21.ハリーと侯爵夫人
ハリー回です。
ハリーがキリンジ侯爵家の屋敷に来てから二ヶ月ほど経ったある日、ハリーは一人で侯爵邸の庭で蟻の巣を見ていた。
本日、姉のシンシアは、朝から城の騎士団へと出掛けた。シンシアが騎士団へ行くのは今日で3回目だったと思う。
ハリーの姉はヨハンソン子爵家の起こした脱税と密輸の件で、重要参考人として騎士団に協力しているのだ。
そう、ハリーは今、シンシアがどうして城へお手伝いに行っていたのかの理由をちゃんと知っていた。
昨日の朝、シンシアが庭の東屋でハリーと2人きりになった時に全部話してくれたのだ。
父親の子爵が亡くなった事も、父親が“だつぜい”と“みつゆ”をしていた事も、シンシアが“必要に迫られて”父親の悪事を手伝っていた事も。
ハリーには、父親の“ししゃく様”が亡くなったというのはあまりピンとこなかった。
子爵はハリーの父親なのだが、触れあいはほとんどなかったので、亡くなったと聞いても悲しかったり苦しかったりはない。
死、というものは何となく怖いなと思うが、同じ様に死んでしまっているハリーの母親は空からハリーを見守っているらしいので、“ししゃく様”もきっとそこに行ったのだろうと思っている。
「ししゃく様も、母上と同じお空に行ったの?」
シンシアにそう聞くと、シンシアは少し黙ってから「そうね」と言った。
なら、問題ない。きっと父親も空からハリーを見ているのだろう。
その父親が行っていた“だつぜい”と“みつゆ”は悪い事であったらしい。誰かを傷つけたりはしてないけれど、汚いお金を手にいれるような事だったのだとシンシアは教えてくれた。
そしてシンシアは“ししゃく様”が亡くなってしまったので、“ししゃく様”の代わりに騎士団に悪い事の説明をしに行っているらしい。
シンシアは、「必要に迫られてとはいえ、私も悪い事をしたの。だから説明に行くのは私の仕事なのよ」と言って、「アラン様が私が必要に迫られて悪い事をしていたのを、騎士の人達に言ってくれたから、捕まったりはしないのよ」とハリーを撫でてくれた。
昨日の時点では、「そっかあ、ならよかった」と安心していたハリーなのだが、今朝シンシアが出掛けてからふと考えたのだ。
シンシアはなぜ、“必要に迫られて”いたんだろう、と。
ハリーは蟻の巣の出口に石の粒を置いた。石の粒はすぐに退けられる。
(もしかしたら、姉上は僕のせいで悪い事をしてたのかな)
それは考えた末に出てきてしまった結論だった。
ハリーは今度は石ころを蟻の巣の出口に置いた。蟻達がわらわらと集まってきて、石ころを動かす。
ハリーは子爵家の離れでシンシアと暮らしていた時に、シンシアが時々見せていた悲しそうな笑顔を思い出した。
(姉上が悲しそうだったのは、僕のせいだったのかな)
ハリーはやるせなくなって、棒きれで蟻の巣の出口をぶすぶす潰した。蟻達は大わらわだ。
「坊や、アリさんのお家を壊すのは、よくないわよ」
突然、そんな声が上からかかってハリーはびっくりした。
棒切れを離して顔を上げると、ハリーの金髪より淡い色合いの金の髪をきっちりとアップにして、豪華なドレスを着た目付きのきつい女がハリーを見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい」
「まあそれくらいなら、アリさん達はすぐに直しますけどね。デュークみたいにお水とか流しちゃダメよ。アリさんが死んじゃいますからね」
「はい、気をつけます」
女は少し怖そうにも見えたので、ハリーは頑張って丁寧な言葉使った。
立ち上がって女に向き合う。
知らない人だと思った。
でも、女はハリーを知っているように思える。
「……初めておめにかかります。レディ、おなまえをおききしてもよろしいですか?」
ハリーは最近、ハリーの家庭教師をしてくれているステラに教わった挨拶を言ってみた。
侯爵邸の侍女達にこれをすると、きゃあきゃあと、とても評判がいいのだ。
怖そうな目の前の女にも好評だったようで、女はにっこりと笑った。
「こんにちは、小さな紳士。私はクリスティナというの」
クリスティナは少し屈んで、ハリーと目線を合わせて自己紹介してくれる。
見た目ほど怖い人ではなさそうだ。それに挨拶の仕方がアランと同じだ。
ハリーはクリスティナはいい人だと認定した。
「僕はハリーだよ。ええと、クリスティナさん」
ハリーはちゃんとクリスティナに“さん”を付けた。これもステラから教わったマナーだ。
「ティナでいいわよ、ハリー」
「ティナ」
怖い見た目には似合わない可愛らしい呼び方だな、とハリーは思ったけど、それは口にしなかった。
