47 なんも覚えてないけどたぶん二回世界救った(完)
火事場泥棒でGAMPの銀行を襲い、一足先に魔貨を戦場に送った姫宮ソニアと神々廻臾衣は漁船で九条獅狼――――波野司の元に急いでいた。東京は地獄めいた火の海と化し、埠頭付近で行われている世界の命運を決める戦いに介入するには海から近づくしかない。
小型漁船を巧みに操舵し荒波を越えていくのは中年のベテラン漁師で、頬にキスマークをつけ鉢巻を締めて目を血走らせている。
避難指示を無視して港に残っていた漁師をソニアが札束が詰まったトランク(魔貨強盗のついでに手に入れた)で殴り無理やり船を出させたのだ。
酷い荒波と熱波と燃え盛る街並みに完全に腰が引けていた漁師も美少女二人の色香と金の魔力、そして人命救助のためという耳障りのいい大義名分にアテられ奮起している。
臾衣は好きでもない男に接吻し甘い言葉を囁いていいように操るソニアにドン引きしつつも感心していた。ソニアには必要ならいくらでも悪女になれる強かさがある。
もし転覆したら臾衣は貴重な魔力を消費してイルカかシャチに変身し、ソニアを引っ張って泳いでいかなければならなくなる。終末の獣との、メシア・ウィザースプーンとの決戦に駆けつけた時に魔力切れでは話にならない。魔力を温存して到着できるかは漁師の腕にかかっていた。
激しく上へ下へと揺れる船体にしがみつき、姿勢を低くして船酔いをこらえながら臾衣は不安に苛まされていた。
九条は無事だろうか? 戦いはどうなったのだろう? 終末の獣は倒せた? メシアは?
規格外の頂上決戦に普通の魔法使いは足手まといになると言われ、臾衣とソニアは魔貨を送ったら遠くに逃げる手はずになっていた。
協力者の沢田はそうしているが、臾衣とソニアはほんの少しでも助けになればと土壇場で九条の元に向かうと決めた。
『死ぬ時は一緒がいい』という言葉は二人とも決して口にしなかった。代わりにお互いに言い聞かせたのは『勝って生き残ろう』だ。
臾衣の人生は『勝って生き残る』の正反対だった。
父は仕事で頓死し死体も残らず、死んだ後になって母に父親が魔法使いだったと明かされた。
ロストデイに倒壊した建物から気絶した母を助け出した後、崩落する柱の下敷きに頭を砕かれ即死した。
母は「もしもの時のために」と父に教えられていた通りに魔法を習得し臾衣の影法師を作り。
命もない偽物が生きたフリをし続けて。
必ず一緒に生き残ると誓った仲間の翼は魔女狩り魔法に殺された。
臾衣の人生には死が付きまとい、臾衣そのものが一人の少女の死の象徴でもあった。
それでも波野司だけは信じられる。
濃密な死の臭いと闇を光と共に打ち払い、温かな手を差し伸べてくれた彼なら。
そう信じているはずなのに不安で不安で仕方ない。
彼にできないなら他に誰もできない。大丈夫、大丈夫。
いくら言い聞かせても胸騒ぎは止まらない。
「酔い止めもう一錠いる?」
「いえ、違うんです。その」
自分と同じく口を押さえて船底に突っ伏し吐きそうにしているソニアに錠剤を差し出され、臾衣は不安を吐露した。するとソニアは鼻で笑った。
「なんだそんなこと。もっとマシな事考えたら?」
「マシな事?」
「終末の獣の弱点とか、メシアの弱点とか。不安だ不安だって心配しても何も変わらないのよ。どうせ考え込むなら役に立つ事を考えないと」
そうは言われても、と臾衣は困ってしまう。
二人の敵についての考察はもう出尽くしている。そもそも臾衣にはソニアや九条ほど鋭い意見や仮説を出せなかった。臾衣が思いついたのはメシアの記憶消去魔法の由来ぐらいで、それも当たっているか定かではなく、当たっていたとしても大して役に立たない。
臾衣はメシアの記憶消去はイギリスを消滅させた経験に基づく莫大な魔力を消費する大規模魔法だと予想していた。
魔法の原則として凡庸な経験は凡庸な魔法になり、強力な魔法は強力な経験が元になる。いくら曲解が上手くてもマッチの火をつけた経験から街を焼き尽くす魔法は作れない。
原子爆弾を落とした経験は核爆発魔法になる。人生の全てを炎で失った経験は強力な炎魔法になる。凄惨な飛行機事故から無傷で生還した奇跡的な経験は英雄がもつに相応しい万能魔法になった。
しかし波野司の世にも珍しい無条件自己蘇生魔法の元になった経験は特別でも珍しくもない。ただ生まれ、生きた。全ての人間が経験する人生の再演に過ぎない。二つ魔法を習得する歴史の例外は何でもない普通の経験を曲解し常軌を逸した魔法を作れるのかも知れない。
だが一般原則に当てはめれば強力な魔法は強力な経験が元になっているはずで、するとメシアの全世界記憶消去魔法の元になったのはきっと彼の人生で最も大規模で稀有な経験、イギリス消滅だ。
