67.いいから教えろよ。ん?
―――彩羽が神社で話し込んでいる頃。
羽継と文は、顔色が悪く冗談も言えなくなってきた国光を一階にある客室で寝かせた。
子供が使っていいようには思えないほど整えられた部屋であったが―――羽継は当たり前のように国光を自室で寝かせようとした文を遮り、文の祖父がすぐにこちらの様子がわかる部屋で過ごそうと提案したために、ここしか使える部屋がなかったのである。
この時、文は羽継の提案に(玄関先でもたついている三人を気にして顔を出していた)祖父がホッとした表情をするのを見て、やっとその気遣いに気づき「ありがとう…」と笑った。
そうして今朝よりもぐったりしている国光をとりあえず座らせて布団の準備をし、何故かすっ転んだ文を背中で受け止め―――ともかく痛いと思いつつも顔に出さず「気にするな」と呟いた羽継が布団に目を向けると、すでに猫のぬいぐるみが横たわっていた。偶然にも目が合ってしまい、ゾッとする。
(……見なかったことにしよう……)
彩羽からも遠回しに触れるなと言われていたし、何より勘が「近づくな」と言っている。……それに、彼としては目の前の(文の部屋で横たわっていたはずの)ぬいぐるみの奇怪な移動云々よりも、彩羽からの連絡が来ないことが気になる。
―――というのも、彩羽に対して過保護すぎる羽継にとって、彼女が誰も連れずに行く先が穏やかな文の祖母が居る神社であろうとも、羽継からしたら何が起ころうとおかしくはない危険地帯だ。例えるなら暢気な彼女を地雷原で散歩させるようなものだと思っている。
……そして何より、あの黒髪の―――姿は確かに綺麗ではあるが、どことなくその存在に嫌なものを感じさせる少女が、地雷原としか思えない場所に共にいるということが不安だった。
(……篠崎榎耶……か)
今までの彼女との会話の中で、確かに聞いたことがあるかもしれない名前。
ただそれくらいしか覚えていないので、恐らく彩羽はあまり羽継に少女の話題を出さなかったのだろう。
(あ、そういえば…)
……ふと思い出したのは、月に何度かの文通のやり取りのために、彩羽が手紙をじっくりと選んで買うのに付き合っていた記憶だ。
あの時、誰に差し出すのだろうと気になるあまりに彩羽に尋ねたところ、あの女の名と簡単な紹介をされた気がする。そこで名前だけは聞き覚えていたのかもしれない。
確か文通相手が女だと知って、途端に安心して彩羽の手を握ってしまい、彼女はそれに無意識に握り返して手紙を選んでいて―――ああそうだ、その仕草に喜べばいいのか泣けばいいのかと悩んでいたのだった。もうちょっと関心を持てばよかった。
……ちなみに、当然手紙を選んでいた店は少女向けの可愛らしすぎる店だったが、彩羽が隣にいるなら幾ら周囲の視線を浴びようが気にしないのが羽継の、いや恋心のすごいところである。
―――とにかくだ、……強いて言うなら、羽継はそれぐらいしかあの少女、「榎耶」を知らなかった。
知らなかったが―――
(……あの女、何かおかしい)
「御巫」は分家であると、「安居院」と対なす「東の守」だと―――その次期当主だと。
家ぐるみで仲が良いのだと笑ったあの少女を、羽継は気味が悪く思っていた。
それは昨夜の怪異現象を庇うような登場を始め、やたらとニコニコしている胡散臭さからではない―――あの少女の、彩羽へ向ける視線が気持ち悪いのだ。
―――それは、羽継が、暑い夏の夜のようにしつこくまとわりつくものを感じるその瞳を、昨年見ているせいかもしれない。
『どうしてあたしを見てくれないの』
……嫌なことを思い出した。
あの、どこか舌っ足らずな声で話す少女が、凶行に及んだ日。
あの日のことを思い出すと、羽継は当時の自分に「どうしてあそこで彩羽の言うことを聞いたのか」と殴りたくなる。
あの夏の日、初めて彩羽が、羽継のためではなく彩羽自身のことに怒りをあらわにした時―――彼女を慰めながら、どうして事情を詳しく聞いてやらなかったのだろう。
彩羽が「言いたくない」と泣きそうな声で俯いたことに慌てて、落ち着くまで待とうなどと呑気なことを考えていたのだろう。
あのとき無理矢理にでも話を聞いて、「おまえのその感情は正しい」と肯定してやれば。一瞬過ぎった嫌な予感を気のせいと思わずに、ずっと彼女のそばで守っていれば―――なんて、もうどうしようもないことを考えてしまうのもあって、榎耶の、あの瞳は嫌いだ。
それに榎耶は―――あの時、彩羽がそばにいた時は、笑って挨拶をしていたけれど。
彩羽が羽継を見てあれこれとお互いの無事を確認していた時、榎耶は確かに羽継だけを見、目が合えばニコリと笑ったが。
