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大陸共通暦1766年の夏。
聖冠連合帝国の旗を掲げる馬車列と集団がクレテア国境を越えた。
豪奢な白い馬車を中心に十数両の馬車が連なり、数十人の侍従と侍女、護衛の帝国近衛騎兵2000が整然と隊列を組んで街道をゆく様は、壮麗なパレードそのものだった。
クレテア人達はこの豪奢な花嫁行列を事前に聞き知っていたから、街道沿いは見物人で大いに賑わっていた。彼らは花嫁行列に向かって手を振り、喝采し、歓迎の花びらを投げる。敵国人とかそういう事情を抜きにして、慶事を慶事として祝う。
こうした人々の純朴性こそ、この時代の人間の美風だろう。
王都ウェルサージュは、大通りに大量の旗――白と青の下地にアヤメの紋が入ったクレテア国旗と、聖冠を掲げる鷲頭獅子と双角飛竜の紋が入った黄色の聖冠連合旗が飾られ、花嫁行列を熱烈に歓迎した。
誰の目にも露骨なほどの政略結婚ではあったが、この時のクレテア人達は若き皇太子と若き皇女の結婚を心から祝福していた。
車窓から街並みと歓迎する民を眺める聖冠連合帝国第7皇女マリー・ヨハンナは、まだ14歳になったばかり。
ちょっぴりマロっぽい眉毛が特徴的な小顔に華奢な細身。優雅に波打つ長髪は結い上げてある。ショルダーフリーの豪華なドレスは嫁ぎ先へ敬意を示すためクレテア国旗と同じ青と白。
自身の未来が明るいものだと断じている楽観主義者マリー・ヨハンナは、一度も会ったことのない相手との結婚にも、異国での生活にも不安はない。祖国と家族と親しい人々から離れてしまったことへの寂しさもない。
ただただ近い将来、“自分のもの”となる王都と民を興味深そうに眺めていた。
「ウェルサージュは汚い街だと聞いていたけれど、思ったより奇麗ね」
近代は公衆衛生の概念が乏しい(度々疫病の大流行を招いた原因)。地球を例に挙げると、人口過密状態だった大都市パリの不衛生さは凄まじく、市内を流れる全ての川は生活排水で汚染され、町の周囲数十キロまで悪臭が漂っていたという(下流のベルギー、オランダが大迷惑していた)。パリで香水が流行したのは、この悪臭を誤魔化すためだったともいわれている。
クレテア王都のウェルサージュも大陸西方で悪名を轟かせる程度には酷かった。
しかし、マリー・ヨハンナが目にしたウェルサージュは良く清掃されていて、大型建造物やモニュメントが林立する大都会であり、故郷の帝都に引けを取らないようだった。
「殿下の行幸に合わせて清掃したそうです。クレテア人もやればできる子だったようですな」
挙式立会人の一人として同道した聖冠連合帝国宰相サージェスドルフが皮肉っぽく笑う。でっぷりと肥え太った彼は酷い悪人面だった。
「宰相閣下。式ではその毒舌を控えてくださいよ」
マリー・ヨハンナの隣に座る美青年は、若くして分家当主を務める従兄。後に聖冠連合きっての名将になる男、カール大公だ。
「心外ですなあ。毒を吐く時と場所と弁えられるからこそ、某は宰相の椅子に座っておるのですぞ」
たるんだ顎の肉を震わせる宰相サージェスドルフ。
プルプルと揺れる顎の様子が面白くて、マリー・ヨハンナはくすくすと笑う。そして、
「挙式が済んだ後、クレテアは戦を起こすつもりなのよね? ベルネシア軍がここまで攻め込んでくることはあるかな?」
「それはないよ。ベルネシアにそれほどの力はない。そもそもクレテアが怖くて帝国に姫を差し出してくるような国だからね」
カールは侮蔑のこもった声色で答えた。
彼とて王族である。政略結婚は否定しない。しかし、自国の第一王女を歳が大きく離れた相手の後添えに差し出すなど、彼の価値観では許容できない所業だった。
多産で政略結婚を常としてきた聖冠連合帝室シューレスヴェルヒ家だが、身内をこんな生贄のような扱いをしたことはない。国情を考慮しても、カールはベルネシアに良い感情を持てない。
まあ、彼がベルネシアを嫌う理由は、皇族の後添えとして嫁がされたベルネシア王女クリスティーナへ多分に同情を寄せているという背景もあった。なんせ、彼は幼い日に出会ったクリスティーナの悲しげで儚げな美しい姿を忘れたことが無いから。あらあらふふふ。
「そういう陰険な話は後でいくらでもできます。今はこの“観光”を楽しみましょうぞ」
