57.羽継の物語
「―――夕日って、あんなに赤黒いっけ…」
逃げて逃げて、隠れて逃げて。
姿の見えない、背筋の凍る金属音に追い立てられて。
荒い呼吸を整えた際に窓の向こうを覗き見れば、異常な光景がじわりと視界を揺さぶった。
慌てて彩羽に気づかれないように袖で拭うも、彩羽は俺を見ずに三歩先を歩く。そして背伸びをして窓を少しだけ開ければ、持っていた飴玉に魔力を込めて投げ込んだ。
飴玉は金の光の余韻を残しながら、銃弾のように真っ直ぐ走る。
まるで流れ星のような美しさがあったそれだが、突然ふっと姿を消した――――。
「なんだ…」
思わず近寄れば、窓の隙間を覗く俺に風が殴りかかる。ぴしゃっ、と生暖かいものが頬に着いた。
「……あ」
隙間に挟まるように、無理矢理突っ込んできたのは女の顔だった。
あの時、喰われそうになった俺を守るため、彩羽が吹っ飛ばした首―――それがどうなっているのかなんて気にしなかったから、最初理解出来なかった。
首は俺の方へ目玉のない眼孔を向け、歯で咥えた飴玉をガツンと砕いた。
まるで、「これはお前だ」と言うように――――
「……。消えろ」
バチィッ、と雷光が弾ける。
女の顔は破裂して肉片がこちらに飛んできたが、彩羽の張った結界により体に張り付くのだけは避けることができた。
俺は安堵する間もなく彩羽の手に引かれ歩き出すと、廊下に並ぶ窓は一斉に血の色に染まる。悲鳴を上げた俺は彩羽の腕を掴み直すと、一目散に駆け出した。
―――そこからは散々で、何かに滑って転んだと思えば目玉だったり、通り過ぎようとした教室の扉が突然開いたり。血が滴り落ちる窓を、「きゅぅぅぅぅ」と音を立てて白い手が赤を拭い、何かがジッとこちらを見ていたり。
外に出ようとしても開かず、壊してでも出ようとすれば外から何かが体を引きずってこちらに近寄ってくる。
慌ててそこから離れれば同じことの繰り返しで。俺は汗ばんだ手で彩羽の手を掴んだまま、ふらふらと教室に戻った。
「で、れ…ない…―――」
「…もう、校内を何周したと思っているんだっ」と壁を殴れば、何かを見ていた彩羽は視線を俺に戻し、黙って俺の背を撫でた。
「落ち着いて。逃げ延びればお父さんが助けに来てくれるから」
だから大丈夫、落ち着いて。―――そう優しく囁かれても、俺の心は余計に荒むだけだ。
これが一般人なら、同い年の人間だったなら。俺は「わかった」と言えただろう。空元気を出せただろう。
しかし、魔術師見習いである彩羽ではダメだ。だってこいつは俺の感じる恐怖を知らない。俺の不安を理解できない。
上から目線の「余裕」を、俺は確かに彩羽から感じていた。この時、彩羽は俺を無能の存在と同じに見ていたのだと悟った。―――ああ、ちがう。
こいつは、いつだって、俺を、「下」に見てた。
「羽継、ほら、もう出るよ。追いつかれ―――」
「……放っておいてくれ」
「は?…なに馬鹿なこと言ってんの。意味わかんないワガママ言ってないで、早く…」
「放っておいてくれ」
「…ちょっと。あんたねえ、いい加減に、」
「放っておけって言ってるだろ!!」
机を蹴飛ばす。
俺は、俺が今まで、こいつの何が気に食わないのかをやっと理解した。
それは散々嫉妬した人望ではない。恵まれた環境でもない。俺はこいつの、この、俺を荷物として見る目が嫌だったのだ。足手まといに思われるのが許せなかったのだ。
「……今度はどうしたの」
「触んな!」
伸びてくる手を強く拒絶すれば、あいつはここに来て初めて目を見開き驚いたようだった。
「ど、どう…した、の?」
「お前と一緒に居たくない」
「え?」
「お前に馬鹿にされたまま、一緒に逃げ続けるのなんてごめんだって言ってんだよ」
「は?なに言って……馬鹿にしてないでしょ?」
「嘘ついてんじゃねーよ。毎日毎日…俺を見下した目で見てただろ。お前の目を見てりゃあ分かるんだよ!」
「見下してない!…ねえ羽継、落ち着いてよ。あんたこの怪異に飲まれて被害妄想に駆られてるんだよ。冷静になって、ね?」
「被害妄想?…違うな。だって俺は、こうなる前から薄々気づいてたんだから―――俺のこと、本当は邪魔だって思ってたんだろ。今だって、俺のこと面倒だと思ってんだろ!」
「思ってな―――きゃあっ!?」
椅子を横に吹っ飛ばして威嚇すれば、あいつは驚いて尻餅を着いた。
「羽継……」
「その目をやめろ!」
