第221話 海の魅力と恐ろしさ1
「ふう、ふう」
俺は極度に緊張していた。
何度も大きく呼吸を繰り返す。
「い、行くか」
篝火が暗がりの足元を照らす。
俺は覚悟を決め、一歩踏み出した。
足を乗せた板が軋み、大きく揺れる。
「マルディン、大丈夫?」
すでに先にいるフェルリートが声をかけてきた。
「ああ、すぐ渡る」
「おっさん! 早くしろ!」
ラミトワが騒いでいるが無視だ。
俺は桟橋と船を繋ぐ板の上を慎重に歩く。
そして、船上の人になった。
「よし、乗ったぞ」
「船に乗るだけで、なに緊張してんだよ!」
「うるせーな。昔から大きな船は嫌いなんだよ」
「飛空船持ってるだろ!」
「船と飛空船じゃ違う。飛空船で死ぬことはない」
「いやいや、マルディンさん。飛空船の方が危険でしょ? 飛空船は墜ちたら死ぬんだよ?」
「俺は空から墜ちても助かる自信はある。だが、海に落ちたら間違いなく死ぬ」
「はあ? 普通は逆だっての!」
ラミトワが俺の腹を何度も叩きながら、呆れた表情を浮かべていた。
「ったく、いつになったら泳げるようになるのかね。マルディンだって、もうティルコアの男なんだよ」
俺は身体を動かすことなら、大抵のことはできると思っている。
空から堕ちても、糸巻きがあれば対応する自信がある。
だが、泳ぎだけはダメだ。
どうやっても海で泳ぐイメージが湧かない。
海面に視線を向けると、船上で炊く篝火が、僅かに海面を照らしている。
泳げないが、海は嫌いじゃない。
「別に泳げなくても困らんしな」
「うふふ、なに言ってるのよ」
呟いていたら、一人の女性が姿を見せた。
海風に黒髪をなびかせながら、美しくも優しい笑みを浮かべている。
「あなた、これを先に飲みなさい」
「レイリアか」
レイリアが黒い飴玉のようなものを二つ渡してきた。
「なんだこれ? 飴玉?」
「酔い止めの薬よ。飴玉も酔い止めの効果があるとは言われてるけどね」
「薬か。ありがとう。助かるよ」
「いえいえ、誘ってくれて嬉しいわ」
今日は仲間たちと海釣りへ行く。
元々、シャルクナに釣りを体験させることが目的だった。
小舟に乗りながら、港内で釣りができれば良かったのだが、漁師ギルドのギルマス、イスムに話を聞かれ、漁船で外洋に出ることになった。
ティルコアに来て一年半、俺はこの地で初めて外洋に出る。
「はい、これお水よ」
レイリアから水筒を受け取り、薬を口に入れ、水で流し込んだ。
外洋に出ると船は大きく揺れる。
俺は騎士時代に、任務で船に乗ることもあった。
さすがに任務を拒否することはできないため、命令に従っていたが、荒れた北海はまさに地獄だった。
うねる波は簡単に平衡感覚を奪い、身体に残るものは極度の船酔いだけだ。
「この薬はかなり効果が高いわ。それでも船酔いが始まったら教えてね」
「ああ、ありがとう。お前は平気なのか?」
「まあね。昔は父の漁船にもよく乗ったもの。ここにいるティルコア出身者はみんな平気よ」
レイリアが笑顔で俺の右肩に触れた。
「じゃあ、薬を渡してくるわね」
レイリアは、ティアーヌとシャルクナにも薬を渡していた。
二人とも船酔いをするのか分からないが、飲んだほうがいいだろう。
「ねえ、今さらだけど、なんでマルディンは泳げないの?」
フェルリートが隣に立ち、俺の顔を見上げていた。
「なんでって言われてもなあ。祖国は海に落ちたらすぐに死ぬんだよ」
「え! どうして!」
「極寒の海だ。冷たいなんてもんじゃない。あまりにも冷たくて、すぐに意識を失って沈んでいく。だから、俺はそもそも海で泳いだことがなかったんだ」
「でも、ここの海は温かいよ? 一緒に海へ行ったこともあるじゃん」
「ああ、真夏は風呂のように温かいよな。足がつけばいいが、深いところは身体が拒否するんだよ。泳ぎだけはダメだ。できると思えない」