あれは―――喉元に、刃を向けられたような。明確で冷酷な気持ちが込められた、笑みだった。
「まあ毛玉。ダメだよ、そこは国光くんが使うのだから」
思わず自身の携帯を取り出して連絡を取るべきかと悩んでいると、四つん這いで布団に近寄る国光のために掛け布団をめくっていた文が困ったような声を上げた。
見れば、布団の上で横たわっていたぬいぐるみはいつのまにか布団の中に入り込んでおり、文は両手で子供を抱き上げるようにぬいぐるみを抱き上げた。
そして近くの座布団の上に座らせると、「ごめんね、国光くん」と謝って国光が眠る手伝いをする。
辛そうな国光の様子に助けてやりたくはなるのだが、どうにも視界の端にあのぬいぐるみが見えてしまうと、近づこうとする体が止まってしまう。
初めてこの家を訪れた時と違って、あれから敵意は感じないものの、やはり本能的に怖いと思うのだ。
「文…嘉神……迷惑かけてごめん……」
「―――気にするな」
ぼふ、と枕に顔を突っ込んだ国光に静かにそう返せば、くぐもった笑い声が聞こえたが、しばらくすると静かになる。眠ったのだろう―――文はその様子を見て、「ち、窒息…窒息しちゃう…」と慌てて仰向けにしていた。
国光は青白い顔色ではあったが穏やかな表情で眠っている。文はその寝顔を三十分ほど見守った。……羽継はその心配性ぶりに呆れるどころか、「あ、俺と一緒だ」と少しおかしいことを思ってしまって、小さく笑う。その微かな笑い声を誤解した文が、照れくさそうにぬいぐるみを抱きしめた。
「……嘉神くん」
「ん?」
「あの…ありがとうね。今日、休んでくれて」
「ああ…いや、気にするな」
「それに…あの、本当は彩羽さんのそばに居たかったのでしょう?なのにその……私のとこに……我が家の守りが弱くなったから…」
「………気づいていたのか?」
「うん…毛玉が、『ちょっと疲れた…』って倒れてしまって、」
「え?」
「ずいぶん前に、榎耶…あ、親戚の……こういう、オカルト…っていうのかな、そういうのに詳しい人が、家の守りが無くなったら連絡してほしいと―――」
「待て。―――御巫、おまえ、あの女のことを知っているのか?」
彩羽の話では、文はあまり親戚付き合いをしていないと聞いていたが。
もしかして、榎耶―――本家とならば、少しは付き合いがあるのだろうか。
「え、えっと、榎耶さんはね、小さい頃から何度か我が家に遊びに来てくれてて……とても可愛がってくれたの。今では家に寄ってはくれないけど、神事の時には絶対顔を出してくれるよ」
「……あの女は、御巫に正体を口にしたか?」
「正体…?榎耶さんは、ええっと、オカルト趣味なんだって…あ、本人がね、そう言ってて…違うの?」
「……あの女は、陰陽師だ」
苦々しい声で告げると、文は驚きに目を見開き、次いで期待に満ちた表情になる。
それに嫌な予感がした羽継は、「あのな、御巫」とチラッと国光を気にして声を小さくする。
「能力者もそうだが、術者は特に気をつけた方がいい。彩羽は見た目通り育ちが良いアホだから想像しにくいだろうが、術者の多くは能力者を実験材料か何かに思っている奴が多いんだよ」
「実験…?」
「そう。自分の魔術をより高いものにするためだったり、趣味だったり、呪術の研究のためだったり……そういうものに手を染めた魔術師は今では【霊安室】っていうオカルト専門の警察のような組織に捕らえられるようになっているが、たいていは捕まる前に事件自体をその家の権力で握り潰される事の方が多い」
「………」
「安居院家は人間も能力者も怪異だけでなくその手のものから守ろうとする立場をとっているから、彩羽については心配しなくていいが、あの女は気をつけろ。
あの女、御巫の能力を察しておきながら放置していたんだ」
「えっ」
「例えそれがお前を思っての放置だったとしても―――ああいう、自分の感情を隠せるやつは注意しておいて損はない」
最後は自分に言い聞かせるように話した羽継を、文は不安そうに見上げ、「…そうかも、しれないね」と困ったように微笑む。その笑みに、羽継の提案はやんわりと断られたのだと察した。
「……まあいい。それで―――家の守りが弱まって、あの女はなんて?」
「ええっと、その…教えちゃダメって……」
「…それもそうだな」
思わず、彩羽を相手にするように聞いてしまったが、確かにこの手の術を第三者に教えるのは良くないものだ。
どうにも、彩羽も文も―――容姿も性格も違うというのに、接していてついつい世話を焼いてしまうというか。
主に彩羽のせいであれこれと心配してしまうタイプの人間になってしまった羽継は、ちょっとの間、文と喋っていただけだというのに疲れてきた。
