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転生令嬢ヴィルミーナの場合  作者: 白煙モクスケ
第3部:淑女時代

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310/336

21:10

お待たせしました。

 最新装備を持った一個戦闘団と貴重な一個師団が包囲されたという報せに、カロルレン軍首脳陣は目を覆い、デカチン摂政シグヴァルトは頭を抱えた。なぜこんなことに……


 この時、アルグシア軍の包囲は後世で語られるほど固くなかった。むしろ隙間だらけであり、師団全力で解囲を試みていれば成功していただろう。


 実際、ニーヴァリ独立機動戦隊のラインハルトや師団隷下の指揮官達は即時の包囲脱出――ドムルスブルクからの撤退を望み、クロブコフ少将と師団司令部に談判した。


 しかしながら、連絡線回復を図った際に痛撃を味わった経験から、クロブコフ少将は慎重になっていた。加えて、カロルレン軍総司令部もまだ“諦めて”いなかった。

 ドムルスブルクに展開している戦力は二個旅団。一個師団+最新鋭装備の機動戦隊なら制圧は不可能ではない。連絡線を回復して補給を再開できれば……


 カロルレン軍総司令部はクロブコフに撤退を許さず防御を命じつつ、空からの解囲を試みる。

というか他に解囲の手段がない。なんせ第23歩兵師団自体が予備戦力で、ニムハウゼン屈折部の戦線維持のため戦力を割けない。伝説的な翼竜騎兵“リボン”を要する第117翼竜騎兵大隊の活躍に“期待”するしかなかった。


 一方、第三次東メーヴラント戦争が始まって以来、アルグシア連邦は要所要所で敗北を重ねてきたため、この局地的な勝利を痛烈に欲していた。


 連邦軍が気を逸らせる中、『悪知恵の働く敵』は冷静に思考していた。

 カロルレン軍第117翼竜騎兵大隊は精鋭であり、特に“リボン”は西方圏屈指の伝説的撃墜王。第一次の戦いで聖冠連合帝国軍は非公式ながら“リボン”との交戦を禁止したほどであり、第二次の戦いでもアルグシア軍翼竜騎兵が散々に撃墜されている。


 おそらく空戦では勝てまい。

 だが、古来より人間は自分達より強く素早い獣や怪物を捕らえ、倒してきた。

 やりようはある。


 ・


 ・・


 ・・・


 ニーヴァリ独立機動戦隊の本部にて、

「敵は環を締め始めている。翼竜騎兵のおかげで動きは鈍いが、確実に包囲は一日ごとに固く狭くなっていく。対する我々は連絡と補給を断たれて一日ごとに飢えていく。早急に脱出しなけりゃヴァンデリック侯都の二の舞だ」

 ラインハルトは溜息混じりに内縁の妻へぼやいた。


 第一次東メーヴラント戦争時。カロルレン第二軍がヴァンデリック侯都で包囲され、2万人が降伏した。捕虜は過酷な強制労働に従事させられ、戦後帰国できたのは3000名だけだった(閑話19を参照のこと)。


「なら、大丈夫ね。あの時も貴方は私達を無事に脱出させたわ」

 エーデルガルトは柔らかく微笑んでポットの珈琲をカップへ注ぐ。ベルネシア製の外洋産珈琲だ。今次戦争へ出征する際、白獅子財閥カロルレン総支(ジェネラル)配人(マネージャー)オラフ・ドランから贈られた品だ。