宰相サージェスドルフはぐふふと喉を鳴らした。
セイウチが鳴いているような姿に、マリー・ヨハンナは再びくすくすと笑った。
〇
昨日の敵が今日の友になるという、複雑怪奇な外交が展開される大陸西方においては、関係性がアレであっても、慶事のお祝いくらいはする。
聖冠連合の仇敵アルグシアも、クレテアの宿敵ベルネシアも、両国と微妙な関係のカロルレンも、メーヴラント小国群も、大陸西方の他地域からも、大陸北方からも、南方からも、ともかく縁のある国々がこの婚礼に祝いの品と使者を送っていた。
門前払いを受ける可能性もあったけれど、それならそれで構わない。あくまで『こっちは義理を果たしたぞ』という体裁のためだから。
結婚式会場、ウェルサージュ聖母大聖堂は近世石工建築の粋であり、大ホールの壮麗なステンドグラス画、天井に描かれた壮大な宗教フラスコ画は圧巻だった。
そんな聖母大聖堂の大ホールは王侯貴顕で埋まっていた。
右を見回しても、左を見回しても、豪華な衣装に身を包んだやんごとなき方々だらけ。宗派違いの者や異教徒もそこそこいたが、慶事ということで大目に見られている。
遠路はるばる訪ねて祝意を示す相手を無碍にするほど、クレテアも聖王教会も狭量ではない。
「流石はメーヴラント二大国の婚儀ね」
ベルネシア王弟大公夫人ルシアは眼前の光景に感嘆を漏らす。
「確かに規模と参加者はここ最近の婚儀じゃ一番だろうな。まあ、俺達の結婚の方が祝福されてたけどなっ!」
ベルネシア王弟大公フランツは歯の浮きそうなセリフを真顔で言う。
2人は国王夫妻の名代としてベルネシアを代表し、この結婚式に出席していた。席次は当然低い。なんたって目下侵攻準備中の敵国だ。入国以来、表に裏に監視されているし、敵意と反感と侮蔑と嘲笑が絶え間なく飛んでくる。
とはいえ、愛する妻のためなら王籍も国も放り出して出奔した男は、そんな些事を気にも留めない。むしろ、久しぶりの国外”旅行”に浮かれ気味で、いつもよりも愛情表現に熱が入っている。
「フランツ王弟大公殿下。少しよろしいですかな?」
クレテア宰相マリューが声を掛けてきた。ただでさえ髪のわずかなすだれ頭が、一層スカスカになった気がする。
「これはマリュー閣下。もうじき式が始まるというのに、こんなところに居て良いのかな? それとも、やっぱり敵国人は目障りだからと追い出されるか?」
王弟大公フランツは気さくにブラックユーモアで応じる。やもすれば無礼に感じるかもしれないが、溌溂とした快活さと明け透けな明快さが言動や態度を好意的に感じさせた。
「そのような非礼で無粋な真似は致しませぬぞ」
宰相マリューは苦笑いをこぼす。
「なんでも、先にアルグシア連邦と交易協定を結んだとか。両国の因縁を知る者として聊か驚かされましたぞ」
「驚かされたのはこっちの方ぞ、宰相閣下。此度の婚儀にはまこと度肝を抜かれた。王国府の連中なんぞ目を剥いて固まっとったそうだ」
王弟大公フランツはがっはっはと笑う。フランツは父である先王から子の出来ぬ細君との離縁を要求された時、王国府も一枚噛んでいたことを知っている。なので、連中が酷い目に遭うと『メシウマ』な気分になる。
「しかしまあ、対立が解消されるのは良いことだ。この慶事にあやかって、我らもアルグシアと関係改善を図ったまで。この調子でメーヴラント全体が平和になると良いですなあ」
「……そうですな」
宰相マリューは苦虫を噛み潰したような面持ちを浮かべ、では後ほど、と去って行った。
「気苦労が多そうな方ね」と王弟大公夫人ルシアが呟く。
「あの頭だからな。間違いない」
がっはっはと高笑いする王弟大公フランツ。
美しく着飾った騎士風の美青年が式の始まりを宣言し、大聖堂内は瞬く間に静かになっていく。厳かな雰囲気が満ちていき、王立楽団が壮麗な入場曲を演奏し始める。
最初に大聖堂内へ入ってきたのは、新郎の王太子アンリ16世。
介添人は王太子の叔父らしい。父のアンリ15世はもはや自力で立てないほどに衰弱しており、豪奢な車椅子に乗って参列者席最前列に控えている。
壮麗な燕尾服をまとった小太りな少年は、緊張しているのか、真夏に着飾っているせいなのか、額に汗が滲んでいた。
「同じ年の頃なら、俺の方が良い男だったな」
「今だって良い男よ、旦那様」
周囲を気にせずいちゃつく王弟大公夫妻。