怯えた目で見られたら見られたで、すごく嫌だった。
「お前のせいで人生滅茶苦茶にされたんだぞ。お前のせいでこんな目に遭ってるんだ……なのに何でそんな目で俺を見るんだよ!何で俺を面倒な荷物扱いするんだよ!!誰のせいでこんな―――こんな……っ」
―――こんな、醜い自分を知ることになったのか。
本当なら、まだ知ることのなかったはずの汚い感情を、幼くして知り尽くしてしまったことが悲しかった。八つ当たりのように彩羽を責める自分が嫌だった。
そして、こうでもしないと自分を保てない、そんな自分を心底憎んだ。
「……最っ悪だ……。もう、放っておいてくれよ…―――どっかいってくれよ……おまえなんて……もう、いらない」
しゃがみこんで泣きそうなのを堪えて、震え声で言えば―――しばらくしてから彩羽が立ち上がった。
しかしまったく動く気配がないので気になって顔を上げれば、彩羽はぼんやりとした顔で口を開いた。
「……羽継さ、自分が今まで、私に何をしてきたか覚えてる?」
「……?」
「さっきみたいに、『おまえのせいで』って詰ったり、散々に怒鳴ってくれたんだよ。私が何も言い返さない、見捨てないのをわかったうえで、私に八つ当たりしてたんだよ。全部全部、彩羽が悪い、って……」
「………」
「でもね、その通りだけど、少し違うんだよ。小学校に上がってからも羽継が一人ぼっちなのは、羽継が自分から人と離れてるせいなの。人を傷つけてるからなんだよ。だから嫌われてるの」
「……っ」
「…でも、私はそんな羽継だって嫌いじゃなかったよ。羽継の言う通り、羽継に苛々することも負担だと思うこともあったけど、嫌いになんてならなかったよ。…なんでかわかる?」
「……し、ら…ない…」
小さな声で言えば、彩羽は儚げな笑みを浮かべた。
「―――羽継は、一度だって私に暴力を振るったことはないんだよ……」
ぎゅ、と。
彩羽は俺に拒絶されて赤くなった手を、胸の前で握り締めた。
「どんなに不機嫌でも、怒ってても、私に、あんなこと言わなかった……」
「彩羽…」
今にも泣きそうな声で言うから、俺は思わず手を伸ばした。
けれどあいつは、すっと下がって俺の手から逃げる。
「………。…羽継はさ、私がどんなに心を尽くしても……他の人間の方がいいんだよね…。生まれてからずっと羽継のそばにいた私より、他の奴らがいいんだものね。ずっとそう―――私のせいで友達がいなくなったって、悲しいって、言ってたもんね」
「彩…おれ……」
「私なんて、どっか行ったら、消えたらいいんだよね」
「おれ…おれは―――」
「その願い、叶えてあげるよ」
数歩後ろに下がった彩羽は、どこか壊れた笑顔で俺を見た。
そしてスっと黒板を指差すと、「見てごらん」と言う。
つられて俺も黒板を見れば、そこには――――
【 ひ と り は 帰 さ な い 】
赤い、ドロリとした液体を擦りつけたような、そんな文字で。
「羽継」
「わたし、あんたのこと」
「だいっきらい」
泣きながら笑った彼女の胸を、扉ごと長い刃が突き刺した。
赤い華が視界を染める瞬間、彼女の魔力が破裂したのを感じ―――
この、俺たちを閉じ込めていた怪異が、風船のようにパチンと弾けた。
病院を出ると、俺は振り返ってあいつの病室を探した。
「………起きてるかな」
例の事件―――怪異は、彩羽の魔力の爆発により崩壊し、無事生きて二人とも出ることが出来た。
しかし彩羽は胸を貫通しており、救急車を待っている余裕はない。そのため、おじさんの魔術により「停止」させられ、あらかじめ連絡していた腕のいい治療術を持つ魔術師の到着を待つことになった。
その人曰く、心臓がやられているが発見が早かったこと、すぐに傷を防げたこと、何より彩羽の魔力が底を尽きていないのもあって自己治癒力が一般人以上に高く、昏睡状態にはなったが特に問題なく回復できるとのことだった。
―――俺はその報告を聞いて、安心のあまり足の力が抜けてへたりこんでしまった。
それまであらゆる神仏に祈り倒したせいか、本当に神様はいるんだと思った。何度も感謝する拳には涙が落ちて止まなかった。
一段落つき、俺は病院に来て何度もおじさんたちに土下座し続けた安い頭をまたも下げ、おばさんが優しく声をかけてくれるまで謝り続けていた。おじさんは難しい顔のまま、瞳に薄らと殺意を滲ませて、俺に言った。
「羽継くん。もし君がこのことを後悔しているのなら―――」