「しかも、あのカール大公の軍勢から」

 エーデルガルトは内縁の夫――たとえ我が子に私生児の汚名を着せてでも傍に居続けたいと渇望した自身だけの英雄へ、カップを渡す。

「たとえ、どんな結果になっても私達は貴方の下でなら、納得できる」


「どんな結果? 何を言ってるんだ、エーディ。結果は一つだけだ」

 カップを受け取り、ラインハルトは整った顔立ちに決意を滲ませた。

「俺も君も必ず生還し、子供達を抱きしめる」


     ○


 白獅子財閥王都社屋における女王の間にて。

「ふむ……我々が派遣した現場要員(オペレーター)達がアルグシア軍の包囲下にあると」

 応接セットのソファに腰かけたヴィルミーナは、どこか倦んだ面持ちを湛える。


 その物憂げな表情は酷く色っぽかった。向かい側に座るデルフィネが背筋にゾクゾクとしたものを覚えるほどに。

 なんだか今日のヴィーナ様は妙に艶めかしいわね……


「流石に介入は出来ません。彼らを救うことは無理です」とアレックスが眉を下げて指摘する。

「承知しているわ。彼らは戦場で亡骸を晒すことも仕事のうちだもの」

 ヴィルミーナは肘置きを使って頬杖を突き、綺麗な唇の隙間から息を漏らす。その官能的な仕草にデルフィネだけでなく、アレックスまで思わずゾクリとした。


「ただし、彼らが捕虜になった場合は早急に身柄を取り戻す算段を立てておく。必要なら連中に裏取引を持ちかけても構わない」

「政治問題になるかもしれませんが……」

 アレックスの憂慮に対し、ヴィルミーナは横髪を指に巻きながら応じた。

「そのリスクを考慮してでも、最新の軍事的知見を体得した彼らは貴重かつ極めて有益な情報を持っている。取り戻す価値があるわ」


 冷徹な見解とヴィルミーナの冷厳な横顔に、デルフィネとアレックスがごくりと息を呑む。

「シュタードラー卿とお会いする際、その話もしてみましょうか。調整はついた?」


「戦況が変わったからでしょうか」アレックスは少し眉を下げ「卿が少し時間を欲しいとおっしゃっています」

「……ふむ」

 ヴィルミーナはデルフィネを解放し、背もたれに体を預けた。

「戦争とは別に連邦内部の様子を少し詳しく知りたいわね」


 総帥代理たるアレックスは脳裏で情報収集プランをいくつか用意し、一つ提案する。

「アルグシア出先商館を動かしますか? 人員を削減して久しいですけれど、根を広げていますから、相応の情報を集められるかと」


「そうね……とりあえずはそれで良い。何か不味いことへ発展しそうなら手を広げて」

 白獅子の女王はどこか悩ましげに息を吐く。

 カップを口に運び、紅茶でのどを潤す。いくらか表情を和らげてデルフィネに尋ねた。

「ステラヒールのお嬢ちゃん達のことは片付きそう?」


「一部のお堅い連中がしつこく騒いでいますけれど、じきに収束するでしょう。こと宣伝戦で私達に敵う者はいませんから」

 デルフィネは自信たっぷりに応じた。白獅子財閥が地中海戦争で獲得した情報宣伝戦のノウハウと経験は大きい。

 不意に腰を上げてヴィルミーナの隣に移り、デルフィネは人差し指で幼馴染の横乳をつんつんと突き始めた。

「……何してるの」と片眉を上げるヴィルミーナ。

「えへ」と笑うデルフィネ。


 何笑うとんねん。ヴィルミーナは小さく息を吐く。

「私達も30の半ばよ? 私なんて子持ちよ? もう十代の頃みたいなことは」


 デルフィネはヴィルミーナの小言を遮るように下乳をずいっと掴む。

「三人も出産した割りに、ヴィーナ様の胸は慎ましいままですね。リアはカップサイズが一つ増えたのに」

「この口かっ! 私の乳に失礼なことを言ったのはこの口かっ!」

 ヴィルミーナがデルフィネの両頬を抓る。


「お二人とも、稚戯に過ぎますよ」

 くすくすと笑うアレックス。


 三十路半ば。三人とも少女の皮が剥けて淑女になっている。ヴィルミーナとアレックスは子持ちの母親。結婚こそしていないが、デルフィネも女の酸いも甘いも十分知っている。加えて言えば、大陸西方圏でも少数派の女性経営者で上位の女性権力者。

 そんな面々が乙女の頃のようにじゃれ合う。誰も彼も人間という訳だ。


 折檻を済ませ、ヴィルミーナはデルフィネのスベスベなほっぺを撫でながら(デルフィネはどこか満足げだ)、再び物憂げな面持ちを作る。


「あの、何かあったので?」

 アレックスが少しばかり心配そうに問えば、


「ああ。うん。まあ、少し面倒なことがね」

 ヴィルミーナは母親顔を作っていった。

「息子に面倒な……凄く面倒な猫が懐いてしまって」


      ○


 ドムルスブルク郊外で包囲されたカロルレン軍部隊は悲劇を回避するチャンスがあった。

 ニーヴァリ独立機動戦隊を先陣に移し、第117翼竜騎兵大隊と協力して空陸協働の包囲突破を図れば、脱出が叶っただろう。

 しかし、クロブコフの慎重姿勢と総司令部の未練が脱出の機会を少しずつ、着実に失わせていた。


『空から環を断て』と命じられ、第117翼竜騎兵大隊はドムルス=ニムハウゼン湖沼地帯の森へ飛び立ち、分厚い林冠の下に隠れた対空砲部隊の待ち伏せにより、少しずつ戦力を削がれていった。


