第161話 最後の晩餐5
「子連れだよな」
「ええ、そうよ」
森には静寂が戻っており、そのおかげで別の方向から音が聞こえている。
「咀嚼音か……」
「罠の方角ね……」
罠に戻ると二頭の小さな大爪熊が、茶毛猪と闇翼鼠の肉を食らっていた。
大きさはまだ五十セデルトにも満たない、生後数ヶ月の大爪熊だ。
「どうする?」
「そうね……、無慈悲のようだけど……」
すぐ近くで俺たちが会話しても、大爪熊は無心で肉を食っている。
「人の味を覚えた大爪熊は、将来必ず人を襲うのよ」
「ああ、そうだ」
「生かしておけないのよ」
「そうだ」
ラーニャはこれから起こることを想像し、自分に言い聞かせているようだ。
大爪熊を見つめながら、腰のポシェットから小さな瓶を取り出し、蓋をそっと開けた。
「白王桃の香り……。トルルリシンか?」
「……そうよ。トレファスさんは予想してたようね」
トルルリシンは、蛇印草と青宵蠍の猛毒から精製される液体だ。
生産量は少なく非常に高価な上に、取り扱いは厳格に行われている。
研究機関で保管していた物だろう。
これを少量でも飲むと、その直後から猛烈な眠気に襲われる。
そして、そのまま眠るように苦しまず死ぬ。
そのため、貴族など地位のある者を処刑する際に使用されることが多い
なお、トルルリシンは精製の段階で、果物の王と呼ばれる白王桃の甘く芳醇な香りが発生する。
裏の世界では、白王桃の香りがしたらトルルリシンを疑うのは常識だ。
大型のモンスターですら命を落とすほどの猛毒だが、警戒心の高いモンスターたちは匂いに反応して口にしない。
だが、生まれたばかりの子供には分からないだろう。
俺たちの会話を理解できない大爪熊の子らは、ひたすら肉を食っている。
「美味しそうに食べてるわね。お腹減ってたのかな」
「そうだな」
「こうしていれば可愛いのになあ」
「そうだな。だが、人を食ったモンスターとは絶対に共存できない」
「ええ、分かってる……」
さすがのラーニャも、モンスターとはいえ子供を殺すことは躊躇しているようだ。
毒をかければ、この大爪熊は確実に死ぬ。
「ラーニャ、俺がやるよ。親を殺したのは俺だ。子も責任を持つ」
「マルディン……」
ラーニャの手からそっと瓶を取る。
「俺を恨め」
この二頭にとって、これが最後の晩餐だ。
俺は肉にトルルリシンをかけた。
「あの世で仲良く暮らしてくれ。……すまん」
それでも肉を食らう大爪熊たち。
徐々に動きが遅くなり、最後は兄弟で寄り添うように肉の上に倒れた。
ラーニャが俺の肩に顔を寄せる。
「マルディン、ごめんなさい。ありがとう」
その声は大きく震えていた。
――
翌日、俺はギルドの支部長室を訪れた。
ラーニャと挨拶を交わし、ソファーに座る。
ラーニャは珈琲を二杯淹れて、俺の正面に着席した。
「マルディン。お疲れ様」
「大丈夫か?」
「何が?」
「いや……、なんでもないよ」
ラーニャの表情はいつもと変わらない。
何を考えているのか分からない、妖艶な笑みを浮かべている。
「大爪熊の死骸はどうした?」
「夜のうちに回収したわ。これから研究機関で研究が行われるけど、トレファスさんによると、間違いなくネームドに該当する個体だそうよ」
「だが討伐した後だ。ネームドリストには入らんだろ?」
「非常に珍しいけど、討伐後にネームド認定される事例もあるのよ。今回はリスト入りが濃厚ね」
「そうか……」
「リストに入ったら、マルディンは二回連続でネームド討伐よ。信じられないわね」
「そんなもんは偶然だ。狙ったわけじゃない」
「本当に凄いわ。あなたはどこまで行くのかしらねえ。報酬については、また連絡するわね」
相変わらず人の話を聞かないラーニャだ。
ネームドになろうが、俺が大爪熊の親子を殺したことに変わりはない。
住人に被害が出ているし駆除は当然だ。
しかし、それでも……。
