二
婚約者に言われた言葉が頭を回る。
リーゼは夕食を終えて自室へ戻る。すぐには眠れそうになくて、テーブルの上に置かれた蝋燭にだけ火を灯し、椅子に座って好きな恋愛小説を読んだ。けれど、すぐに本を閉じてしまう。
お話の大抵は主人公が幸せになって終わる。当たり前だ。リーゼがそういう話が好きで選んでいるのだから。悲恋なんて読まない。
「私とお兄様は……」
決して結ばれることはないだろう。兄と妹だ。けれど物語の主人公達のように、できることならリーゼだってカスペルと結ばれたかった。皆に祝福され、堂々とカスペルの花嫁として横に立ちたかった。──けれど、カスペルの横に立つのはリーゼではない。リーゼの横に立つのもカスペルではない。
そのことがどうしようもなく辛くて悲しかった。
思わず本を持つ手に力が入ると、自室の扉がノックされ、すぐに開いた。部屋に入ってきたのはカスペルだ。
「お兄様」
椅子から立つこともせず、ただ兄を呆然と見上げる。
カスペルはまた笑顔を浮かべていた。なにを考えているのかわからない不思議な笑顔だ。
「リーゼ、婚約を取りやめよう」
兄は他に聞かれることを恐れてか、声を潜めて言った。
「……でもお父様が決めた婚約者なのよ」
厳しい父がリーゼのわがままを聞いてくれるとは思えない。どうして嫌なのか、代わりに結婚するならどういう相手が良いのか、根掘り葉掘り聞かれることだろう。その時にリーゼは「兄と結婚したいから」などとまさか言えるはずもない。
「リーゼ……いっそ、この家を一緒に出よう」
まるで駆け落ちを勧める恋人のような言葉だと思って少し笑った。それが無理なことくらい兄だってわかっているだろう。けれど腕が伸ばされて、気づけば抱きしめられていた。
「お兄様……」
ずっとカスペルはリーゼのものだと思っていた。カスペルだってリーゼは自分のものだと思っていただろう。
言葉なんて告げなくても、二人の心はいつも一つで、繋がっていた。
「お兄様と私は兄妹なのよ」
「本当に兄妹かなんてわからないだろう」
兄はいつだって思ったことを口にする。その言葉はリーゼにとって聞きたいものでもあって、聞きたくないものでもあった。
両親の夫婦仲は冷めている。父親は仕事一筋の人間だ。仕事が一番大事で、他はどうでも良い。母親はそんな父親に愛想をつかしたのか、外に男がいる。
リーゼとカスペルの父親が一緒かどうかはわからない。
どちらかが浮気相手の子供で、どちらかが伯爵家の正しい血を継いでいるのかもしれないし、二人ともそうではないかもしれない。浮気相手だって一人ではないだろう。
父親は浮気相手の子供の可能性もわかっているだろうが、家族に関心がないからこそ優秀であれば伯爵家の子供として認めてくれた。
「本当に兄妹なのかも怪しい兄妹だ。想いあってなにが悪い」
「それでも本当に兄妹なのかもしれないわ」
「本当に兄妹かどうかなんて問題じゃない。血が繋がっているかも、とか。育った環境とか、何もかも。だって僕たちは一人の男と女で……好きな女の側にいたいと願ってなにが悪い」
兄の言葉は本当にまっすぐだった。おとがいを持ち上げられて上を向かされる。すぐ側にカスペルの端正な顔があった。長いまつ毛に高い鼻、薄い唇を見て、その唇が自分のと重なりそうになって慌てて顔を背ける。
「リーゼ」
「ごめんなさいお兄様」
窓の外でふくろうの鳴く声が聞こえる。庭をさくさくと歩く使用人の足音も。
別の家で全くの他人として育ち、そして出会っていれば、どれほどよかったのだろうか。それこそいつも読んでいる恋愛小説の主人公となれたのかもしれない。
「お兄様、全てを壊すつもりなの?」
「リーゼが他の男と結婚するのを黙って見ていろと?」
リーゼだってカスペル以外の男と結婚なんてしたくはないし、カスペルがリーゼ以外の女と結婚するのもいやだ。きっとカスペルに婚約者ができてしまったら心が壊れてしまうだろう。
「リーゼ」
カスペルの指がリーゼの頬を優しく撫でる。その指に頬を寄せると頭上に口づけが落ち、額、鼻の頭、と下がってきて、唇が重なりそうになって──リーゼは兄の唇を自分の指で抑えた。
「ごめんなさいお兄様。大好きよ。誰よりも。だけど無理だわ」
兄に拒絶の言葉を告げる度にリーゼの心が深く沈んでいく。本当は今すぐカスペルに口づけをもらいたかった。もっと抱きしめて欲しかった。
今ここで兄の気持ちに答えたらどれだけリーゼの心は幸せになれるだろうか。けれど、リーゼの理性がそれを止める。
カスペルはしばらく黙ったままでいたが、静かにリーゼから離れた。顔をあげてカスペルの顔を見れば、彼は泣きそうに顔を歪めていた。心は泣いているんだろう。リーゼだって涙は流せないが心は泣いている。
「お兄様、大好きよ」
「僕もだ」
「でも、妹と兄なの」
カスペルは端正な顔を歪める。変えられないのか、とカスペルは囁いた。
「変えられないわ。許されない」
誰にも祝福されない。知らない土地に行って二人で暮らしても、夫婦として暮らす男女が実は兄妹かもしれないと聞いたら、いったいどれほどの人が嫌悪するだろう。
父だって優秀な後継は手放さないはずだ。リーゼとカスペルの心に気づいているからこそ、エウフェミオのことを父は兄に言わなかったのだろうから。
カスペルは拳を握ってリーゼを見つめた。痛いほど真っ直ぐに。
「僕の妹」
「私のお兄様」
リーゼもカスペルを見つめる。もう、兄には会えない気がした。
カスペルのことを誰よりも知っている。彼は、もうリーゼに会わないだろう。でもそのことを悲しく思うけれど反対はできない。むしろ会わない方がお互いのためだ。
「大好きだよ」
兄が囁く。扉のそばまで行ってしまうともう暗くて表情がよくわからない。
「私も大好きよ」
ぱたん、と最後に扉が閉められて兄が出て行った後も、リーゼはただずっと扉を見つめていた。きっと兄も、扉の外にまだ立っている。
離れたくないけれど、離れる時がきたのだ。
次に会ったらエウフェミオには言おう。
「私とお兄様はあくまでも兄と妹でそれ以上ではありません」
その言葉がどれほど自分の心を傷つけることになってもそれは言わなくてはいけない。
兄と妹は、やはり許されないのだから。
なんとも言えない後味の小説に挑戦して見たくて書きました。ううん、と唸ってくれれば大成功です。




