嫌だった。
「ぉ-ぃ………」
悩んでいると、焦れた国光がこちらに近寄ってくる。
文は思わず窓から身を引きそうになって、よせばいいのに衝動を堪えて窓から彼の様子を見つめる。そんな時だった。
「―――国光くん!?」
物陰から、槍のように伸びた黒い霧状のものが、国光の腹を貫通する。
目を見開いて血を吐いた国光はそれでも文を見上げ手を伸ばし―――「たすけて」と唇をはくはくと動かした。
その血の気の下がる光景に、文はすぐさま踵を返し、階段を駆け下りる。
途中、驚いた祖母が止めようと彼女の腕に手を伸ばすが、若い娘の足には叶わなかった。
(国光くんが……国光くんが……!!)
いつだって自分のそばにいてくれた、守ろうと奮闘してくれた。
そんな彼を見捨てることは文には出来ないし、ここで冷静な判断ができるほどに大人でもなかった。彼女は確かに同い年の子よりも落ち着いている方ではあるが、まだまだ感情に振り回される年頃なのである。
祖母の悲鳴が聞こえる。ワンピースの裾を誰かが掴んで、するりと抜けていくのを感じる。
慌ただしく悲鳴のもとへと駆けつける足音も聞こえた。
それでも彼女は、振り返らずに玄関の戸を開けたのだ。
「国光くん!!」
影が差す。
―――どうして目の前が見えないのだろう、と急な暗さに文の思考が停止していると、背後でバタンと引き戸が閉まる音を聞いた。微かに「開けて」と叫ぶ声も聞いた。
「くにみつ、くん?」
胸から上を、見上げることができない。
まるで墨のように目の前のなにかは黒く、身長が同じならば吐息を感じてしまいそうなほど近くに立っていた。
「く、に…みつ……くん……」
まるで文が開けるのを待ち構えていたように立つそれを、恐る恐る見上げた。
どこか焦げ臭い匂いを放つそれは、―――大きな顔を横に蹂躙するような一つの目玉で、文を見つめている。
「あ……」
後退ると、それは一度瞼を閉じる。
もう一度目を開ける時には、目玉だったはずのそこには剥き出しの歯と、腐臭のする赤黒い口内が見えている。
化け物は、動くことの出来ない文を、頭から―――
「待て!」
食べる、その瞬間。
強引に扉を開けることに成功した榎耶が、一冊の本を文に投げつける。
逃げること叶わず飲み込まれた文と共に消えた本―――魔導書「君を/絞め殺す/私の赤い糸」の存在に、化け物は身の内を焼かれるような苦しみに吠えた。
あまりの痛みに長身の焼死体のようだった姿が何度か痩せ細った少女の姿に戻るも、結局自我を取り戻すことなく、化け物は地面に転がされていた紙袋の中にある魔導書の中へと消えたのである。
後に残った榎耶は、扉を破る際に負った腕の怪我を舐めると、ひとつ溜息を吐いた。
「いやはや、パターン的に風呂場に引きずり込まれる方だと思ったのになあ……初回と同じ手で来たか」
困ったなあ、あの子は好きなんだ、死なせたくない。
―――そう呟いて、榎耶は携帯を開いた。
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