たった一人で国一つを消し去った信じ難い常軌を逸した人生経験は世界規模の大魔法になり得る。
一つの国の歴史、人々、物、想いも思いも全て国土と共に白紙にできたのなら、人々の記憶を消し去り白紙にする事だってできるに違いない。
イギリスを消し去った経験を元に「国を消し去る」魔法を作ってもおかしくなかった。人を消すのではなく記憶を消す魔法を作ったのはひとえにメシアが人々の賞賛を求めたから。自分を賛美する人間を殺すのは避け、貶める人間は殺す。そんな行動原理だと考えられる。
全ては想像、確証はない。
しかし当たらずしも遠からずぐらいには当たっているだろうという自信はあった。
不安と想像がぐるぐる頭の中を回り続ける。
いたわ、という声で臾衣は我に返った。
船底から船の縁に這いのぼり、燃え盛る埠頭に目を凝らす。赤い炎を背景に一人だけ見えた。ちょうどその倒れた人影が消え、赤ん坊から子供に、子供から少年に、少年から青年にと急成長していく。
波野司の人生再演だ。人生再演が発動したという事は死んだと言う事で、彼は今危機にある――――
「操舵主! 急いで! あそこにつけて!」
「こいつぁとんでもねぇ炎だぞ! これ以上近づけねぇ!」
「何のために高い金払ったと思ってるの!? 危なくても近づくの!」
「んな滅茶苦茶な!」
ソニアが船主の尻を蹴とばしているが待つ時間が惜しい。臾衣はイルカに変身して海に飛び込もうとしたが、海水から白い湯気が立ち登っているのを見て鳥に変身にした。熱された海に飛び込んだら煮えてしまう。
かといって空も快適ではなく、熱風と上昇気流で大きくあおられ飛ぶのが難しい。それでも臾衣は不格好に埠頭に渡り、人間に変身しなおして着地した。
「九条さん! 大丈夫ですか!? 怪我は? メシアは? 終末の獣は?」
ジャケットをかけて裸体を隠しながら立て続けに聞くと九条は振り返った。
その顔を見た臾衣は驚愕する。
「え? どうして?」
「は? 何が? 誰、え? 何? 裸!? あっつ! サウナ? いやなんだこの火の海!?」
うろたえるその男は九条獅狼ではなかった。波野司の姿をした、波野司だった。
「え? 波野司さん……ですよね」
「おぇ、あ、あああああの、そう、そうです。それで、その、えー、その、ここ、ここはどこなんですかね……?」
「港区の埠頭ですけど……」
「み、港区ぅ!? そんなバカな。だってさっきまでバスに乗るところで、行先は奥多摩だって。寝過ごして火の海なんてわけが」
波野は完全にパニックを起こしていた。落ち着かせようと手を伸ばして肩に触れると飛び上がって驚き、恥ずかしそうに体を縮こまらせますますしどろもどろになる。
そこに漁船を強行接岸させたソニアが遅れて降りてきて、九条が九条ではなく波野司の姿になっているのを見て目を瞬かせた。
「え、誰?」
「えっと、司さんです。でも一年前から今までの記憶を消されてるみたいで」
「! メシアの仕業ね! ふざけたクソやろ…………? 待って、私は一年前から今までの記憶覚えてるわ。全人類記憶消去じゃない? とすると……獅狼だけが生きてここに居る……終末の獣とメシアは片づけたとして……」
ぶつぶつ考えこんだソニアは手を叩いて頷いた。
「そうよ。ねえ、あなた魔力が尽きたんじゃない? 人生再演が魔力不足で止まった。九条獅狼と体を入れ替える前のところで再演が途切れたのよ。違う? 私を見た事ある? ないんじゃない?」
「お、あの、その、えー、覚え、いや、名前、一応名前とか聞いても、へへ、いや忘れたわけじゃ」
「その女慣れしてないどもり方で分かったからもういいわ。実質何も知らなかった一年前まで巻き戻ったのね」
「は? 巻き戻……何? えーと、あの、さっきから、えー、何言ってるか全然……っていうかマジで熱いここ煙もひど……げほっ」
「事情はあとでゆっくり説明するわ。あなたが何を成し遂げたのか、世界にどれだけ貸しを作ったのかね。とにかく今はここを離れましょう」
見覚えのない女性二人に挟まれた波野司は顔を赤くして視線と言葉を彷徨わせている。初めて会った頃のような挙動不審な反応が寂しくもあり愛おしくもあった。
臾衣はうろたえる波野の背を押して漁船に詰め込みながら誓った。
彼は全てを賭け、取り戻した以上の記憶を失い、自分達と世界を救ってくれた。恩返しをしよう。彼に寄り添い、彼の幸せを想って共に生きよう。
ある意味では元に戻ったのだとすら言える彼をどうしてあげればいいのか分からない。
でもどんな障害も艱難辛苦もきっと乗り越えられる。自分達が彼を支える。
それに彼は人類史上最も厳しい困難を乗り越えた経験がある。どんな苦境もそれに比べたら些細な問題に違いない。
なにも覚えてないけれど、彼は世界を二度救ったのだから。




