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問題解決に伴い、あとがきを削除しました(12/19)
大陸共通暦1767年:ベルネシア王国暦250年:冬。
大陸西方メーヴラント:ベルネシア王国:王都オーステルガム。
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この日、王妹大公屋敷にレーヴレヒトとゼーロウ男爵夫妻が訪問していた。
大陸西方コルヴォラント趣味の豪奢な応接室へ通されたゼーロウ男爵夫妻と次男坊は、大いに緊張していた。いや、次男坊は全く緊張していない。普段通りの冷静さでしげしげと調度品や美術品を眺めている。
やがて、王妹大公母娘が入室し、卓を挟んで向かい側に腰を下ろす。
ユーフェリアもヴィルミーナもゼーロウ男爵親子の訪問目的を知っていた。が、そこには触れず季節の挨拶やなんやらの雑談を交わす。なお、ヴィルミーナもどこか落ち着かずそわそわしていた模様。
緊張しっぱなしのゼーロウ男爵夫妻とヴィルミーナのぎこちない会話がひと段落したところで、レーヴレヒトがさらりと本題を切り出す。
「ユーフェリア様。ヴィルミーナ様との結婚をお許しいただけないでしょうか」
ゼーロウ男爵夫妻が大きく仰け反った。おっと、ヴィルミーナも白目を剥きかけている。どうやら段取りと全然違うらしい。
恐ろしく気まずい静寂の数瞬後、
「私は諸手を挙げて賛成するし、歓迎するわ。でも、それはヴィーナの気持ち次第ね」
ユーフェリアはここ数年で最も上機嫌の笑みを浮かべ、ヴィルミーナに問う。
「ヴィーナ。レヴ君、いえ、レーヴレヒト様の申し出を受ける?」
「はい、お母様」
ヴィルミーナは大きく頷き、顔を真っ赤に染めながら言った。
「私はレーヴレヒト様の申し出をお受けします」
儀礼的なやり取りと分かっとっても、これは緊張するわぁ……思えば、前世ウン十年+今生20年を含めても、こんなん経験は……あ、一つだけあったわ……
大学時代の終わり。彼氏から一緒に故郷へ、と誘われた。思えば、あれが前世のターニング・ポイントやったなぁ…
「うんうんっ! 相思相愛で素晴らしいわっ! 二人はきっと素敵な夫婦になるわねっ!」
ユーフェリアは満足げに頷き、
「ただ、王妹大公家と男爵家ではちょっと家格が釣り合わない。レヴ君には一旦、適当な家に養子へ入るか、後見を務めて貰わらないと厳しいわ」
「その件ですが――」
ゼーロウ男爵が口を開きかけた刹那、
「でも、大丈夫よ。丁度良い家へ私が話を通しておいたから」
被せるように言い、怖気を誘うような笑顔で湛えた。
「クライフ伯爵家にね」
その瞬間、ゼーロウ男爵夫妻が身を震わせる。やはり、と二人の顔に書かれていた。
クライフ伯爵家。
王妹大公家御用商人クライフの実家、クライフ伯爵家。言い換えよう。ユーフェリアが唯一愛し、今も想い続けている貴族青年の実家である。
つまり……
ユーフェリアは自身が渇望しながらも成せなかった結婚を、娘の結婚をもって再現する気なのだ。自身の溺愛するヴィルミーナとクライフ伯爵家の養子となるレーヴレヒトの恋愛婚によって、奪われた未来を取り返し、心の喪失を補填する気なのだ。
恐るべき執念。凄まじき情念。あるいは、一種の狂気と言えるかもしれない。
そして、これは王家と王国府に対してこれ以上ない意趣返しとも取れる。ゼーロウ男爵家が最も恐れるパターンは、この意趣返しによって生じるであろう有象無象のトラブルだ。
しかし、この提案を拒絶することも難しい。
ユーフェリアの双眸に浮かぶ狂気は、この提案の拒絶を絶対に許さないことを雄弁に語っている。そして、万難を排して目的を実現するだろう。どのような犠牲も無視して。
ゼーロウ男爵夫妻はすがるような眼差しをヴィルミーナへ向けるも、ヴィルミーナはユーフェリアの提案を覆す気はなかった。ヴィルミーナにしてみれば、母の妄執的哀願を叶えてやることは無二の孝行である。拒絶など出来ようはずもない。
レーヴレヒトは小さく息を吐いて、ユーフェリアへ直言した。
「ユーフェリア様。一つ懸念がございます」
「何かしら?」
