11 【遥けき】日々 1
魔王の記憶がぐらりぐらりと脳を揺らす。
傾いだ身体を、斎藤さんの――シトーの手が支えた。
指先が、絡みつくようにオレの脇腹の傷に触れる。
痛みはない、ただ圧倒的な違和感でその場に崩折れそうになる。
慌てて戻ってくるアルセイスの足音が聞こえたような。
だけどそれよりもっと近く、耳元に微かに囁かれた。
「魔王さまの記録にだってあるでしょう? 基盤構成が違うだけで、記憶庫は同じはずだ。ちゃんと走査してください。さあ、何が見えますか……?」
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
女神の掟は絶対。
背いてはならないと、この世界の全存在が認識している。
――いや、逆か。
私達は皆、そのように作られたのだ。
けして背かず、運命に従って生きる存在として。
女神が作った存在は、何一つ無駄も誤りもなかった。
我らはそれぞれに役割を定められ、それを果たす為だけに存在した。
伝達者たるフェアリーが川を通じて海へ運び、マーメイドが取り込んで、智を司るエルフ達が保管する。
不要物はサラマンダーによって廃棄され、エンジェルが検分した後、新たにドワーフ達が創造する。
人族の制御の下、世界は滞りなく回る。
我らは――魔族は、世界の管理者だ。
全ての種族が、運命通りに動いているかどうかを監視する存在。
人族という制御装置も存在すると言うのに、我らが女神はそれだけではご不満らしい。
不満と言うべきか、不安と呼ぶべきか。
世界の外から監視する管理者を置くべきだと考えたのは、女神なのだから。
我らは世界に支配され、かつ世界から外れた存在。
他の七種族の描く輪廻には入れない者。
だから――見守るしかない。
恋人が、友人が、深く愛した者をサラマンダー達が埋葬するのを。
再び複製が生まれるまで、ただ待ち続ける日々を。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
「――繰り返される複製に、遺伝子の方が耐えられぬのだ。世界は緩慢に破滅に向かうのが明白だ。これを黙って見過ごすことはできない」
山上に、冷たい風が吹いた。
マントと共に私の髪が跳ねあがり絡みつくが、目を閉じることはしなかった。
見下ろす先に蹲るのは一人の男。
その足元で、岩に張り付いた苔がじりと剥がれて落ちる。
力で捻じ伏せ、ようやく私の前に膝を突かせたとは言え、男は私の言葉を理解したようには見えなかった。ひねくれた黒い瞳は虚ろで、何を感じる様子も見せない。
管理者の長たる私は、尋ねるより前にその名を知っている。
記憶装置から強制的に引き出した同族の名はシトー。淫魔シトー。
シトーは無造作に長く伸ばした前髪の下から、私をじっと見つめている。
「……で、あんたが言いたいのは、女神をぶっ殺すから力を貸せってことだけか。魔王なんて大層な肩書きぶら下げて、わざわざ俺を揶揄いに来たのか?」
拗ねた様子も、私には寂しさとしか感じられなかった。
私も同じだ。永久と定められた日々を、ただ決められた場所を監視することで生きてきたのだから。
シトーの管理区域はエンジェル達の住むガローデマーン。広大な天空を――演算を続けるエンジェル達を眺めるだけの日々は、さぞや辛かったに違いあるまい。
私が黙って頷いて見せると、シトーは少しの間沈黙した。
それから、呆れた様子で乾いた笑いを漏らす。
「馬鹿じゃないのか、くだらねぇ。そんなこと出来るもんか。死ぬことさえ自分の思うように出来ねぇのに」
「そうか、お前も試したのか」
私も同じだ、と呟く。
一瞬だけ、シトーの瞳が揺れた。
輪廻へ割り込めないかと、何度自殺を試したことか。
この手から何度も失い、そしてまた次に再び出会えるまでの長い空白に耐えかねて。
同情から立て直したシトーが私を睨み付ける。
「それで? 同じだから何だって言うんだ。魔族はみんな、死ぬことを許されねぇってだけだろ。早く持ち場に戻れ、あんただけじゃなく俺まで女神に怒られちまう」
「不在を誤魔化す方法がある。長年かけてようやく確信を得た。これなら――そう簡単に女神にはバレない」
「……何だと?」
瞬間、瞳に宿った光の色の活力は、希望と呼ぶに相応しいものだった。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
私が抱えて来たベヒィマの姿を見て、シトーは初めきょとんとした顔をしていた。
直後、ごう、と吹き上がった山風に煽られて慌てて後退る。
その表情があまりに無防備だったので、こみ上げる笑いを殺し損ねた。