続いて、新婦の聖冠連合帝国第7皇女マリー・ヨハンナが姿を見せた。
薄桃色の花嫁ドレス。宝石がちりばめられた豪奢なティアラとベール。首元のネックレスにはまるで鶏の卵並みに大きな魔紅玉が下がっていた。
花も恥じらう14歳の可憐な乙女は、まるで別の世界から嫁いできた妖精のように美麗だった。思わず見惚れた参列者達から感嘆が漏れる。
年若い花嫁は介添人の美青年を伴い、堂々と祭壇で待つ花婿の下へ向かう。その立ち居振る舞いもまた美しく、参列者の間に讃嘆のさざ波が広がった。
王弟大公フランツもため息をこぼしていた。
「こりゃまた……とんでもない別嬪さんだなぁ」
「確かに。凄く可愛いわ」ちょっぴりヤキモチ気味の王弟大公夫人。
「ん? どした。ルシアの方が魅力的に決まってるぞ?」
「もう……旦那様ったら……♡」
他人様の結婚式でいちゃつく王弟大公夫妻。
こうして、後々まで語り草となる荘厳かつ豪華絢爛な結婚式が始まった。
〇
初夜を終えた朝。
マリー・ヨハンナはベッドで身を起こす。
一糸まとわぬその姿は神々しいほどに美しい。
華奢な肢体はボリューム感こそ足りないものの、その未成熟さが天使や妖精といった稚拙な表現に頼らざるを得ないほどの『美』を完成させていた。
14歳でコレだ。成長したらどれほどの美女になることやら。
大きなガラス窓から差し込む夏の曙光。白いレース地のカーテンが落とす朧げな影。
マリー・ヨハンナは下腹部に未だ何かが入っているような感覚と鈍痛を抱きつつ、新たな人生の朝を迎えていた。
純潔の喪失と破瓜の痛み。
どちらに対しても、想像していたほど、あるいは期待していたほどの感慨がないことに、マリー・ヨハンナは少々残念な気分を抱く。もっと感動的な、もしくは感傷的な気分が生じると思っていたのだが……
初体験に落胆と失望を覚えつつ、マリー・ヨハンナは隣で無防備に寝息を立てている2歳年上の旦那様を一瞥した。
アンリ16世は美少年でも美青年でもない。小太りで普通の少年だった。昨夜のマリー・ヨハンナに対する扱いは、愛情も思いやりも感じられなかったが、相応の配慮と気遣いは見て取れたし、感じることが出来た。
無碍にはされないようだ。という安堵を抱けたものの、それ以上でも以下でもない。
こんなものなのかなぁ、とマリー・ヨハンナは泰然と現実を受け入れ、生来の楽天家気質で前向きに解釈した。これから愛情と信用を築いていけば良いよね。
未だ14歳ながら、マリー・ヨハンナは女性らしい現実主義的精神性をもって『これから』を思考する。ここでの生活に慣れること。旦那様の人柄と付き合い方を把握すること。クレテア宮廷の情勢を掴むこと。王太子妃という地位と権能を扱うのはそれからだ。
ゲルダとケナーにあれこれと動いてもらわなきゃ。
帝国から連れて来た信頼できる侍従達の顔を思い浮かべつつ、マリー・ヨハンナはアザラシの子供みたいな顔で寝ている旦那様の小太りな腹をつんつんと突く。疎ましげに唸るも、旦那様は起きる気配を見せない。
旦那様の首の付け根に残る微かな痣。これが何を意味するか分からないほど、マリー・ヨハンナは初心でも世間知らずでもない。ましてや、初夜を終えたとあっては、分らぬ道理もない。
この国はこれから戦争をする気みたいだけれど、私が気にすべきは旦那様に粗相してる野良猫をどうするかのようね。
〇
アンリ16世とマリー・ヨハンナの結婚式の様子は、宮廷画家によって絵画として記録され、後世に伝わっている。
その絵画の様子から見て取れるのは、若い新郎新婦の微笑ましい門出だけではない。この頃の国際関係も窺えた。
新郎新婦の周囲にはクレテアと聖冠連合帝国の関係者。その傍に立つエスパーナ帝国大公やコルヴォラントの諸国関係者。
新郎新婦から離れたベルネシア代表の王弟大公夫妻。その周りにはアルグシア特命大使。カロルレン王国外務大臣。イストリア連合王国外務大臣等々。クレテアと聖冠連合の“非友好国”関係者が集まっていた。
それから、両陣営の間に立つ“中立国”の面々。
そして、新たな門出を迎えた息子ではなく、ベルネシア王弟大公夫妻を見据えるアンリ15世。
そんなアンリ15世を無視していちゃつく王弟大公夫妻。
歴史家が大陸西方近代史を語る際、必ずこの絵画が参考に用いられる。大陸西方近代の節目の象徴として。当時の国際関係を代表する絵として。




