第270話 月夜の舞踏会
◇◇◇
「レイリアさん。お昼休み中にごめんなさい。あの……お話があるんです」
「どうしたの、ミーファ?」
町の娘ミーファが、レイリアの診療所を訪ねた。
ちょうど昼の時間帯で、診察は休みだ。
「私、結婚を申し込まれまして……」
「え? 結婚! わあ、おめでとう!」
「それで、レイリアさんにお願いがあるんです」
「どうしたの? 何でも言いなさいよ。うふふ」
「実はですね……」
ミーファは隣街イレヴスのライカル家に嫁ぐことになった。
ライカル家は下級貴族とはいえ貴族だ。
家柄は申し分ない。
「へえ。そんな名家に嫁ぐなんて凄いじゃない」
「ありがとうございます。ですが、私は漁師の娘で何も知りません。もし可能であれば、マナーとか教えていただきたくて……」
「そっか。婚約者はなんて言ってるの?」
「彼は『ゆっくり覚えればいい。気にしないで』と言ってくれてます」
「あら、優しいのね」
「はい。そうなんです」
照れくさそうに笑みを浮かべるミーファ。
「あらあら、惚気ちゃって。うふふ」
陶器のような美しい右手を口に当て、優しく笑うレイリア。
そんなレイリアに、ミーファは昔からずっと憧れていた。
「でも、確かにマナーは早めに覚える必要があるわ。特に食事はね」
「はい。それと、ダンスも……」
「ダンス? そうね、ダンスも必要ね。でも私は女性の方しかできないからなあ。練習するにしてもパートナーが必要かな」
「えっと、元騎士だったというマルディンさんに教えていただくことは……」
「マルディン? ああ、そうね。あの人って騎士隊長だったし、宮廷作法も知ってるはずよ。ダンスに関しては頼んでみるわね」
「はい! ありがとうございます!」
「うふふ、いいのよ。でも、ミーファが結婚かあ。先越されちゃったなあ」
「何言ってるんですか。結婚しようと思えばいつでもできるのに」
「そんなことないわよ。相手もいないしね」
「レイリアさんって綺麗すぎるんですよ。お医者さんだし、あまりにも完璧だから、男の人たちはみんな怖気づいちゃうんです」
ミーファはそう言いながらも、一人だけ思い浮かぶ人物がいた。
「でも、あのマルディンさんなら……」
「ん? 何か言った?」
「いえ。ふふ。それではよろしくお願いします!」
深く頭を下げるミーファ。
それからミーファは、時間がある時にレイリアから様々なマナーを教わった。
――
結婚が決まったミーファは多忙を極めていた。
ライカル家へ通い貴族のルールを学び、結婚式の準備や新居への引っ越し作業など、全てが初めての経験で目まぐるしい日々を過ごす。
それでも愛する者との未来が待っていることで、喜びと幸せを噛み締めていた。
結婚式を一週間後に控え、ミーファはレイリアの診療所へ足を運んだ。
「ミーファ、あなたはもうどこへ行っても恥ずかしい思いはしないわよ。よく覚えたわね」
「レイリアさんの教え方が上手だったからです。本当にありがとうございました」
「違うでしょう? 彼のために頑張ったのでしょう?」
「そ、それは……。は、はい……、そうです」
「いいわねえ。羨ましいわ。うふふ」
ミーファはレイリアに向かって、深く頭を下げた。
「さて、じゃあ最後はダンスね。これからマルディンが来てくれるわよ」
「はい!」
空が赤く染まり始めると、レイリアの言葉通り、乗馬したマルディンが診療所を訪れた。
マルディンが下馬すると、黒風馬のライールがレイリアに近づき顔を寄せる。
「ライール。久しぶりね。元気だった?」
「ヒヒィィン!」
レイリアに顔を撫でられ、嬉しそうな声を上げるライール。
マルディンはそんなライールの背中を撫でながら、レイリアに視線を向けた。
「レイリア、遅くなってすまん。クエスト帰りでな。一旦自宅に戻って着替えてきたんだ」
「忙しいのに悪いわね」
「いや、問題ないよ」
マルディンがミーファの正面に立つ。
「ミーファと会うのは初めてだな。マルディンだ。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
ミーファが貴族の礼を披露した。
「ほう、よく出来てるじゃないか。全く問題ないぞ」
「ありがとうございます」
頬を紅潮させるミーファ。
「さっそく始めようか。ミーファのダンス経験は?」
「初めてです。彼には教わってる最中だと伝えています」
「なるほどね。まあそんなに難しくないから安心していいぞ。すぐに覚えるさ」
マルディンはレイリアに視線を向けた。
「レイリアは?」
「私は一応できるわよ」
「そうか。では……」
マルディンがレイリアに向かって手を差し伸べた。
それは宮廷ダンスの誘い方だ。
「ミーファ、まずは見ていろ。俺とレイリアで踊るから」
「ちょ、ちょっと」
突然のことに焦るレイリアは、両手を胸の前にかざしながら困惑の表現を見せる。
「できるんだろ? 最初は見たほうが早いさ」
「そ、そうだけど。もう、突然なんだから」
「はは。さ、レイリアお嬢様」
「はいはい、仕方ないわね。ミーファ、見ててね」
レイリアはマルディンの手を取る。
「うわあ……」
二人の華麗なダンスに、ミーファはただ見惚れるだけだった。
――
マルディンとレイリアは、二人揃ってミーファの結婚式に参加した。
全てが順調に進み、式は無事に終了。
泣きじゃくるミーファは、二人に感謝の言葉を繰り返し述べた。
マルディンが特別に用意した高速馬車で、二人は宵の口にティルコアへ帰還。
「ミーファ、綺麗だったなあ」
「ああ、そうだな」
ミーファには申し訳ないが、マルディンは隣に立つレイリアが最も綺麗だったと思っていた。
もちろん、会場でも全員がそう思っていたほどだ。
結婚式でレイリアは何人かの貴族とも踊ったが、誰からもその後の誘いはなかった。
マルディンの存在が知られていたからだ。
実はレイベール地方の下級貴族は、ほぼ全員がマルディンを知っている。
ジェネス王国騎士隊長だったことや、千人殺しのことまでだ。
そのパートナーとして出席していたレイリアを、誰が誘えようか。
若い貴族たちはレイリアを見た瞬間に色めき立ったが、隣にマルディンがいたことで絶望していた。
「レイリア、着いたぞ。さすがに疲れただろう?」
「そうね……」
「明日は仕事だろ? ゆっくり休むといい」
レイリアを診療所へ送り届けたマルディン。
日は沈み、水平線から満月が顔を出していた。
「ねえ、まだドレスは脱いでないわ」
「ん?」
レイリアは、そっと右手を差し出した。
月光を受けて、陶器のような肌が淡く輝く。
「夜はこれからよ、騎士様」
「そうだな……」
マルディンはその手を取った。
そして、二人は小高い丘の上へと歩みを進める。
風がドレスの裾を揺らすたびに、華やかな香水の香りがマルディンを包み込む。
「夜風が気持ちいいな」
「ええ、夜はまだ涼しいわね」
丘の上に立つ二人。
正面には、満月によって宝石のように輝く翠玉色の海が見える。
いつもと同じ景色だが、マルディンはいつもより美しく感じていた。
その最大の理由であるレイリアに、ゆっくりと視線を向ける。
夜鈴虫の鳴き声は、まるで宮廷楽団が奏でる舞踏曲のようだ。
「踊りませんか、レイリア姫」
「よろしくてよ、マルディン卿」
月夜が照らす丘の上。
二人だけの舞踏会は、銀の光に包まれていた。
◇◇◇




