7 回る運命
「許さない許さない許さないんだからぁっ!」
必死に叫びながら、その身体は大きく揺れている。限界を超えた状態なんだろう、とはすぐに分かった。
焦点も危うい漆黒の瞳は、だけど確かにオレを睨みつけていた。
千切れた袖、破れたスカート。腕も足も肌を晒し、乾いてどす黒く変色した血液をこびりつかせながら、それでも立っている。
気を失ってたはずなのに、ここにいるのは何故なのか。説明してくれるとも思えない。言葉以上に、オレを見ているその表情から、憎しみを感じた。
――だけど、何故、魔王がこんなにも憎まれているんだろう。
魔王の復活は、魔族からすれば喜ばしいことなんじゃないのか。
それぞれに孤独だった魔族を呼び集めた魔王。
その人が恨まれるとしたら、志半ばに魔王がこの世界を去ったからだろうか?
孤独な人々を、救うと誓った人々を置き去りにして。
それが、彼女には裏切りと映るのか。
――私が、裏切った、と。
ベヒィマの声を聞いて、どくり、と胸の中で魔王が動いた。
オレはひとまずそれを宥めつつ、ベヒィマの方へと向き直る。
「ベヒィマ、あんたはオレのことを許さないと言うが――」
「――うるさい! あんたが……あんたなんかが、あたしの名前を呼ぶなあっ!」
ベヒィマの踏み出した足が、ばきり、と小枝を折る音。
「――!? レイヤっ」
瞬間、アルがオレの右腕を引いた。
背後からジーズの声が響く。
「――【極限破壊】!」
まずい、ベヒィマにばかり注意が向かってた。防御が間に合わない。
アルがオレの身体を抱え込む。背中を爆風に押されて、そのまま一緒くたに吹っ飛んだ。
空中で離れそうになる右手を引いて、しっかりとアルの身体を掴む。
来る――と思った瞬間に、肩が地面にぶち当たり、バウンドしてそのまま地面を転がった。
止まらない――今はどっちが上でどっちが下なのか。ぐるんぐるん回る視界の端に、地面が途切れているのが見えた。
崖だ。落ちる。ヤバい――
勢いのまま、投げ出された身体が跳ぶ。
咄嗟にどこかに掴まろうと藻掻いて――足掻いた左手が、二の腕の先で宙を切った。
「……あ」
――ない。
肘から先に、あるべきものがない。
いや、そうだ、なくなったんだった。
吹っ飛んだはずの腕には、既に魔王の魔術がかかっていたんだろうか。
痛みもないし、血が吹き出すこともない。利き手じゃないからすっかり忘れてた。
良いや、腕一本なかろうが、それ自体は大したことじゃない。
それよりも、今まさに落ちかけていることの方が問題だった。
掴まれない。
駄目だ、落ちる――
せめて守りたいと引き寄せた右手の中で、アルセイスが呪文を叫ぶ。
「――淀みなく及ぼせ ――【力場の固定】!」
ぐっと腰を上から掴まれたように、落下する速度が遅くなった。
転がりながら呪文を唱えておいてくれたらしい。物に力をかけて、浮かせたり沈めたりする魔術だ。上向きに力を加えられて、落下する速度が少し遅くなった。
が、落ちている状況は変わらない。多少空気抵抗が強くなったようなものだ。
そもそも、魔力消費が大きいので、そんなに長い間発動し続けられる魔術でもない。
アルセイスはオレにしがみついたまま、ぎゅっと眉を寄せた苦しげな表情で【力場の固定】を維持している。
その身体を胸の中にぎゅっと抱き込んで、そのまま背中から地面に激突した。
「――ぐっ!」
「……っれ、レイ、ヤ……?」
痺れるように広がる背中の衝撃の後、胸元でもぞもぞと動いている感触。どうやらアルも無事みたいだ。
かなりの距離をから落ちたはずだけど、【力場の固定】のおかげでとりあえず即死は免れた。とは言え、すぐに立ち上がれそうな状況じゃ、ちょっとない。
腹の奥から込み上げてくる塊を、咳き込んで吐き出す。
口元を熱い液体が流れ落ちた。
ヤバい、いくらひどくぶつけたからって、良い年してよだれなんて恥ずかしいな。
慌てて拭った右手が、赤黒い汚れに塗れる。
……血?