思わず溜息を吐いて座り込むと、文は不安そうに羽継を見つめる。
それ以外にも、「じぃっ」と彼を見上げる視線を感じて、羽継は真っ直ぐ障子の向こうの景色を見つめながら、会話を探した。
何か、文も楽しめる話題を―――ああ、このまま沈黙を続けて文を困らせたら、死ぬかも。
「……そういえば、」
「!」
「彩羽との勉強はどうだ?……こっちじゃなくて」
こっち、と部屋の隅に置かれたカバンを指すと、文は柔らかい表情で答えた。
「たのしい。とても……私、今まで不思議なことを何度も目にしてきたけれど、彩羽さんの手のひらから生まれるもののように美しいものを見たことがないの。
あんな綺麗なものを見ているとね、少しだけ……夢見てしまうの。もしかしたら、私のよくわからない力も、ああいうことが出来るのではないかと…」
「……その気持ち、分かるな。俺もよく思ってた」
「そうなの?」
「ああ。…まあ、俺はその手のものは出来なかったが……」
ふ、と笑った羽継は、ふとある夏の夜の、「天の川」を見せた彩羽の自信満々の笑顔を思い出した。
「あいつ、約束ごとなんか忘れやすいように見えて全然でな。俺が幼稚園の頃だかに夢見たことを今でも覚えていてくれたんだよ」
「夢?」
「ああ……あれは、確か『銀河鉄道の夜』だったかな…それの内容は当時の俺には興味が湧かなかったが、絵がとても美しくて何度も見直していたんだ。
その絵本は彩羽のものだったけど、あいつは譲ってくれてさ……『今は絵本を譲ることしかできないけど、すごい魔法使いになったら、羽継に天の川をあげるね』って約束してくれたんだよ」
「…彩羽さんらしい。すてきな約束だね」
「ああ。俺も忘れていた約束だったんだが、あいつ律儀に覚えててさ。去年の夏に一度見せてくれて―――あいつ、俺を楽しませることしか考えてなくて、解除方法も連絡手段も無計画でな。みるみるうちにあのドヤ顔が焦った顔に変わって、終いにはベッドの上から落ちたんだ。カナヅチのくせに後先考えずに騒ぐから……危うく、あいつの作った星の池に二人そろって溺れ死ぬところだった」
「それ、は―――あ、ははっ!」
想像してしまったのか、文はおかしそうに笑う。
止まらないとばかりに口を抑えて肩を震わす文に、羽継をじぃっと見ていた視線が動く。
なんとなく、部屋が居心地の良いものになったような気が、する。
「…ふ、ふふ……っ…、彩羽さん、私がお願いしたら、私にも星の池を見せてくれるかなあ?見てみたい」
「ああ、きっとあいつなら大喜びで見せるだろうな。…そして何かしらのミスをして、収集のつかない騒ぎにするだろうが」
「それでもいい。…ううん、その方がいいなあ。ふふ…」
未だに溢れてくるおかしさに、文は一二度咳をして調子を戻した。
「……なんだか安心しちゃった。もし私の力が彩羽さんのように綺麗なものでなかったとしても、彩羽さんがあの綺麗なものを見せ続けてくれたら、……そうだね、もしこの力が凶暴なものでも、彩羽さんのその美しさを守れるものであれたら、少しは救われると思う」
「…そうか」
優しくそう告げた文に、自然と羽継も微笑む。
それに目を見開いた文は、また小さく笑った。
「……嘉神くんも、そう思っているの?」
「は…―――えっ!?」
「『同感』って顔で、私を見ていたからてっきり……やっぱり嘉神くんって、」
「いやッ、あの……その話はよそう」
気まずそうに顔をそむけると、文とぬいぐるみから視線を感じる。無言で「おい教えろよ」と圧をかけられているような気がする。
それでも羽継は負けじと顔をそむけていると、すぐそばから国光の「みそしる…あぶらあげ……」という謎の寝言が聞こえた。
チラッと見れば気持ち良さそうに眠っていて、羽継は図太いと思えばいいのか羨ましいと思えばいいのか分からなくなる―――と、現実から目をそらしていると、急に長机が揺れた。
地震かと焦れば座布団の上で大人しく座っていたぬいぐるみがゆっさゆっさと揺さぶっていて、文は慌てて止めている。
(こいつ…もう色々と隠さなくなってきたな……)
机から引き剥がされたぬいぐるみを呆れて見ていて、ハッと気づいた。……まだ机は揺れている。
「おい―――」
嫌な予感がして机の脚を見れば、鞄の中で爆睡していたはずの手鞠が、対抗意識を燃やして激しく机を揺さぶっている。
つまみ上げてしまおうと手を伸ばすがすでに遅く、いつの間にか文の手から逃げていたぬいぐるみが机を揺さぶり返す。
こうして激しい戦いが始まったが、ものの十秒で二匹は羽継の拳骨を喰らい、国光の上に放り投げられたのだった。
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