デリカシーというやつだ。ハリーはデリカシーもある立派な6才の男なのだ。
「ティナは、ここのお家の人なの?」
「そうよ、あっちの大きい方の棟に住んでるのよ」
クリスティナはお屋敷のハリー達の居る棟とは反対側を指差した。
ハリーがアランを知っているか聞くと、よく知っているという。友達なのかと聞くと、「友達以上、恋人未満ってところねえ」とよく分からない答えが返ってきた。
でもステラとは“にじゅうねんらいの”友人だといった。とにかく、ハリーの友達と先生の知り合いであるならクリスティナが悪い人である訳がない。
ハリーはすっかりクリスティナに気を許した。
そんなクリスティナのお部屋には、昔、デュークという人がくれた玉虫の標本があるらしい。
「見たい?」
そう聞かれてハリーはもちろん頷いた。
るんるんでクリスティナに付いて屋敷へと入ると、入り口の所でケイティがぎょっとしていた。
ケイティはクリスティナと目が合うと「怒られても知りませんよ」と小さく言って、ハリーには「行ってらっしゃい」と微笑んでくれた。
クリスティナの部屋はとても広くて豪華だった。当に絵本のお姫様の部屋だ。
「うわあ」と感心していると、棚から宝石のような玉虫達をきれいに並べた箱が出てくる。
「うわあ!」
ハリーは歓声をあげて、その輝くエメラルドのような虫達を眺めた。
「きれいだねえ」
シンシアにも見せてあげたいなあ、と思い、ハリーは庭の蟻の巣の前で考えていた事を思い出してしまう。
途端にしょんぼりするハリー。
「どうしたの?」
クリスティナがハリーの様子に気がついて聞いてくる。
ハリーはシンシアと自分の事をあまり知らないクリスティナになら、自分の悩みを言いやすい気がして口を開いた。
「ねえ、ティナ。僕にはね、とっても大切な人がいるんだ。でも僕はその人の足を引っ張っているかもしれない」
「それは、大切な人がそう言ったのかしら?」
「ううん、あね、シンシアはそんな事は言わない」
「なら、足を引っ張っているかは分からないわよ」
「でも、きっとシンシアは僕のせいで悪いことをしたんだ」
ハリーの声が涙声になる。
6才の立派な男が女に涙を見せる訳にはいかないので、ハリーは腕で顔を覆ってごしごしと目を拭いた。
クリスティナは優しくハリーの背中を撫でてくれた。その撫で方は3人の息子を育てたケイティと少し似ている。
「それで、ハリーはどうしたいの?」
「僕、シンシアの足は引っ張りたくない」
「なら、強くならないといけないわね」
「強く? でも僕は小さいよ。虫は平気だけど」
クリスティナがにっこりする。
「背はすぐに伸びるわよ。それに、あなたはステラに勉強も見てもらってるんでしょう? 」
「……うん」
そこでハリーは、家庭教師初日のステラに言われた事を思い出した。
「あなたが身に付けた知識は誰にも奪えないあなたの財産で武器になるの、今の内に一生懸命学びなさい」とステラは言った。
そして女であるステラにとって、知識はほとんど唯一の武器だったらしい。
「とても役に立ったのよ」そう言ってステラは微笑んだ。
「大きくなって、賢くなれば、強くなれるわ」
「そしたら、シンシアの足は引っ張らないね」
もしかしたら、シンシアを守る事だって出来るかもしれない。アランみたいに。
ハリーは強くなろうと思った。
背はすぐに伸びるらしいけど、ステラの言う武器も身に付けた方がいいだろう。
虫はもう平気だから、このままでいい。
「ティナ! ありがとう、僕、がんばるよ!」
やるべき事が分かったハリーは、晴れ晴れとクリスティナに礼を言った。
クリスティナはうんうんと頷いて、「そろそろ、お母上が帰ってくるんじゃないかしら?お部屋に戻ってた方がいいわ。私と遊んだ事は内緒にしててね。また内緒で遊びましょう」とハリーを促す。
「内緒? どうして?」
「アランに怒られちゃうのよねえ」
「アランに? アラン、優しいよ。怒ったりしないよ?」
「ふーん? アランは優しいのね。へえ、ふーん。ねえ、アランはお母上にも優しい?」
「うん! 僕、アランがすっごく優しい目でシンシア見てるの知ってるよ!」
「あらあ、見たいわねえ。それ、すごく見たいわ」
「じゃあティナもおいでよ。朝ごはんの時とかアランは溶けちゃうくらい優しい目なんだよ」
「まあぁ、ふふふ、その内にね。今は怒られちゃうのよ」
「もしかして、アランと喧嘩中なの?」
「そんな所ね、仲直りしたら一緒にごはんも食べましょうね」
「うん! 約束だよ!」
元気よく約束したハリーは、クリスティナの部屋の外に控えていたケイティと共に自分の部屋へと戻った。