 そして。

 空を鈍色の雲が覆い、大地を濃霧が包む仄暗い朝。“リボン”が率いる一個小隊4騎は前日の偵察報告に基づき、ドムルス=ニムハウゼン湖沼地帯内の敵旅団本部を狙って出撃し――


 誰も帰ってこなかった。


 カロルレン最高のエースが消息を絶ち、第117翼竜騎兵大隊はもちろん本国の翼竜騎兵総監部まで大騒ぎになった。


 第117翼竜騎兵大隊は命令も作戦も無視し、“リボン”の捜索に没頭する。

 アルグシア側も驚異的な敵撃墜王の生死を確定すべく、捜索隊を送り込む。

 が、どちらも“リボン”を発見に至らず。


 ついには、ドイツ軍がドーバーで消息を絶った撃墜王ウィット少佐の安危を英軍司令部へ問い合わせたように、カロルレン軍翼竜騎兵総監が公式なチャンネルを通じてアルグシア軍司令部に連絡を取った。

『――は貴軍の捕虜になっていますか?』


 アルグシア軍は丁重に回答した。

『我が軍は残念ながら空の英雄を捕らえる栄誉を得ていない』


 斯くて、第一次東メーヴラント戦争から活躍し続けた伝説的撃墜王の行方不明(MIA)――推定戦死はカロルレン軍将兵の士気を著しく落とした。

 それどこか、翼竜騎兵総監部が犠牲を恐れて第117翼竜騎兵大隊を引き上げさせてしまった。なんといっても、第1次東メーヴラント戦争から約15年経った今も失った翼竜の数を完全に回復できていない。最精鋭の第117翼竜騎兵大隊をここで失う訳にはいかなかった。


“リボン”の消息を巡る混乱と第117翼竜騎兵大隊の後退を、『悪知恵の働く敵』が見逃すことはなく。

 アルグシア軍は空からの妨害が無くなったことをこれ幸いと、ドムルスブルクの環を急速に締め上げた。


 逆に、空からの解囲が失敗に終わり、救出部隊の派遣も事実上不可能という現実に対し、クロブコフ少将はようやっと総司令部の意向に逆らい、包囲突破とドムルスブルクからの撤退へ手を付けた。もはや手遅れの状況だったが、まだチャンスは残されていた。


 ドムルスブルク外縁部で、ニーヴァリ独立機動戦隊が市街の防衛から攻撃に転じたアルグシア軍一個旅団を相手に死闘を重ねていた。


 言い換えたならば、ラインハルトは残り少ない物資をやりくりしながら、第23歩兵師団の背中を守り続けている。

 この日も数時間に及ぶ攻勢支援砲火の後、真っ黒な爆煙が漂う中を銃兵の群れが前進してきていた。


『敵歩兵集団の前進を確認。規模は約一個中隊、複層散兵隊形にて接近中』

 警戒/観測班の報告に、指揮所のラインハルトは懐中時計を確認した。

 今日は4時間半。砲撃の時間は着実に短くなっているな。

 備蓄分の砲弾が少なくなってきたか。それとも、こちらの動きを誘う偽装か。相手は悪知恵が働く。単純に判断できない。


 ラインハルトは魔導通信器の通話器を手にし、各拠点へ命令を下す。

「距離200まで引きつけてから射撃開始、その後の判断は各隊指揮官に任せる。装甲トラクター隊、出撃用意。俺の号令を待て」


「戦隊長。この調子が続くなら燃料の予備が一週間と持ちません。車両部隊は温存した方が良いのでは?」とエーデルガルトが意見具申。

「出し惜しみして兵を死なせるよりマシだ。それに」

 ラインハルトは冷徹な顔で言い放つ。

「我々を相手にすれば手痛い目に遭うと思い知らせれば、攻撃圧力を第23師団の方へ向けるだろう」

 希望的観測ではない。相手がそう判断するほど叩きのめす。


 現状、ニーヴァリ独立機動戦隊は廃墟や瓦礫の山を拠点に、幅8キロの敵主攻面へ扇状陣地を構築。手元にある全ての手動式機関銃と戦隊砲兵を配備し、側面を装甲トラクターと随伴擲弾兵で守っている。師団砲兵の支援はない。