「ラーニャ、今日の夜の予定は?」
「んー、特に予定はないわよ。どうしたの?」
「……飲みに行かないか?」
「珍しいわね」
「そんな気分なんだよ」
「実は……私も同じよ」
「じゃあ、夜に繁華街の入口で」
「分かったわ」
手続きを終えた俺は、ギルドを後にした。
――
約束の時間を迎え、俺はラーニャと二人で一軒の酒場に入った。
麦酒と一緒に、肉や魚など食べきれないほどの食事を注文。
「こんなにどうしたの?」
「……追悼だよ。亡くなった住人。罠として使わせてもらった茶毛猪と闇翼鼠。そして大爪熊親子にな」
「そうはいっても食べきれないわよ」
「どうせ朝まで飲むんだろ? それまでには食べ切るさ」
「あら、朝まで付き合ってくれるの?」
「そんな気分なんだよ」
俺たちは献杯し、麦酒を飲み干した。
続いて、地元産の黒糖酒を注文。
お互いいつもより口数は少ないが、考えてることは同じだろう。
ラーニャが俺のグラスに黒糖酒を注ぐ。
「ねえ、マルディン。人生の最後は何が食べたい?」
「そうだな。最後は……ラーニャのサンドかな。あっはっは」
「あら、冗談でも嬉しいわね。うふふ」
「ラーニャは?」
「そうねえ。私はやっぱりティルコアのお魚料理かしら。故郷の味だもの」
「そりゃいいな」
俺は黒糖酒を口に含み、焼き魚をつまんだ。
「ティルコアの魚は旨いからな」
「あなたにとっても、もう故郷の味じゃないの? うふふ」
「……確かにそうだな。あっはっは」
俺が最後に口にしたい料理。
それは故郷のスープだ。
今でも鮮明に覚えている。
厳冬期の猛吹雪の夜、不安と恐怖で押しつぶされそうになった幼少の頃に、家の中で食べた湯気が立ち上る熱々のスープ。
具は僅かな野菜だけで驚くほど質素だったが、黄金色のスープは身体も心も温めてくれた。
俺にとって一生忘れられない味だ。
「ほら、飲むぞ」
俺はラーニャのグラスに黒糖酒を注ぐ。
ラーニャが微笑みながら、グラスに注がれる黒糖酒を眺めていた。
「なんだ? 飲まないのか?」
「ううん」
ラーニャがハンカチを取り出し、一回だけ目に軽く押し当てた。
「マルディンが一緒に飲んでくれて良かった」
「まあ、俺も今日だけはラーニャと飲みたいと思ったんだよ」
「今日だけ?」
「当たり前だ」
「もう……。じゃあ、今日はとことん飲むわよ」
「ほ、ほどほどにな」
「黒糖酒追加しちゃおうっと」
ラーニャが黒糖酒を三本注文した。
店員もラーニャだからと驚かない。
「くそっ。ネームド相手よりもキツいぞ……」
「うふふ」
それでも俺は、翌日のことを考えずにグラスを掴んだ。
ラーニャが俺のグラスに黒糖酒を注ぐ。
「マルディン。本当にありがとう……」
そして、いつもの妖艶な笑みを浮かべた。
「死なないでね」
「縁起でもないこと言うな!」
俺はグラスを頭上に掲げ、少しだけ瞳を閉じる。
そして、黒糖酒を一気に飲み干した。
◇◇◇
後日、大爪熊は正式にネームドリストに追加された。
付与された名はマード・ムーロ。
『大きな壁』という意味だ。
壁のような巨体と、子供を守る壁という意味が込められている。
もちろん研究機関も、この大爪熊を美化しているわけではない。
住民の犠牲があるため、この名前は公表されなかった。
あくまでも、リスト管理のために付与された名だ。
今回マルディンが受け取った報酬は、討伐と素材買い取りで金貨五百枚にもなった。
マルディンはその全てを町役場に寄付。
犠牲者の遺族への補償と、町の防壁設置代として使うように町長へ依頼。
これ以降、森と町の境界には、大型の害獣やモンスターが侵入できないように壁が設置された。
そして偶然にも、この壁はマード・ムーロと呼ばれるようになる。
なお、マルディンのネームド二頭連続討伐は、世界中の冒険者たちに知られていく。
その結末とともに。
◇◇◇