鷹揚に受けるユーフェリアは、そのスーパー美熟女な容姿と狂気的な眼光と相成って、伝説の妖妃もかくやという威圧感を発している。
しかし、病質的な冷静さを持つレーヴレヒトはまったく怖気づくことなく、言葉を進める。
「婿入りにあたって、ユーフェリア様と御家族、王国府との経緯を伺っております。ゼーロウ家はしがない男爵家。王家との諍いに巻き込まれては立ちどころに御家御取り潰しとなりかねません。その辺りは如何なさる御所存でしょうか?」
ユーフェリアの地雷原へ頭から飛び込む倅へぎょっとするゼーロウ男爵夫妻。唖然とするヴィルミーナ。
そして、当のユーフェリアは――
「あははははは。よろしい。大いによろしい。私のヴィーナへ婿入りするからには、このくらいの気概がなくては」
心底楽しそうに喉を鳴らし、レーヴレヒトへ言った。
「ゼーロウ家に累が及ぶことはない。そんなことは私が許さないし、させない。この王妹大公ユーフェリアが確約しましょう。それで如何?」
「願いを聞き入れていただき、恐悦至極」
レーヴレヒトは礼儀作法に則って丁重に一礼する。ゼーロウ男爵夫妻も慌てて頭を垂れた。一方、ヴィルミーナは目を覆って唸る。
し、心臓に悪い……レヴ君、勘弁してぇやあ。
娘の心親知らず。ユーフェリアはにんまりと口端を吊り上げ、鷹揚に頷いて続ける。
「大公の爵位は当代限りでヴィルミーナは女伯になるから、ヴィルミーナはレンデルバッハ=クライフ女伯。レヴ君はレンデルバッハ=クライフ伯になるわね」
「ゼーロウの家名は残せないのでしょうか?」
「省略家名になら残せるわ。望むなら、レンデルバッハ=クライフ・ゼーロウとなるかな」
レーヴレヒトとしては、ゼーロウ家の家名を残したかったが、まあ、これも渡世の仕来り。仕方あるまい、と妥協する。
「わかりました。お話、ありがたくお受けします」
「さてと、話がまとまったし、祝杯を挙げましょうか」
ユーフェリアは柏手を二つばかり打つと、ドアが開き、母の御付き侍女がサービスワゴンを押して入室してきた。
一本のワインを皆で分かち合う。上機嫌のユーフェリアが音頭を取る。
「乾杯」
二人の幸せを願って。
ヴィルミーナは話がまとまったことに安堵しつつ、ワインを口にする。
ワインの味はなんとも甘かった。
〇
ユーフェリアは出戻りして帰国後、公職に一切ついていない。しかし、王妹大公という爵位と巨額の資産はユーフェリアに相応の影響力をもたらしている。クライフ伯爵家はそんなユーフェリアの強い”引き”を受けていた。
いわば、クライフ伯爵家はユーフェリアの閥に属していると言えよう。
そのクライフ伯爵家は代々海軍軍人を輩出している家柄だ。家督を継ぐ者もそうでない者も、海軍に入るか、海運関係の仕事に就く。そういう意味では、王妹大公家御用商人クライフは一族の変わり者だった。
そんな御用商人クライフの兄、先代クライフ伯オットー・ヴァン・クライフは、海軍中将まで昇った男だったが、先王の差配で嫡男――ユーフェリアが愛した青年――を失った。その後、王と軍の慰留を拒絶して退役。家督を次男に譲って引退生活を送っている。
ただし、オットーは今でも隠然とした強い発言力と影響力を有しており、貴族界ではクライフ家の実質的な当主をオットーと見做していた。
さて、引退して以来、オットーは頻繁に王都港湾部へ釣りに赴いていた。
真冬時のこの時期でも、港湾部防波堤は釣り人がそれなりに居る。寒さなどでは釣りキチを止められないのだ。
クリス・クーパー似のいぶし銀なオットーはバケツで炭を焚いて暖を取りつつ、時折、煙草とブランデー入り珈琲を楽しみながら釣り竿を振るう。
なお、オットーの左右にいる壮年釣り人は古参護衛で、懐に得物を呑んでいる。
「御隠居。来られました」
左の護衛がオットーに耳打ちした。
オットーが目線を港の方へ向けると、長身の美青年と麗しい美女が釣竿と手荷物を抱えてこちらに近づいていた。
美女の方は幾度か目通りしたことがある。王妹大公令嬢ヴィルミーナだ。青い厚手のワンピースと乳白色のケープマント。長い髪を結い上げてまとめ、つば広のボンネット帽を被っていた。
元々美しい娘だったが、花盛りを迎えた今は化生染みた美貌を輝かせている。
