52.俺の幼馴染がかわいい
夢を、見た。
気づけば大きな図書館の中で本を手に歩いていたはずの私は、視界が歪んだのに驚いて目をこすると、ずいぶん前に夢に見た林の中に立っていた。
急に変わった世界はあの夢をなぞるように――奥から鈴の音が聞こえ、思わず鈴の音に背を向け逃げ出そうとしたが、帰り道は木々に閉ざされている。「逃がさない」と言わんばかりの林に、途方に暮れてしまった。
そうしていると向こうから鈴の軽やかな音と、「なにか」が近づいてくる気配を感じ―――ああ、来るのだなと思った私は、前回と違って例の気配が近づくほどに理由の分からぬ恐れを抱いた。
(逃げたい)
けれど、どうすればいい。現実ならともかく、こんな夢の中の獣道に入る度胸はないのに。
(逃げたい)
林の奥、馬の頭が木の陰を抜けた。
きっと、次はあの男が見える。見えてしまう―――
『こっちにおいで』
横から聞こえる声は、耳に馴染んだものだった。
『おいで』
道から外れた場所に立つ羽継は、制服姿で私に手招きをしていた。
―――彼の象徴としての「矢」の姿ではなく、彼自身の姿が私の夢に干渉するのは初めてだ。……いや、今のこの子は私が造った幻で、彼自身ではないのだろう。
それでも、こうして助けにきてくれたことが、うれしい。
―――私は迷うことなく、彼が差し出した手を握り締めた。
*
「あら、通り魔事件?」
リビングで読書中の私は、点けっぱなしだったテレビから流れるニュースに目を留めたお母さんの声に顔を上げた。
「あれ、近くだね」
被害者は男子中学生。腹にぶすっと刃物を刺されて殺されかかったところを偶然コンビニに行こうとした男性に発見され、犯人は止めを刺す前に逃げたらしい。
「彩羽と同い年かー、誰かしらねえ」
興味深そうにテレビを見つめるお母さんの膝の上で、手鞠はビクンビクンと痙攣しながら撫でられている。
その怯え様に、私は助けてやるべきかと思いつつテレビ端の時刻を見る。―――そろそろ羽継が来そうだ。
「ちょっと彩羽、もしかしたら知り合いが刺されたのかもしれないのに興味ないわけ?」
「え、あるよ」
「興味があったら扉じゃなくてテレビを見てるはずでしょうが。まったく、気にしてないと言いつつそわそわしてるのを隠せないとこはあのひと似ね」
「…お父さんにそんなとこあった?」
「あったわよ。あのひとったら子供の頃から魔術師としては大人顔負けの天才だったけど、恋愛ごとだの友情だのは同い年以下のふるまいをしてくれたわ」
まあ、天然すぎてからかうの楽しかったからいいけど、と呟いたお母さんは、しばらく懐かしむように遠くを見た後、チャイム音を聞いてふっと笑った。
「毎回同じ時刻にご苦労様ねえ」
若いわあ、と呟いたお母さんに気づくことなく、私は急いで玄関に向かったのだった。
「―――羽継!おはよっ」
「ああ、おはよう」
扉を開け、笑顔で挨拶をする。
穏やかな声で挨拶を交わす羽継の本日の私服は、夏らしく青のストライプが各所に施された白地のシャツで目を引く。
―――爽やかでいて落ち着いている羽継の格好はいつものことなのに、前回、流鏑馬のなんとも残念なファッションを見たせいか感激した。……そうだよね、普通はこうだよね。
「…どうした?」
「あ、いや……羽継は格好良くてよかったって思って…」
一応我が家は洋館なので、もし羽継があの流鏑馬みたいなネタシャツを着て来られたら雰囲気滅茶苦茶だ。気まずくなること間違いなしである。
そう言って同意をもらおうとしたら、羽継は何故か遠くを見つめていた。なんか諦めた目をしてるけどどうかしたの?