「そっか、マルディンって何でもできそうなのにね。ふふ」
「誰にだって欠点というものがあるんだよ。あっはっは」
俺たちの会話を聞いていたラミトワが、左手を腰に当て、右手で俺を指差した。
「私に欠点なんてないけどな!」
「あーそー」
叫ぶと同時に変なダンスを踊り始めた。
そのダンスが欠点なのだが、口は災いの元だ。
面倒なことになるので黙っておく。
甲板で話す俺たちをよそに、船員たちは慌ただしく出航の準備をしていた。
「よし! 錨を上げろ!」
「錨を上げろ!」
イスムの掛け声にグレクが応えた。
そして、船員たちが錨を巻き取る。
「出航!」
イスムが大声を上げると、帆を広げた船が前進を開始。
三本のマストに張られた帆が風を掴み、力強く海を進む。
「凄いな。海の上を飛んでるようだ」
港内は波が穏やかなため、海の上を滑るように進んでいく。
波をかき分ける音が、なかなか心地良い。
船員たちに指示を出しながら、イスムが近づいてきた。
「どうだ、マルディン。海は楽しいだろ?」
「海に入らなきゃな。眺めるのは好きだよ」
「落ちても助けてやるから安心しろ。がははは」
「落ちねーよ!」
豪快に笑いながら、俺の肩を何度も叩くイスム。
「漁場に着くのは日の出頃だ。それまで船内で寝ていてもいいぞ。ゆっくりしてろ」
「ああ、ありがとう」
俺は篝火に照らされる甲板に目を向けた。
今回の釣りの参加者は俺、フェルリート、アリーシャ、ラミトワ、リーシュ、レイリア、ラーニャ、ティアーヌ、シャルクナだ。
それぞれ海を眺めたり、自由に行動している。
「マルディン。翠玉の威風の乗り心地はどうだ?」
「お、グレクか」
グレクが声をかけてきた。
この翠玉の威風はイスムが所有する船で、種類はキャラベル船という。
キャラベル船は小型に分類されるそうだが、翠玉の威風の全長は二十メデルトもある。
「ああ、快適だよ」
「翠玉の威風で船長がイスムさんだ。船酔いは大丈夫だぞ。それほどあの人の指示は的確だからな」
伝説の漁師と言われるイスムだ。
海を知り尽くしているのだろう。
今回の船員は十名ほどいる。
目的は俺たちの釣りなのだが、手が空いた船員はついでに漁もするそうだ。
漁師の中で知り合いは、ギルマスのイスム、いつものグレク、謹慎中だが呼び出されたフスニ、シタームだ。
シタームは以前、皇都のサーカス団に所属していたが、事件に巻き込まれこの町に帰ってきた。
そして現在は漁師である父親ドルムに師事し、日々海に出て修行している。
今日は特別にこの船に参加した。
というか、イスムに呼び出されたそうだ。
「よう、シターム。今日はよろしくな」
「はい! みなさんがたくさん釣れるように頑張ります!」
「期待してるぜ」
そしてなぜか、レイリアの父親アラジもいる。
「なんでアラジがいるんだ?」
「マルディンの釣りの師匠は儂じゃぞ。弟子のお主が初めて外洋に出るんじゃ。一緒に行かなくてどうする」
「師匠?」
いつ師匠になったのかは不明だが、確かにアラジと釣りへ行くことはある。
それにアラジは釣りの達人だ。
漁師は引退しているものの、今でも港で釣りをして、時折釣った魚を俺に分けてくれる。
「おい、アラジ! マルディンは俺の弟子だ!」
「ぬかせ、イスム。儂はいつもマルディンに釣りを教えとるんじゃ」
「バカめ。マルディンの竿は俺がやったものだ」
この町の漁師は、師匠が弟子に竿を送る風習がある。
俺はイスムから業物の竿をもらっていた。
「ぐ、汚いぞ!」
「がははは! 俺が師匠だ!」
相変わらず、この町の老人たちは元気だ。
二人とも師匠と名乗ってくれるのは嬉しいが、釣りが下手な俺なんかの師匠と名乗っていいのだろうか。
甚だ疑問だ。
「あなたって、老人にも人気者なのね。うふふ」
レイリアが俺の背中に触れながら笑っていた。