美青年の方は初対面だ。野戦コートに似た黒いコートを着込み、毛皮帽を被っている。背筋が通った姿勢。完璧に一定の歩幅と歩調。足音や衣擦れ音も発さない。抱えている荷物や釣竿が銃や武器でも全く違和感がない。
特殊猟兵か。かなりの腕利きだな。オットーは一見で美青年の正体と実力を見抜く。
「ごきげんよう、オットー様」
ヴィルミーナが控えめなカテーシーを行ない、隣の青年も丁寧に一礼する。
オットーは釣竿を右の護衛に預けて腰を上げた。
「久しぶりですな、ヴィルミーナ様。近年の御活躍はよう耳にしますぞ。先の戦でも卓越した働きを為されたと弟から聞き及んでおります」
「御耳汚し出なければ幸いです」
ヴィルミーナは上品な微笑を湛え、レーヴレヒトを示す。
「オットー様、私の大事な友人を紹介させてください」
「喜んで」
オットーの許可を得て、レーヴレヒトは名乗った。
「ゼーロウ男爵が次男レーヴレヒトと申します。クライフ大将閣下にお会いできて光栄です」
「大将閣下は止めたまえ。とうに引退済みだ。それに、私は辞め大将だからな」
苦笑いするオットー。
辞め大将とは退役時に特進(別名:ご褒美昇進)して大将になった者を指す。
「暇潰しに付き合ってくれる者はいつでも歓迎だ」
オットーはレーヴレヒトとヴィルミーナへ隣に座るよう促した。二人はオットーの隣に座り、レーヴレヒトがてきぱきと自身とヴィルミーナの釣り支度を進める。
レーヴレヒトの所作を見ていたオットーは、ほぅ、と片眉を上げた。
「慣れておるな」
「故郷が田舎でして」とレーヴレヒトは言葉短く応じる。
「この人、小さな時からモンスターがうようよいる森の中に一人で遊びに行ってたんですよ」
とんだ野生児です、とヴィルミーナが上品な微苦笑をこぼした。
「ほう。見た目によらんな。サロンで文化談議に花を咲かせていそうだが」
「山林育ちの粗忽者ですよ。戦場ではバッタやトカゲを生で食いました」
しれっと応じるレーヴレヒトの脇で、ヴィルミーナが眼を瞬かせる。……バッタやトカゲを生で?
「ははは。それは私も経験がある。私が若い頃の軍艦は保存食が酷くてな。ウジの湧いたビスケットを齧ったものだ。見た目は酷いが、慣れるとあの食感が癖になる」
くつくつと喉を鳴らし、オットーは新たな煙草をくわえ、魔導術で火を点す。
「ま。のんびりやろう」
こうして、三人は揃って釣竿を垂らした。
空は青く澄み渡っていたが、北洋から吹き込む冷気が肌を刺す。快い潮騒。海鳥と翼竜の小型種の歌声。バケツで焚かれる炭のぬくもり。
会話はあまり弾んでいないけれど、雰囲気は悪くない。静かで穏やかな時間が過ぎていく。
「……釣れない。全然釣れない」
約一名が野暮なことを口走る。
ヴィルミーナは元来、重戦車のような気質だから、魚が食いつくのをじっと待つ、というのは性に合わない。
「もっとちゃかぽこ釣れないの?」
「ヴィルミーナ様は相変わらずせっかちですな」とオットーも苦笑い。
「自然を楽しめ。この時間を楽しめ。何も考えずにぼんやりできることを楽しめ」
「掛けるなら優しい言葉にしろぃ」
素っ気無いレーヴレヒトの回答に、ヴィルミーナは不満の意を訴えた。
そんなこんなで昼飯時に達し、ヴィルミーナはピクニックバスケットから、軽食を取り出して皆に配る。
二種類のサンドウィッチ。粗挽きの黒パンに烏竜肉のローストと野菜、チーズを挟んだもの。白パンにキャベツ入りスクランブルエッグとベーコンを挟んだもの。
それと、金属ケースに収められたカボチャのポタージュを、魔導術で温め直して食べる。
軽食を食べ終え、オットーが不意にレーヴレヒトへ問うた。
「君はクライフ伯家をどう思う?」
その鋭い眼光は閑暇を過ごす老人ではなく、人生の多くを海で過ごした海軍提督の威容にギラついている。
「関わりを持てば、厄介事を避けられない御家ですね」
これまた物怖じする素振りも見せず、レーヴレヒトは淡々と答えた。
「しかし、気にするほどのことでもない。ヴィーナを娶る以上、どうせ死ぬまで厄介事は絶えませんからね」
「なんで? ねえ、なんで? なんで婚約者を疫病神みたいに言うの?」
ヴィルミーナが怖い目つきで詰めよるが、レーヴレヒトは気にせず続ける。
「クライフ伯家に異論なければ、是非とも養子縁組をお願いします」