認識した途端に、閉じたはずの唇を割ってぼたぼたと溢れてきた。
「レイヤ!? お前、またどっか――」
慌てて身を起こしたアルセイスが、オレの身体を見下ろして絶句している。その視線を追いかけて、オレも言葉を失う。
いや――そもそも、これで声なんて出る訳がない。
オレの脇腹、肋骨の真下辺りから飛び出た太い木の枝が、空を指していた。
どうやら着地点は偶然、倒木の真上だったらしい。
立派な大木の枝は、オレとアルの体重で折れるなんてこともなく、ぶっすりオレの身体を貫いたのだろう。
「……今、治癒魔術をかけるから!」
オレの太腿にまたがったまま、アルセイスが呪文詠唱を始める。
魔術で折られた枝が抜き取られる時だけ、肋が軋むような違和感を覚えた。
どうにも現実感がない。
痛みのない、じりじりとした痺れだけが身体を走っている。
どういうことだろう。
確かに、これはオレの身体のはずなのに――
――そう、私の身体のはずなのに、どこか自分のものという気がしない。
私と共有しているからだろうか。
呼ばれもしないのに、こんなに簡単に入れ替わるとは。
……いや、やはり呼ばれたのだろうか。レスティではなく、ベヒィマの悲痛な声に。
まあ良い、そんなことよりも気になるのは、らしくもなく呪文を間違えながら、何とか私を助けようとするレスティの姿だ。
その憔悴した様子を見ながら、ごぽりと鳴って血を吐く喉を面倒臭く感じた。
か弱い身体。
こんなことで、すぐに使えなくなるなんて。
かつて女神に与えられた肉体には、もう少し耐久性があったはずだが。
文句を言っていても仕方ない。このままここにいれば、ジーズもベヒィマも追ってくるだろう。
私が戦えないなら、レスティを、早くここから逃さなければいけない。
名前を呼ぼうとして口を開けたが、血の塊ばかりが溢れてくる。
そんなつもりではないのに、うがいのような音ばかり、喉元でごろごろと鳴っている。
「――【治療】! それ以上喋ろうとするな……傷に障る」
3度目の【治療】を終えたレスティが、瞳に涙を溜めて私を見下ろす。
笑い返そうとして吹き出し、ついに鼻から血が垂れた。
ああ、もう最悪だ。こんな情けないところを見られたくはなかったのに。
咳き込む度に撒き散らされる汚れが、レスティの頬を汚す。拭いてやりたいが、私の手はもう既にどろどろに汚れていた。
さて、どうしようかと考えているところへ――聞き慣れた声が響いた。
「――魔王さまっ!」
ばたばたと騒がしい足音が近づいてくる。私と千年を共にしたと言うならば、少しは落ち着け、と言ってやりたい。
だが、まあ……助かったのは事実だ。
今の私では、泣きながら何度も【治療】を繰り返すレスティを守ってやることは出来ないだろうから。
いて欲しい時に傍にいるのだから、やはり彼は私の側近なのだろう。
微かな喜びを感じたけれど、勿論そんな言葉は口に出来ないまま、首元に見慣れた気配が跪くのを感じた。
「魔王さま、大丈夫ですか!? これは一体――」
シトーの声が、途中で途切れる。
どうしたのだろう。
目を開けると、眼鏡の向こうで見開かれた黒い瞳が、じっと私の身体を見下ろしていた。
「……これは、まさか」
まさかもクソも、死にかけてるのは私にだって分かっている。
どうせ死ぬならもうそれで良いから、せめてレスティだけでも逃して欲しい――と、言おうとした。
声は出なかったけれど。
それでも、シトーならばそれくらい分かるに決まっていると、何の根拠もなく信じていた。
……いや、駄目だな。言葉が使えてさえ、シトーとは意思疎通できないことも多い。
多分、今回も伝わってない。
だが、まあ伝わらなくとも何とかしてはくれるはずだ。突然大声で喚いて、レスティを逃がす囮くらいにはなってくれる。そういう奴だ、昔から。
そういうものも含めて、信頼と呼ぶなら、多分。
これ以上なく、私はシトーを信頼している。
笑い混じりにシトーの顔を見上げたが――その瞳に浮かぶのは、絶望と怒りの色だった。
「……待ってください、どういうことです。あなた……あなたは一体……?」
震える声が、私の頬に当たる。
「……あなたの身体は何で出来ているんですか?」
その視線が当てられている私の左手から、こきり、と何かが噛み合う音がした。
「血が……止まっ、た……?」
黒く濡れた両手を上げて、レスティが囁く。
言葉通り、腹の奥から溢れ出していたものはもうなく、ようやく空気が通い始めた。
ごほ、と最後の塊を吐き出してから、私は空いた右手で顔を拭う。
「……ああ、レスティ……助かった。さあ、すぐにティルナノーグへ向かおう。ジーズが我々を追いかけているとしても、ティルナノーグを目指しているとしても同じだ。私達も戻り体勢を整えよう」
右手で脇腹を押さえつつ、起き上がろうと身体を捻って――触れた指が、冷たく硬い感触に当たった。
ぎしぎしと軋みながら、それでも回る。
小刻みに動きながら、行きつ戻りつ。
リズミカルに鳴って、私の身体に動力を伝える。
肉の隙間、開いた傷の奥で――歯車がカチリ、と冷えた音を立てた。