―――この日、おじさんがそう提案してくれなくても、俺はおじさんの足に縋り付いてもお願いしただろう。
彩羽の封印に頼らず、自分の能力を制御する―――そのためにおじさんの家に通い、自棄になって滅茶苦茶だった生活態度を改めた。無傷とはいえ怪異に巻き込まれたということで、休学している間は勉強漬けの日々だった。
そして叔父がやっている弓道教室に通い、集中力を少しでも高めようと通い初めて三日。なかなか弓道というのは楽しい。狙い通り、自分の力を抑えるという意味でも役に立つ。
一日の間に色々な予定を詰め込んでいるため忙しくて目が回るが、気持ちは清々しい―――けれど。
時間を見つけて彩羽に会いに行っても、彩羽は会ってくれない。一回無理矢理に扉を開けようとしたら花瓶が扉にぶん投げるくらいに(当然ではあるが)俺に会いたくないようで、こうして何度見舞いに行っても虚しく帰るだけである。
……ちなみに今日は饅頭をぶん投げたらしく、おばさんに叱られていた。
「……はぁ」
明日から、俺は学校に登校することになる。
二人揃って学校を休んだんだ、きっと質問攻めだろう。…個人的な我が儘だろうが、通学する前に彩羽と話したかった……。
―――と、その翌日。足取り重く登校したら、だ。
「わあ、嘉神くんが来たよ!」「すごいねえ嘉神くん!彩羽のこと助けてくれたんでしょ?」「応急処置っていうの?そんなのサラッとできるなんてカッコイイー!」……と、同級生どころか同学年の奴らにまで言われてこれでもかというほど褒められた。
…確か今回の件は、「事故」ということで済ましたはずだが―――どういうわけか、俺は瀕死の彩羽を救うため、コナンばりの活躍をしたことになっていた。事実は足手まといになった挙句に自爆したダメ男なんだが……。
わらわらと俺に好意全開で近寄ってくる同級生たち。恐る恐る「…誰から聞いた?」と問えば、俺の左隣にいた女子が「彩羽から!」と元気よく答えた。
(…俺はまだ会えないのに、お前はもう会ったのかよ)
思わず言いかけ、慌てて黙る。
……この女子の言っていることが本当だとすると、彩羽は―――もう一度、チャンスをくれたのだろうか?
もう一度、みんなの輪に入る、機会を。
「……ははっ」
―――バカだ。
あいつは、そんな善意だけでやったわけじゃないだろう。
あいつは―――俺の面倒を、もう見ないと暗に言っているのだ。
「……はは……」
しょうがない。…俺はそう思わせるだけのことをしてきた。
散々、あいつをサンドバックよろしく暴言を吐き続け、「もういらない」とまで言ったんだ。それなのにここまでしてくれたあいつに、俺が報いれることはただ一つ、「あいつの迷惑にならない」ことだけ。そういうことなんだろう。
…………。
「…………」
―――想像した。
あいつのいない日々。あいつに話しかけられない日々。あいつと別れてしまう人生。……走馬灯のように想像して、心底ぞっとした。
そして、俺が暴言を吐き続ける男でも、俺があいつの名を呼べばすごく嬉しそうな顔をしてくれたことを思い出して、死んで消えてしまいたくなった。
そしたら―――少しはあいつも、スっとするだろうか。それとも俺のことを怒ってくれるだろうか。
泣いてくれなくてもいい、少しでも長く覚えてくれていたら嬉しい。
(―――ああ、本当に、馬鹿だな俺は)
……そうじゃない。俺の命の使い方はそうじゃないのだ。
あいつにここまで世話をかけさせた。死にかけてまで助けてもらった命を、一時の衝動に任せて捨てることは許されない。
俺がしなくてはならないのは、この命の使い道は、もう決めたのだ。たとえどんなにあいつに拒絶されても、蔑まれても。俺がするべきことは変わらない。
俺の力も何もかも、彩羽の為にあるのだから――――。
*
「―――……ん?」
……目を開けると、近くに冷めたコーヒーと、幾つかのアルバムがある。…寝てたのか。
今日一日、というか昼以降、煽られ喧嘩腰でいたせいか疲れた…精神的に。
しかも不安のあまり、彩羽に情けない姿を見せてしまった。ああでも、嬉しい答えをもらったから、あれはあれでよかったが―――なんであそこで調子に乗ったんだ、俺。
…いや、分かってる。彩羽の答えが想像以上に良いものだったからだ。それにここでもたついたら、あの害獣に先を越されそうで怖かった…でも、抱きしめるだけでやめようと思ってたのに何で―――いや、もうよそう。