 やることは敵を弾幕で押さえつつ、装甲トラクターで敵の退路を寸断。戦意を奪って降伏に追い込むか、十字砲火で殲滅するだけ。古典的な防御的鉄床戦術だ。


 都市外縁の平野は装甲トラクターの待ち望んだ戦場でもあった。起伏の少ない平坦な地形。砲弾に耕されてはいても機動に適した地面の固さ。敵銃兵を一方的に薙ぎ払い、大きく太い車輪で文字通り踏み潰す。

 アルグシア軍魔導兵が魔導術で撃破を試みたり、勇敢な銃兵が肉弾攻撃を挑んだりするも、随伴の擲弾兵達が牽制射撃で押さえ込んだ。


 紀元前古代の戦象部隊のように、機甲部隊が戦場を蹂躙していく。

 降伏勧告は一度だけ。拒絶するならぶち殺す。容赦なく。慈悲もなく。


 そして、ラインハルト達にささやかな勝利を喜ぶ暇はない。大急ぎで死傷者と捕虜を後方に下げ、戦場に散乱した武器弾薬その他を搔き集める。整備兵達は残り少ない装甲トラクターを躍起になって修理する。補給班が各隊へ残り少ない弾と飯を配って回る。

 その間、ラインハルトは第23歩兵師団司令部へ脅迫同然の補給要請と撤退の具申を行う。


 罵詈雑言混じりの通信を終え、ラインハルトは忌々しげに吐き捨てた。

「野戦任官で中佐に昇進だと。そんなものより弾と飯を寄こせってんだ」



 ラインハルトが粗末な指揮所で望まぬ昇進へ毒づいている頃、アルグシア軍の『悪知恵が働く敵』は冷静に状況を分析していた。


 ニーヴァリ戦隊は強い。強力な装甲車両に加えて将兵の練度と経験も充分。市街戦で疲弊しているはずだが、士気も衰えていない。強引に押し潰そうとすれば犠牲が出過ぎる。

 幸い、物資不足から積極的な運動を控えているようだ。砲撃で射竦めておけばいい。


 やはり狙うなら第23歩兵師団の方だろう。市街内の一個旅団から戦力を転出し、臨編旅団の増援に回す。騎兵一個連隊もあれば“簡単”なのだが……まあ、問題ない。コルヴォラント人部隊で充分補える。


『悪知恵の働く敵』は数学の問題でも解くように第23歩兵師団を撃破する策を進めていく。


     ○


 夏のその日。

 ベルネシアでは王妹大公家でちょっとしたお茶会が催され、ステラヒール社の開発陣と“大熊”ハイラム夫妻が招待された。王妹大公家次男坊ヒューゴ君が道楽家エルンスト・プロドームから開発陣のサインが入ったストロミロMkⅡドンダーの模型を贈られて感激し、イネス・バラーサとの出会いで“好み”の扉が開かれたりした。


 クレテアにテレーズ王女とアンリエッタ姫が帰国し、両姫君は旅の土産話を大いに披露し、父王と伯母を大変楽しませたり。アンリエッタ姫が王妹大公家嫡男と文通したいと言い出し、父王を固まらせたり。

 なお、王妃陛下は娘達の土産が期待したような衣服や装飾品では無かったことに頬を膨らませた。


 イストリアのトレビシック・パーソンズ社はレースの惜敗に臍を噛み、経営資本をレースにがっつり投資することを決意した。その結果、数年後に経営が傾いて同業他社に合併されてしまうが……その名は後世の機械化車輛史にもしっかりと刻まれている。


