生命の木1
ずいぶんと遠くへ来てしまった。
私は今、森の中にいる。
どことももう判然としない、深い森の奥。
木々がこの世界の王者であるかのように存在感を持ち、鬱蒼と緑が生い茂っている。春も過ぎたというのに、ここは陽の光が天井の木々でそのほとんどを遮られていて、少し寒いくらいだった。しかしそれゆえに、陽の光がいつにも増して貴重なもののように感じられた。木々の隙間からこぼれ落ちてくる陽光が、天からの贈り物ででもあるかのように地面へと落ちていくさまは、見ていて不思議だった。
足元の地面は、こけむした石や、堆肥のようになった落ち葉で覆われていた。そんな森の中は滑りやすく、歩くのに注意が必要だった。
すっと息を吸い込むと、濃密な緑の空気を感じた。大気さえも、ここでは緑が支配している。
ここは植物の楽園だ。
ここが人の入ってはいけない禁域のように思え、人である私が異質なものであることをやけに強く感じた。
この森に入り込んでから、もう数時間が経過していた。登山道を脇にそれて、道なき道を進み、もうここがどこなのかも、方向感覚もなくなっていた。
私はいったいどこへ行こうとしているのか。なぜこんなところへ来てしまったのかも、もうよくわからなくなっていた。ただわかっていたのは、己の足がこの森の奥へ、さらに奥へと足が向かっていることだけ。
鳥のさえずりや、虫の鳴き声、木々のざわめきといった音をこんなに間近で聴いたことがなかった。そんな音を聴き続けていると、なにか、体中のすべてがその音に満たされていくような気持ちがする。
もっと。もっとだ。もっとその音で満たさなければ。すべて今までの私を形作っていたものを、体から追い出してしまわなければ。
そのとき私は、森の一部になりたいと思っていた。私という形も心も歴史も、なにもかもを投げ出して、ただの森の一部になってしまいたかった。木々の枝葉を形作る、その一枚の葉になりたい。葉の葉脈の中を流れるものの中に溶け込みたいと、そう思った。
しかしそれは瞬間的なもので、次の瞬間には、もう意識は違うところへ行っていた。私はなにかに操られてでもいるかのように、ただひたすらに足を森の奥へと進め続けた。
森の奥へ奥へと進んでいくと、そこに、自然界にはないはずのものを見つけた。
白い色をしたなにかが落ちていた。近づいてよく見てみると、それは軍手のようだった。こんな山の奥深くにそれが落ちていたことに、私は驚きを隠せなかった。誰も足を踏み込んだことのないところまでやってきたような気がしていたのに、すでにそこには誰かが来ていた。
駄目。まだこんなところでは、駄目だ。
私はさらに森の奥深くへと足を進めた。誰も、絶対に辿り着けないような森の奥深くへと行かなければ。誰にも見つからない場所に行かなければ。私は焦りのようなものを感じ、早足になりながら、足場の悪い山の斜面を登っていった。
大きく一歩を踏み出した、そう思ったそのときだった。ざざざーっという音を立てながら、私は山の斜面を滑り落ちていった。木の枝やら石ころやらが体に擦れて、痛いなんてものではなかった。しかし声を上げることもできなかった。
かなりの距離を落ちてしまったような気がする。周りを見回す。相変わらずそこが森の中であることには変わりはなかった。
滑り落ちたときに打ちつけた腰や背中が痛かった。擦れた傷が服から出ていた腕や足にできていて、血が滲みだしていた。服や髪の毛には枯れた葉や枝などがくっついて、泥にまみれていた。
なんだか急に自分のしていることが馬鹿らしく思えて、私は声を出して笑った。
私はいったいなにをしているのだろう。こんなところまでやってきてどうしようというのだろう。
きっと私は今、遭難者というものになっている。しかし、それは自ら望んだ結果でもある。
私は遠くへ行きたかったのだ。
ふと、鳥の鳴き声が近くから聞こえた気がした。頭上を見ると、小さな白い小鳥が飛んでいくのが見えた。あの鳥はどこへ行くのだろう。そんなことを考え、なんとなくその小鳥の飛んでいった方向へ行ってみようと思った。
ふらふらとした足取りで歩いていく。あの小鳥はどこへ行ってしまったのだろう。目の前の森を見つめていると、それは永遠に続くように思われた。道標もなにもない、こんな場所を歩き続けていれば、そのうちのたれ死んでしまうのだろうか。死、という言葉が浮かび、私は筋肉をこわばらせた。
もしかすると、私はここへ死ににきたのかもしれない。
ざくっざくっと、靴の裏で枯れ葉を踏みしめながら歩く。ただ遠くへ行きたかった。どこでもいいから私の存在が誰にも見つからないところへと行きたかった。しかし、なぜ私はこの森を選んだのだろう。この寂しい森を選んだのは、結局死地をここに求めたということなのではないだろうか。
死にに来た。そうなのか。私は死に場所を求めていたのか。
再び鳥の鳴き声が聞こえ、あの白い小鳥が飛んでいくのが見えた。
あの小鳥が私の死に場所を示してくれる。そんなふうに思い、私は歩を進めた。誰も辿り着いたことのない、そんな場所を、あの小鳥は教えてくれているのだ。
「待って」
小さな声で、そう言った。小鳥にそんなことを言っても仕方がないというのに。私はもう、体力の限界が近づいていることを感じていた。足が重く、前へ進む速度は、どんどん遅くなっていった。それでも、私はあの小鳥を追いかけなければいけないと、そう思いこんでいた。そうしなければならないという、なかば脅迫めいた思いで、重い足を前に進めていった。