「……何笑ってんだよ、あんた」
「いや、何……ふふふ」
「笑ってる場合かよ、何を連れてきやがった」
「何って――見れば分かるだろう。我々と同じ魔族の娘だ。名前はベヒィマ」
私の横腹にしがみついたベヒィマが、ぎっとシトーを睨み付ける。
シトーもまた渋面を浮かべてベヒィマを見下ろした。
「名前なんざどうだって良い。俺が聞いてるのは、何故その魔族の娘とやらがここにいるかってことだ」
「あたしがここにいて問題ある?」
「大ありだろ、ここは俺の管理区域だぞ!? てめぇは自分の区域に戻れ!」
「何よ、あんたも知ってるんでしょ。こっそり管理区域を離れる方法。そうじゃなきゃ、この人の顔見てそんな平然としてられるわけないし」
つん、と唇を尖らせてそっぽを向いたベヒィマを見て、シトーは苛立ちを募らせたらしい。
「うざってぇ上に性格最悪か、こいつは!」
「落ち着け、シトー。お前が喧嘩腰だからいかんのだ」
「そーよ、何もかもあんたが悪いのよ」
「――っざけんなよ、てめぇ!」
掴みかかろうとしたシトーの身体を、咄嗟に掴んで止めた。
どうにも魔族は他人との交流に欠けるせいか、折衝や譲り合いに難のあるものが多い。異常を修正する感覚で、目の前の問題を排除しようとするのだろう。
「離せよっ! こいつ……ぶん殴ってやる!」
「短絡的に物を言うな。お前らがぶつかって怪我でもしてみろ、それこそ女神に察知されるぞ」
「……ぐぐぐぐぐ」
振り上げた拳を震わせながら、唇を噛みしめて踏み止まる。私の腰から手を離したベヒィマが、その正面で挑発するように舌を出した。
「こんの……」
「落ち着けと言っている。ベヒィマも止めろ」
「ふん、こいつの顔見ていると腹が立ってくるのよ」
「ああ、俺もだよ」
「……良かったな、気が合うじゃないか」
「違うわよ!」
「そうじゃねぇだろ!」
双方から同時に噛み付かれるが、どうにも腑に落ちない。
やっぱり気が合うんじゃないだろうか。
「……とにかく。無用な諍いは止めろ。我らは同じ目的に向けて手を組んだ者同士だ。足の引っ張り合いをしても始まるまい」
しばし睨み合った後、2人は同時に顔を逸らした。
視線を合わせないことは、停戦の意思の現れらしい。獣のようだ。
ひとまず緊張した空気が薄れたことで、私はほうと息を吐き、シトーに向けて尋ねた。
「それで。エンジェル達の様子はどうだ」
「今のとこ変わった様子はねぇ。あいつらも俺達と一緒で少しばかり特殊だから、注意して見てはいるが」
「特殊……?」
ベヒィマの独り言を拾って、シトーは軽く眉を上げた。
「見たことねぇのか、あんた」
「『テメェ』から『アンタ』に繰り上げ? 随分と魔王に懐いた子犬ね」
「――こんの」
「止めろと言ってるだろ。ほら、シトー。百聞は一見に如かずだ、案内してやれ」
今度の睨み合っている時間は短かった。
ベヒィマは好奇心を抑えられず、シトーは見せびらかしたい気持ちを我慢できなかったようだ。
顎をしゃくって先導するシトーの後を、私の背中を掴んだままベヒィマが追いかける。私はベヒィマの手に押されながらシトーに続いた。
巨石を乗り越えて、風の通らぬ冷えた洞窟に踏み入る。
湿った空気の奥、立ち止まったシトーが足先でそれを指した。
「……ほら、こいつだよ」
背後でベヒィマの息を呑む音が聞こえた。
シトーは少しだけ頬を緩めたが――それでも、笑う気にはなれなかったようだ。そのまま、視線を足元へ戻した。
転がっているのは、動きを止めて久しい一体のエンジェルだ。
壊れてからかなり時間が経っているのだろう。穴の開いた胴体から覗く歯車は錆つき、見開かれた瞳は光を失って内側から曇っている。壊れている――死んでいるのは明白だった。
折れた腕から流れたオイルが、シトーの足元を黒く汚す。
背中の羽から落ちた羽毛がオイルに塗れて散らばっている。
「……これは、何?」
掠れたベヒィマの声に答えたのは、シトーだった。
「エンジェルだ。ちょっと裏の手を使ってね、サラマンダーが埋葬する前に隠しちまった。ふん、まあしばらくは見付からないはずだぜ。ひらひら飛ぶだけが仕事のエンジェルなんざ、女神の忠実な下僕、命令の指示者――」
「――天空舞う麗しき機械製下僕、世界の演算装置だ」
私の声が後を取って洞窟に響く。
反響に怯えるように、ベヒィマの手が強く私の腰を抱いた。
その頭を軽く撫でてからしがみつく腕を外し、壊れたエンジェルへ一歩近付く。
機械製下僕の唇は、もの言いたげに半ば開いたまま。
私は冷えた唇に指先を当て、こじ開ける。
その内側に接続し、必要な情報を吸い上げるために。




