1 魔王の恋人
夜中だと思っていたが、存外、人影は多い。
昼間の如き数多の灯りの下、笑いさざめく人族の群れを見ていると、懐かしい思い出が蘇ってきた。
我が治める土地ゲエンナでも、祭りの夜はこうしていつまでも灯りが絶えなかったものだ。
「……レイヤ、ねえ、レ――あっ……」
「どうした、ヘルガ」
ふと、腕の中のヘルガが私に呼び掛けていることに気付いて視線を下げる。頭の中がガンガン鳴ってて、何だか視界がぐらつくような気がしたけど、しばらく立ち止まっている間に治まってきた。
眉を寄せるヘルガの視線はオレじゃなく横に立つ斎藤さん――淫魔シトーに向けられている。
「……おい、シトー。お前な」
「えっ? やだなぁ、我が主。そんな怖い顔で見ないでください。何も取って食ったりしませんよ。ただちょっと、その女いつまで魔王さまのことあの名前で呼ぶのかな、良い加減に物覚え悪いなって……」
えへ、とわざとらしく笑って見せるシトーを視線で牽制しておく。
ヘルガに向け、宥めるように笑顔を向けた。
「恐れるな。お前が私をどのように呼ぼうが、私は構わぬ」
「……いいえ、良いわ。あなたは、もうレイヤじゃないのね」
「えっ……?」
誰かの名前が呼ばれたような気がしたけれど、ノイズが走ってそこだけよく聞こえなかった。
待ってよオレはオレだよ、と返事をしそうになって――いや、何を言っているのかと軽く頭を振る。
私を黙って見上げていたヘルガは、ため息を一つつくとぐっと腕を引いた。
「ねぇ、下ろして。一人で歩けるわ」
「嘘をつくな、無理だろう」
「嘘だとしても、魔族の腕の中よりはマシよ」
「おっ……言いますね、この女。よろしいではないですか、我が主よ。こんな腐れ妖精、この辺りにうっちゃっておきましょう。きっと後で見知らぬ親切な魔族が骨も残さず塵にしてくれますから。わぁ! とってもエコ! 素敵!」
「うるさいぞ」
「はい」
口を閉じたシトーは放置することにする。
ヘルガの身体をそっと地面に下ろしながら、桃色の瞳を覗き込んだ。
「嫌だと言うなら下ろすのは構わんが……せめて、私の腕を取れ。初級魔術で完治する訳もない。もう一度言うが、一人で歩くのは無理だ」
「……分かってる、けど」
「それに、あれだけ暴れて来たのだからな。いつ追手が来るかも分からん。私を遠ざけたいにしろ、その胸の機械をもう一度取ってやれる時までは、せめて一緒にいてくれ。頼む」
起き上がるのを手伝うため、肩に手を回す。
ヘルガはもう拒みはせず、私の手を受け入れた。立ち上がりながら、ぼそりと呟いている。
「……違うのに、一緒なのね。そういうところ」
「ん? 何か言ったか」
「何にも。ただ、あなたのことを何て呼べば良いのかって聞いただけ」
「私を? 私のことは――」
私の――オレの――名前は。
「あーもう! この妖精女、本当にクリティカルに嫌なとこ突いてきますね! 我が主よ、ほら、しゃっきりしてください! あなたの名前は――」
「――我が名はバアル。偉大なる魔族の王たる者なり」
「わかりゃ良いんですよ、まったく」
「……バアル?」
偉そうに頷くシトーを見ながら、ヘルガが呟く。
彼女の唇が私の名を呼んだ途端に、霧が晴れたように頭痛が消えた。
私は首を振り、歩き始める。ヘルガを腕に捕まらせると、片足を上げて跳ねながらついてきた。そのスピードに合わせてゆったりと先を行くと、一歩後にシトーが従う。
それがあまりにもいつもの通りだったので、何だか心まで軽やかになった気がした。
「……はは、そうか、なるほど。途端に楽になった。どうやら私は何者かに存在自体を脅かされているようだな、シトーよ」
「仰る通りです、我が主。あなたは今ちょっと特殊な状況にありまして。私のように記憶力が良くないので、困ったことになっているのですよね」
「昔から、その人を下げて自分を上げる癖をやめろと言い続けているというのに、お前、結局直ってないのな」
指摘してやると、どこか嬉しそうに肩を竦めた。