目を閉じると、とろんとした表情で俺を見つめるあいつを思い出してしまう。俺は落ち着こうとコーヒーを飲んだ。
「……さて、アルバム片付けるか……」
何故俺の部屋にアルバムがあるかというと、暇つぶしなのか分からないが俺たちの幼少期のアルバムをニコニコしながら見ていた母さんから押し付けられたというか…。
おじさんの説教で身も心も痛い中、天使の格好をした幼い彩羽の写真を見て、思わず立ち止まってしまったのを勘違いされたんだろうな。別にアルバム鑑賞は今じゃなくてもいいんだけど。
「……ん?」
テーブルから落ちていた一枚を拾う。
そこには笑顔だけどランドセル一個分の距離を開けている俺たちの写真がある。
「……今思い出してもキツかったな…」
―――彩羽が退院して学校に通い始めてからずっと、あいつは皆の前ではいつものように俺に対しフレンドリーであったが、人の目が無くなるとすぐに俺から離れてどこかへ去っていった。
……思えば、あの頃の彩羽ほど恐ろしいものはなかったな。さっきまでニコニコしながら俺に話しかけていたのに、人がいなくなった途端にスパッと冷め切った態度に変われるなんて。あのアホの子な彩羽に出来ることではないと思っていた。
……それでも、俺は彩羽の冷え切った目に怯えながらも、諦めることなく彩羽の後を追い「話を聞いてくれ」と縋った。
その姿は例えるならきっと、捨てられた犬が飼い主に追い縋るようなものだったろう。かつてないほどに必死に話しかけ続けたからな。
彩羽には迷惑極まりないことだったろうが、俺にはどんなに惨めな格好であっても、どうしても伝えたいことがあった。あいつのために命を懸けると言ったが、この言葉を聞いて貰えないのは嫌だった。俺の最後の我が儘、決意表明だけでも聞いて欲しかった。
(まあ、その返事は『重い』だったが)
―――最終的に、彩羽と初めての(正しくは無理矢理俺が参戦した)怪異退治にて、色々骨を折ったがなんとか和解することができて良かった。
本当に……、彩羽が、仲直りしたらもう全て水に流す男らしいヤツで良かった……。
「……まあ、今はそれよりも―――明日からどんな顔してあいつに会えばいいんだろうか…」
いくら彩羽がアホの子で鈍感なところがあるとはいえ、流石にアレで俺の気持ちに気がついただろう。……気がついた、よな?
………。まあ、あいつは顔に出やすいから、気が付いてなかったら特に触れずにおこう―――いや。むしろ、触れた方がいいのか。今のところ嫌悪感が勝っているとはいえ万が一にも小鳥遊に気持ちが傾いたら最悪だ。
そうだ。これから怪異解決に向けて忙しくなるだろうが、時間を見つけて小鳥遊を一回シメておこう。………ん?
「うおっ!?」
―――ふと視線を感じて窓を見れば、ぶちゅ、と手鞠が顔(というべきか体というべきなのか…)を窓硝子に押し付け、「う゛―お゛ぁぁ……」と鳴いている。二つの意味で汚かった。
「手鞠…おま、何して……彩羽!?」
ガラッと窓を開ければ、ちょっとした荷物を持った彩羽が門扉から少し歩いたところに俯いて立っている。
けれどあいつは俺に呼ばれて相変わらず嬉しそうな顔をすると、「羽継―!」と元気に跳ねる。…いや跳ねるな。スカートが危うい。
「おま……何しに来た?」
「家出!」
また可愛い顔して意味の分からないことを言いおる。
「……家出?」
「そう!初めての家出。ドキドキしちゃうね」
「俺は違う意味でドキドキなんだが。……ったく、これ以上おじさんを心配させるんじゃない。今日は大人しく家に居ろ」
「ちゃんとお父さんたちには行き先言ってあるから大丈夫だよ?……っと、そうそうこれね、お母さんからお土産ー」
「………」
「あとこれ、羽継がこのまえ読みたいって言ってた本でしょ、それとトランプと…ウノもあるよー!」
「…………」
「…………?」
「………―――彩羽」
「ん?」
「……それさ、もう家出じゃない。お泊まり会だそれ」
「じゃあそれでいいやー」
えへへ、と笑う彩羽を見て、「こいつって本当育ちがいいな…」と頭が痛くなった。
.
そんなこんなで彩羽に尽くす系男子になった羽継くん。
彼に一番効く精神攻撃は、
・冷ややかな眼差しのロリ彩羽ちゃんによる「近寄らないでくれる、羽継くん」
・笑顔で「嘉神くん」とトラウマを無自覚でえぐった彩羽ちゃん(17話あたり) とか。




