一
思えば父は、家庭には向いていない最低な男だとは思うが、父親としてはそう悪くはなかったのかもしれない、とリーゼは思った。
茶髪の長い髪を使用人に結ってもらいながら窓の外を見ると、庭の木陰で読書をしている兄のカスペルが見える。
「お兄様はやはりとても素敵ね、イェルダ」
自分よりも年若い、行儀見習いに来ている少女に言えば、彼女も頬を染めて頷いた。
「カスペル様もリーゼ様も素敵な容姿をしていらっしゃいますわ」
リーゼとカスペルの家は格式の高い伯爵家の生まれだ。両親共に容姿が良く、そこから生まれる子供もやはり容姿が良い。
髪が出来上がるとリーゼは椅子から立ち上がり、兄のいる庭へ向かった。
屋敷の中庭の大きな木の木陰に入って、カスペルは読書に夢中になっていた。
淡い茶色の髪から見える灰色の瞳は伏せられていて、ゆっくりとページをめくっている。
鼻が高く端正な顔立ちは年若い女性にも、年上の女性にも人気だ。
仕事先で言い寄られることも数多くあるのだと困ったようにいつもカスペルは言っていた。
顔立ちが整いすぎてやや冷たそうに見えるが、妹のリーゼには冷たかったことなど一度もない。
「お兄様」
名前を呼べばすぐにカスペルは顔を上げ、柔らかく表情を緩めた。両親にも兄の友達にもこんな顔は見せない。リーゼにだけだ。
「おはよう、というには少し遅い時間だけど、もしかしてまた夜更かしでもしていたの?」
「わかりきった事を聞くなんて意地悪だわ」
巷の少女達の間で流行っている恋愛小説をついつい夜遅くまで読んでしまい、朝寝坊が多いのはいつもの事だ。両親はそんなリーゼに注意をしてくるが、それでも礼儀作法を教えにくる家庭教師からの評判は悪くないので、怒られたりはしない。
「今日はお父様のお仕事について行かなくていいの?」
カスペルの横に座って腕を絡ませる。淑女のする事ではないが、幸いな事に誰も見ていない。兄に引っ付くと口うるさく注意してくる父親も今はいない。
「最近ずっと仕事をしていたからね。今日は休み」
ここ最近は家に帰ってくる事も稀で、汽車に乗って遠くへ行く事もある。屋敷に残るのは、滅多に部屋から出てこない母親と使用人達だけだ。
今はイェルダがいて話し相手になっているので退屈はしていないが、それでもやはりカスペルがいないと寂しい。
思わずぎゅっとカスペルの腕を抱き込むと、彼は笑ってリーゼの頭を撫でてくれた。
「お嬢様」
そこへ母親と変わらない年齢の使用人がやって来て、リーゼに客の来訪を知らせる。客の名前を聞いて、思わずリーゼは顔をしかめた。
「リーゼ、誰?」
兄のひやりとした声に思わず顔をそちらへ向けると、カスペルは笑顔を浮かべているのに全く笑っていなかった。背筋がすっと冷える。
兄のこんな表情はあまり見たことはない。
「お父様の、決めた……婚約者です」
裕福な子爵家の長男だ。少し前に父親によって決められ、何度か会わされている。
「そうか。僕も会ってみたいな」
カスペルの目が細まる。それだけだというのに、まるで自分が小さなリスか鳥になった気分だった。
「ええ、どうぞ……会ってくださいな」
カスペルは読書をやめて立ち上がり、リーゼに手を差し出す。その手を握って自分も立ち上がり、婚約者の待つ部屋に向かった。
エウフェミオは裕福な子爵家の長男で、容姿も評判もそこそこだ。決して嫌っている訳ではないし、今までに話してきた感じからいって、悪い人ではない。むしろリーゼには勿体無い人だ。
けれどどうしても比べてしまうのだ。
扉を開けて中に入ると待っていた黒髪の婚約者に、思わずリーゼは落胆する。
「ようこそ、エウフェミオ様」
にこやかな外向きの笑顔を浮かべてリーゼはお辞儀をした。
──お兄様ととあまりにも違いすぎる。
カスペルはもっと背が高くて、顔も端正で、物腰も洗練されている。エウフェミオが悪いのではない。リーゼが悪いのだ。
兄にエウフェミオを紹介し、彼らが会話をするのをただ呆然と聞き流す。婚約者としてそこに立っているのがカスペルだったらリーゼはもっと心が浮き立っていただろう。
カスペルとエウフェミオとの会話は穏やかに過ぎて行く。ただ、隣に座る兄はずっとリーゼの手を握っていた。
リーゼも離して欲しくはなくて、手を払いのけなかった。むしろ握られる事で安心すらしていた。
婚約者の前で手を握るなど、エウフェミオの目にはどう映ったのだろうか。幼く思っただろうか。
そうして兄が使用人に呼ばれるまで三人で過ごし、兄が退室してからは使用人こそ側に控えてはいるが、実質二人きりになった。
前回会った時よりも空気が重たいのは気のせいだろうか。
「……お兄さんとは、いつもあのような感じなのですか」
あのような感じ、と曖昧に言われてリーゼは返す言葉に困る。
「あのような感じというのがわかりませんが、兄とはいつも仲が良いです」
そう答えるとエウフェミオは重く黙り込み、やがてやや強い目つきでリーゼを見据えて口を開く。
「あなたとお兄さんの仲は異常です」




