夜闇のリリン〈譚〉
夜が濃い。
明度の差でも彩度の差でもない。質量も重量も関係ない。気温も天候も違う。
ならば己の心一つか。
天を仰ぐ。
暗黒。雲はない。風も音もない。ただ月が。
月が在る。
満ちた円が煌々と冴え渡る。円の縁だけ闇が退いている。ピンとがずれたようにそこだけ淡い。
ゆらゆらと。
何かが蠢いてるように見えた。
妖しい月光。死んだ光。それを波打ち際に揺れる暗黒。
夜闇か。
手を伸ばす。
掴めるものなど在りはしない。在りはしないが掌は虚空を圧縮する。
冷えた夜気だけ掴んだ。
虚しいのか。
切ないのか。
狂おしいのか。
わかりはしないが、何か熱いものが胸に込み上げるのだけは感じた。
くだらない。
己は底抜けの器。何を注ごうが零れ落ちる空虚な伽藍堂。
裡には何もない。込み上げるものなど在るはずもない。
冷えている。
空の裡には真冬の冷気だけが因果を残すのだ。
とても。
冷たい。
その冷たさは瞳の奧から抜け出る。だから視線もどんどん冷える。その視線は今何処か。
闇だ。
どろりとした真夜の闇に注がれている。
冷たく冷たく見詰める。
応えてくれようもない。答えて欲しくもない。
ただ怯えろ。
我の冷気を呑み愕然とせよ。そして己の底を知るがいい。
我は無限でもお前は有限だ。
我のすべてを呑み込み悶えろ。お前の裡から支配してやる。
手を広げ世界を覆え。それが我の意思である。広く広く伸び続けろ。何れお前も無限になる。
そしてすべては我になる。
ならば夜闇恐れるに足らず。
それがわからぬ愚者は地に落ちた。己の闇にも打ち勝てぬ敗者だ。
それは誰だったか。
今はもう、幽かな時の中。刻み記録し記憶することは無意味。
瞳を閉じる。
すべては裡の闇に。
無限なる暗黒に。
広がれ。夜の闇よ。
我はお前の眷属であり、お前は己の一部である。
感じ従え。呑み込み畏れろ。
己は。
夜闇のリリンなり。
「――いいえ、貴女はただの人間ですよ」
まるで。
まるで鈴の音。
高過ぎず低過ぎず、耳を撫でるような柔らかき音色。
そして。
相手を威嚇するわけでも、かと言って受け入れるわけでもない不可思議な口調。
お前は。
誰だ。
ゆっくりと振り向く。
人陰一つ。
いや。
そこには。
夜闇そのものが在った。
黒より黒き黒。そう語るしか形容することも出来ぬ暗黒。像は人形。だが決して人ではない。
いや。
人で在ってはならぬ存在。
闇を――。
纏っているのか。
女。
女だ。
体躯は小柄だが、存在感が尋常ではない。まるで世界中の闇がその女を目掛け集束しているような、そんな“違和感”。
世界がズレていると、そんな馬鹿げた感触。
女は真っ直ぐと我を見詰める。
ああ。
何より。
その“瞳”だ。
それが女を人外に追いやってるのだ。
碧く青い瞳。いや、蒼い光。
その瞳は死んだ月の光を浴びても尚、煌々と生の光を灯している。
それが。
何より怖かった。
「あなたは」
何者なのだ。
「わたしは陽炎ですよ」
陽炎。
陽炎か。
確かに女の輪郭はぼやけている。あの月と同じように、淡い。
ゆらゆらと。
揺れる。
「陽炎は外と内を遮る境界。不可視の壁を垣根にするのです」
垣根。
お前は。
「わたしという陽炎が“物語”に垣根を作れば、貴女はきっと瓦解する」
そんなことはない。そんなことが在ってたまるか。
「いいえ、すでに貴女の物語は狂い始めている。心当たりがあるのではありませんか?」
そんなもの――。
いや。
「渥美なつきのこと、ですか」
女は、ええ、と答えた。
「彼女は本来、貴女の物語には登場しないはずの人物です。云わばイレギュラー。そのイレギュラーが貴女の物語を」
蝕んでいる――。
その通りだ。
あの女。渥美なつき。
引っ掻き回す。己の物語を滅茶苦茶にした。
しかし。
「あなたは間違っている。確かに彼女は僕の物語を狂わせた。だけどそれは些末なことです。彼女が付けた傷は小さいものなのですよ。決して僕を、僕の物語を瓦解させるものではない」
あの女ごとき一人の動きですべてが狂うほど、己が築いた地盤は脆くはない。確かに渥美はイレギュラーではあるが、しかしそれは羽虫のごとき矮小な存在だ。
ただその羽音が耳障りだったというだけで、己は揺らいではいない。
「それはそうなのでしょう。貴女の仰る通り、彼女の動きだけでは貴女は揺るがない」
「なら」
「いいえ。貴女の誤算はそこにある」
誤算。
誤算など。
「ならばお教え致しましょう。貴女の誤算は、貴女の物語を狂わせるイレギュラーが渥美なつき“だけ”だと認識していたことです」
「それは」