「ふむ」
オットーは丁寧に刈り揃えたひげを弄りながら思案していると、
「ほぁっ!?」
ヴィルミーナの釣竿が凄まじい勢いでひん曲がった。
「ひえええっ!? 引き込まれるぅっ!? れ、レヴ君、助けてっ!」
これにはレーヴレヒトも目を丸くし、自身の釣竿を放ってヴィルミーナを後ろから抱きかかえて支える。
「な、な、なにこれ、なにこれっ!?」「竿を立てて、引きに合わせて左右に振れ」
顔芸を発揮して慌てふためくヴィルミーナと病的に冷静なレーヴレヒト。見かねたオットーも手を貸し、護衛二人も加わる。他の釣り人達も何事かと見物に集まり始めた。
まるで童話の『大きなカブ』だ。
みしみしと悲鳴を上げ、今にもへし折れそうなヴィルミーナの釣竿。大黒鬼蜘蛛の糸でなければ、とっくに切れていただろう。
そして――それは海面から飛び出した。
水飛沫を散らしながら宙を舞う北洋黒魚竜。
陽光を浴びてきらきらと煌めく漆黒の鱗、飛沫を散らすひれ、艶めかしく反り返った長大な体。全長五メートルは超えているであろうが、これでもまだ“幼体”だ。空中で流線形の頭部を大きく振るって、ぶちりと糸を捻りちぎり、そのまま頭から海面へ飛び込んだ。
砲撃みたいな衝撃音と豪快な水柱が立ち上り、巻き上げられた海水が雨のように降り注ぐ。
冷たい水飛沫を浴びた面々は、呆けた顔で海面の大きな波紋を見つめる。
「……海、怖い」
ヴィルミーナは茫然とした顔で呟く。
レーヴレヒトがヴィルミーナを抱きかかえたまま、くつくつと楽しげに喉を鳴らし、それはオットーへ、護衛達へ、他の釣り人達へ伝播し、防波堤は笑い声の合唱で満たされた。
「いやはや。まったく実に楽しい。これほど高笑いしたのは久しぶりだ」
オットーは水飛沫を浴びて濡れた顔を、笑みでいっぱいにし、レーヴレヒトへ言った。
「レーヴレヒト君。またこうした機会を持てるかね?」
「喜んで、閣下」
濡れそぼった髪を弄りながら、レーヴレヒトも笑みを浮かべて首肯した。
「男の友情を交わすより、まずレディを気遣うべきでは?」
ヴィルミーナは悪態をこぼし、
「ぶぇっくしょいっ!」
レディとは思えぬ豪快無比なくしゃみをした。
〇
王妹大公令嬢ヴィルミーナの婚約発表はすぐさま方々へ伝播した。
相手が幼馴染の男爵家次男坊で、その次男坊が王妹大公家と所縁深いクライフ伯爵家と養子縁組することも、合わせて知れ渡った。
婿入りを狙っていた者達やその家族は歯噛みして唸り、経済界/財界/実業界はこれからどうなるのやらと思案し、婚約者が軍人であることを知った軍は『これで王妹大公令嬢が軍を見捨てることはない』と安堵した。
面白くないのは、王国府である。
先の大規模仕手戦以来、関係が微妙なところへこの婚約発表。
元々王妹大公ユーフェリアの反王国府姿勢に苦虫を噛み潰していたが、婚約相手をクライフ伯爵家と縁組させるという厭味ったらしい意趣返しに、不快感を禁じ得ない。
それでも「まあ、国内貴族なら……」と口を噤んだあたり、ヴィルミーナの”価値”自体は正しく認識しているようだ。
王家親戚衆や貴族達の一部も反発した。
大身の王族令嬢が恋愛婚など、本来はあり得ない。政略結婚してしかるべきなのだ。事前に自分達への根回しがなかったことも面白くはない。
しかし、事実としてヴィルミーナの国に対する貢献度は大きい。王家の面目も十分に立ててきた。それらの代価として恋愛婚を認めてもよかろう――口うるさい親族衆や大貴族達の大勢がこう言っていた。
その心は、大資産家で大実業家のヴィルミーナが結婚で下手な勢力とつながるより、独立勢力のままでいる方がマシ、と言ったところだろう。
何より、ヴィルミーナ個人に無茶を押し通す“力”があり、その背後には娘を溺愛する王妹大公ユーフェリアが控えていた。
特に、ユーフェリアのこの婚約に対する意気込みは凄まじい。
この婚姻を妨げようとする存在を、ユーフェリアは絶対に許さないだろう。あらゆる手段をもって駆逐するに違いない。ああ恐ろしや恐ろしや。
ただまあ、ヴィルミーナの婚約発表は『おまけ』だった。
本命は第一王子エドワードの立太子と婚約者グウェンドリンとの結婚、その正式な日時が発表されたことだった。