「………彩羽、上がってもいいか」
「あ、うん。どーぞ」
ご丁寧に玄関に鍵をかけ直してから家に上がった羽継は、ほぼ毎日通っているというのに私の後ろを歩く。そのままリビングに顔を出すとお母さんが飲み物とお菓子を用意してくれていて、お母さんから解放された手鞠は半泣きで私に飛びついた――が、私に体当たりのような勢いでぶつかる前に、長い耳を羽継に掴まれて宙ぶらりんになった。
「手鞠ダヨ――?」
「知ってる」
今のは危ないからダメだぞ、と手鞠に教える羽継を尻目にお母さんから飲み物を受け取ると、「ゆっくりしていってね」とお母さんは笑う。
それに頭を軽く下げ、「すみません、お邪魔します」と言って羽継は私の持つ飲み物と手鞠を交換した。
そして二人と一匹仲良く私の部屋に入り、羽継は飲み物をトレーから出すととりあえず一口飲む。なんとなくその姿を見つめていると足元で「手鞠ハ――?」と手鞠が自分にも寄越せと訴えている。しょうがないので私の飲み物を少し分けてあげた。
「…そいつとの生活には慣れたか?」
「うん。この子、うるさいけど良い子だよ」
人の後に付いて来ては「手鞠ダヨ――」とか鳴いているものの、この子は言われたことはちゃんと守るし、洗濯物を頭の上に乗せて運んでくれたり、長い耳を使って畳んだりしてくれる。……うん、人間の真似をしてるだけかもしれないけども。でも助かる。
それに、夜中にずり落ちた布団を咥えて一生懸命私に被せようとしているのに気づいてからは愛しさも感じます。
「でもおやつの食べ過ぎはダメ」
「ウア―――ウ!」
「お、新しい鳴き方だな」
「どんどん学習してくみたい。この前なんかニュースで泣き喚いてたひとの真似してたし」
「ニュース―――」
ふとお菓子を取ろうとした手を止めて、羽継は真面目な顔をした。
「今朝のニュース、見たか」
「うん。うちの学年の誰かがブスってされたんでしょ?」
「…刺されたのは誰だと思う?」
「んー、月曜日になったら分かるっしょ」
「………」
羽継は私の反応が不満だったのか、乱暴に菓子袋を開けると口の中に放り込む。
そして咀嚼の後にお菓子を飲み込むと、ふいっと横を向いた。それは怒っているというわけではなく、確信のないことを言う時に見せる仕草だった。
「……この時期だぞ。ただの通り魔だと思うか?」
その意味に、私は思わず動きを止めた。
「…―――流鏑馬が、やったというの」
「やりかねん奴だろ、実際」
言って、羽継はまた視線をそらした。
言いにくそうな顔でさえ綺麗だと思いつつ口にすることはなく、私は気まずくて沈黙を守ることにした。
すると、溜息をひとつ吐いた羽継が、「実は、だいぶ前に聞いたんだが」と話し始める。
「一年の頃、御巫はいじめられていただろう?―――その報復が、ちょっと…な」
「えっ」
「例えば…陰口言ってた男の場合だと、体育の授業中に偶然を装ってボールを顔面にぶつけるとか。女に関してはわざわざ自分から親しげに近づいていって、他の女子にいびらせたりとか。一回上級生と殴り合いにもなってるがこれは向こうから手を出してきたってことでそんなに重い罰は食らってないな」
「うわあ…」
なお、その荒ぶる流鏑馬期間は私がだいぶ精神的にヤバかった期間と被っているので、今まで知らんかった。
「あと、一番ヤバイのが冬の帰り道――ひとりで帰る途中の御巫を暗がりに連れ込んで、女の上級生数人が鋏なんかを手に襲ったらしい。
まあ防寒着を着ていたことが幸いして、急所は避けることができたんだが……運良く他の下校中の女子が気づいてくれて、悲鳴を上げたところに流鏑馬が間に合って―――」
ぷつん、と話が切れる。
言いたくない顔をしている羽継を促すと、あの子は渋々続きを教えてくれた。
「……口の端だとか瞼の近くだとかを切った御巫を見て逆上したあいつは、加害者の女から鋏を奪い取ると拳で何発も殴って泣かしたらしい。鼻が折れるわ歯が折れるわで血生臭い現場を見た奴が言うには、地獄の鬼が呵責してると思ったらしいぞ」
「うへえ……」
「……で、この件のおかげでしばらくは誰も御巫に近づかなかったらしいが――まあ、ちまちました嫌がらせはあっただろうがな……それで進級して、お前と仲良くなったわけだ」
アレな子だけどきっとそこまでアレじゃないと信じていた私が愚かだったのか。
そこまで事件起こしちゃうタイプだとやりかねないっていうか、やるよねきっと…。
「ま、まあ…うん。もし流鏑馬がやっていたとしても、起きてしまったことに対して私たちは何もできないよ」
「そうだな。……まあ、お互い流鏑馬には気を付けよう」
うん、と大人しく頷くと、羽継は「それでだ」と私に携帯の画面を見せた。
そこには写メで撮ったのだろう立派な鳥居があって、促されて二枚目三枚目と境内の写真を見ていく。
「これ――文ちゃんとこの?」
「ああ。須藤に頼んで撮ってきてもらった」
見れば見るほど美しい敷地内である。
ここまで立派なのは、すごい神様を祀っているからなのかな。
「俺自身が見に行きたかったんだが、おじさんに止められてな。しょうがないからあいつに頼んだせいで詳しくは分からなかったが――メジャーな神様ではないみたいだな」
「じゃあなんて神様?」
「分からん。あいつ、巫女さんの評価しかしてなかった……ああっと、神様については分からんが、立派な社を持っている理由は聞いた」
「参拝客が多い…とか」
「ん―――いや、なんだ……政治家とか。明らかに訳ありっぽいのをたくさん常連客として抱えてるみたいだ。どうにも"厄除け"に秀でたところらしいんだが…肝心の巫女さんにそのご利益がないってのがまたな……」
「いや、もしかしたら逆に、守っても守っても守りきれないくらいの何かが文ちゃんにあるのかもしれない……しかし厄除けかあ……確かにあれは凄かった」
思い出すのはテケテケさん事件だ。あれ、ちょっとトラウマになりかけたんだよね…。
「そういや、あのときのクマ―――あっ」
「え。……あっ!」
あれ以来、羽継が来るときはテディベアのストラップを机の上に座らせていたのに、今日はベッドの上、枕に寄りかかったまま――しかもお母さんに頼んで作ってもらったパジャマ姿のまま……
あああああ、寝惚けてて移動も着替えさせるの忘れてたああああああああ―――っ!
「う、うあ……見ない――ってなんで写メってるの!?」
「あ…いや、ごめん、つい……」
うあああああああああ……うあ…うああああっ、羽継のばか――!
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