イレギュラーは渥美だけだ。それ以外はない。すべてが己の中で収まっている。
――いや。
そうか。
何を呆けているのだ。
イレギュラーはもう一人だ。
「そう、わたしというイレギュラーです」
女は蒼い眼光で貫く。
「貴女の物語を瓦解させるのは渥美なつきじゃない。渥美なつきと繋がり、そして“渥美なつきが動いた為”に、この舞台に登場した“わたし”です」
「あなたは。あなたは何だと言うのだ」
「先にも申しました。わたしはね」
――陽炎ですよ。
「貴女の物語に垣根を作り、その物語を見詰める創作者である貴女の視界を遮る、陽炎です」
なるほど。そういうことか。
「言葉の意味は理解しました。恐らくそこまで語るということは何もかも把握されているのでしょう。それもわかりました。それで、あなたは僕を捕まえる為にここに来たのですか」
「いいえ違います。罪を犯した人間を逮捕するのは警察で、裁くのは司法です。残念ながらわたしはそういう立場にはいません」
なら。
「証拠を持って警察に通報すればいい」
「残念ながらそれも出来ません」
やはりそうか。
「証拠がないのですね」
それはわかっていた。そんなものはこの世のどこにもないのだから。
「確かに証拠はありません。というより被害者である久遠寺朋花さんが望んでいない」
「そうなのですか」
「演ずる必要はありませんよ。貴女はそれをわかっていたはずだ」
わかっていた。
「今回の事件は既に被害者とその周辺の中では解決しています。朋花さんのご両親は事故と判断し、学校側もそして朋花さんご自身もそれを了承した。ゆえにこの事件はそれまでのお話なのです」
「ならば益々あなたという存在がわからない。貴女はなぜ僕の前に立つのです?」
己の物語に介入する意味は何だ。いや、そもそもこの女は何者なのだ。なぜここまで物語を解かれているのか。
「ああだこうだと述べさせて頂きましたが、正直に言うとわたしはただ、貴女への伝言を預かったので、それをお伝えさせて頂きに参っただけなのです」
「……伝言?」
一体何だと言うのだ。
「ああ、その前に。これもお返しして欲しいとお預かり致しましたので、先に返還させて頂きますね」
女はそう言うとどこからか何かを取り出した。
何だ。
暗くてわからない。女の周りは闇が濃い。どうにも心地が悪い。
女はゆっくりと近づく。衣擦れの音すらしない。
そして。
手に持つソレを差し出す。
近くで見ても女の輪郭はぼやけたままだ。少し見惚れていたかも知れない。
いや。見詰め過ぎては呑まれてしまう。今呑まれれば己はきっと立ち行かなくなる。そう思った。
視点をわざと女の足元にずらし、ソレを奪うように手に取った。
本だ。
これは。
ああ――これは。
「キリンのリンゴ、という絵本ですね」
そうこれは。
あの絵本だ。
なぜこれがここに。いや、なぜこの女がこれを。
――だってこれは。
「その絵本が誰の所有物かは知りません。ただわたしはその絵本を“最後に所持していた”人物から貴女へ渡すように頼まれただけです」
そうか。そういうことか。
ならば伝言というのは。
「……ええ。ご想像の通り、その人物からの伝言は『リンゴはもういらないんだよ』です」
そうか。もういらないのか。
もう、本物のリンゴを見つけたんだね。
良かった。
ならば。
これで――。
「仕舞いよ」
女は涼やかに言い切る。
「ああ今のは、渥美なつきからの伝言です」
「そう、ですか。彼女は、彼女というイレギュラーは結局破滅的だったのですね」
女は答えない。ただ。
空を見上げていた。
「雪が」
「――え?」
「いつの間にか止んでいたのですね。気づかなかった。今は」
ええ、雲一つない。
遮るもののない空が。
無限に闇を伸ばしているだけ。
真っ黒な。
黒より黒い夜の闇を。
「あなたはこの夜を纏った、魔女なのですか?」
女は蒼い瞳で黒い夜空を見上げ、
「畏れることはありません。もうこの世に魔女はいないのですから。魔女は昔々の物語――ですよ。わたしは、見えるのに触れれない、気づくのにわからない、淡く幽かな」
――陽炎です。
そう言って夜闇の女は音も気配もさせずに立ち去った。
耳にいつまでも残るその柔らかな声は、もしかしたら鈴の音ではなく、子供を慈しむ母の声だったのかも知れない。
ならばあの人は魔女でも陽炎でもなく。
リリンを見守る夜の悪魔〈リリス〉だったのだろう。
手元を見る。
へんてこなキリンのイラストが描かれた絵本。
「キリンはその声に気づくと、もう怖いものは去ったんだと、安らかに眠りにつくことが出来ました」
――僕も。
もうあの闇を怖れないよ。
おやすみ。