そうだ、シトーは昔からこういう男だ。
スィリアとレスティキ・ファに叱り付けられては舌を出して誤魔化す。
2人の名前を思い出し、ほっと胸を撫でおろした。
我が親愛なる友と、愛しい恋人の名を。
シトーもどこか安堵した様子でこちらを見ている。
「いやあ、主よ。ようやく調子が出て来たみたいですね。じゃ、いきましょうか」
どこに、とは問わなかった。
私がいるべき場所は一つしかない。
「うむ、ゲエンナの我が居城はどうなっておるかな?」
「一足先に見に行きましたがね、とりあえず住めなくはないですよ。一応形はありますし」
「ふ、荒れ果てた我が家でもひとまずは――ん?」
ふと足を止め、人混みの向こうに視線を向ける。
腕にすがっていたヘルガが、もの言いたげにこちらを見上げる。
「ああ、悪い。何だか呼ばれた気がして」
「呼ばれた? この街に、今のあなたを呼ぶようなものは――っあ!」
シトーが何かに気付いたように、慌てた声を上げた。
しかし、その時には既に私は、壁に寄り掛からせたヘルガを置いて人混みへと歩き出している。
「あっあの! 待ってください、我が主! 魔王さま! ちょ……ストップ!」
「どうした、シトー。何を慌てている?」
「いえその……我が主におかれましてはご機嫌麗しう――あの、ほら、横へ侍らせる女は今の妖精だけで十分なんじゃないのですかね!?」
「何をまだるこしいことを言っている。そもそもヘルガはそういう相手ではあるまい。無礼を申すな」
「はっ――え? 違うのです? あの妖精女、主の寵を得るためにあの手この手で気を引いているじゃないですか」
「あんた本っ当にそういうとこアレだよな! 何でそういう風に取るかなぁ……もう良いから、あんたはヘルガの傍にいてやってくれよ。あいつケガしてるんだぜ!? 1人でおいとくの心配だろうが」
「あああああっ私ったらもう――折角良い方に振れてたのに……! 待ってください、我が主!」
ヘルガの横にいろと言っているのに、何故かすがりつくようについてくる。
鬱陶しいのでその手を払いつつ、気になる方へと進んでいると、ふと、暗がりの向こうに人の壁ができている一帯を見付けた。
「……何だ、あれ?」
「待って――待ってくださいって! あっ……ちょ、あなた、誰の足踏んでるんですか!? あーもう! 人族はどの世界でもすぐこうやって群れるんだから――ここは新宿駅かよ! 数が多すぎて半分くらい燃やしてやりたい!」
後ろの方で人にぶつかってごちゃごちゃしているシトーの言葉に、また頭痛がぶり返してくるような気がした。苛立ち紛れに足を進める。
人の輪の向こうを、前の人族の肩越しに覗き込む。
地面に押さえつけられた誰かの姿が見えた。
泥に汚れた長い金髪。
すり傷の痛々しい白い手足。
何より、その青い――見間違いようのない青い――瞳が。
――アル、セ、イ――
「――レスティキ・ファ!」
思考より早く、その名が唇を滑り出た。
前方の男を突き飛ばし、思わず駆け寄る。
「――っ何だ、お前!? 邪魔するつもりか?」
脇から掴みかかられそうになったが、軽く払って輪の中まで踏み込んだ。
近寄れば、暗闇の遠目で感じていたよりも、レスティキ・ファは酷い状態だった。
破り取られた服の下、滑らかな肌が露わになっている。殴られたのだろうか、頬が腫れ押さえつけられた鼻からは血が流れ、手足には強く掴まれた指の跡が痣になっていた。
何を思うより先に、燃え立つような激しい怒りが我が内を焦がした。
私のレスティキ・ファに、何ということを!
私の――オレの――誰よりも大切な――
「――私の恋人に薄汚い手で触れるとは、貴様ら、命が惜しくないようだな」
炎に煽られるような煮え滾る怒りは、声に出せば冷えて低く響く。
私の声で初めて気付いたのか、数人の男がこちらを振り向いた。
もちろん、私の視線が捉えていたのは、ただ一つ。
ようやく焦点を結びこちらを見た、レスティの青い瞳だけだった。