 そして、第三次東メーヴラント戦争において、致命的な事態が起きた。

 クロブコフ少将は包囲突破のため、優良な状態を保っていた第234連隊の陣地転換を行った。


 そこへ、狙いすましたようにアルグシア軍臨編旅団の外国人義勇兵部隊が襲い掛かった。防御陣地から出たところを襲われたため、第234連隊はなす術なく潰走。この日の夕食配給を受けられた兵士はわずか300名余に過ぎなかったという。


 第23歩兵師団麾下の三個連隊のうち一個連隊が壊滅し、包囲下の防御線に大穴が開いた。

 すなわち――戦線崩壊。


      ○


 第234歩兵連隊が壊滅したことで戦線が崩壊し、第23歩兵師団の損害は急カーブを描いて上昇していく。

 クロブコフ少将と師団司令部は崩壊した戦線を繕い直すことに必死で、何も出来なくなっていた。壊滅する覚悟で撤退へ挑む勇気も、現陣地を死守して全滅する覚悟も固まっていない。

 包囲の環は第23歩兵師団とニーヴァリ戦隊をいよいよ絞め殺そうとしていた。


「撤退すべきですっ! 友軍の戦線まで二日の距離だ、今なら強引にやれるっ!」

『既に各大隊は中隊規模まで損耗している強引な包囲突破など不可能だ』

「では、来る当てのない救出部隊を待つとでも? 無駄死をお望みかっ!?」

『――貴官はドムルスブルク方面の敵を押さえていれば良い。通信終了』


 一方的に通信を切られ、ラインハルトは憤慨しながら通話器を叩きつけるように魔導通信器に置く。

「事務屋めっ! 負け戦の仕方も知らないのかっ!」


「そりゃあ、中佐殿ほどには長けておらんでしょうな」

 年かさの先任准尉が戦い慣れた男の笑顔を浮かべ、

「ところで、中佐殿」

 笑顔を手頃な銀行を見つけた強盗団の頭目みたいな顔に変えた。

「耳寄りな話があります」


「なんだ?」とラインハルトが不機嫌顔で問い質す。

「第234連隊が壊滅し、各部隊の損害が増えた関係で、師団兵站部には再分配待ちの物資が溜まってるそうで……武器弾薬に食い物、医薬品、そう多くはありませんが魔晶油もあるとか。ついでに予備の軍服も」

 にやりと笑う先任准尉。見事な悪党面だった。


 補給が絶えて以来、ラインハルトの部隊は物資が欠乏している。軍服の予備すらない。そのため、アルグシア兵の軍服を着こんでいる者が少なくなかった。


 ラインハルトは腰の拳銃をホルスターごと抜き、准尉に渡した。

「この“命令書”で必要なものを持てるだけ持ってこい」


「懐かしいですな。ツァージェの戦いで撤退した時を思い出します」

 先任准尉は懐かしそうに頷き、銃をラインハルトへ返す。

「ですが、この大砲は中佐殿が御持ちを。何、大丈夫です。ウチの若いのは抜け目のない連中が多いですからね。上手くやりまさぁ」


 結論から言えば、准尉が率いる“特殊コマンド”は見事にやり遂げた。

 大型荷馬車4輌分の補給物資を調達し、魔晶油の詰まった大樽をいくつも持ち帰ってきた。これらの物資により、ニーヴァリ戦隊はエピネフリン注射を受けた重篤患者の如く息を吹き返す。


 もっとも、この吉報はラインハルトの下へ届いた凶報に優るものではなかった。


 カロルレン軍総司令部は包囲下からクロブコフ少将と高位貴族出の一部将校を翼竜騎兵で脱出させ、残る将兵に死守命令を下した。


 王政国家で高位貴族の子弟である将校があたら死んだり捕虜になったりすれば、政治的に面倒な事態になる。

 時代と国情の道理に叶う命令だった。


 それに、時間が必要だった。この敗北を修繕する時間が。この敗北で大きく狂った戦争計画を立て直す時間が。これらの時間を稼ぐため、包囲内の第23歩兵師団将兵とニーヴァリ戦隊に最後の一兵まで抵抗させる必要があった。

 戦争の道理に叶う命令だった。


 しかし、ラインハルトは魔導通信器へ返事をする代わりに腰の拳銃を抜いた。魔導通信器を撃ち抜いて、冷酷な声音で吐き捨てる。

「不通だ」


 戦隊本部に居た全員が戦隊長の“決断”に首肯し、

「はい。戦隊長。総司令部の命令は不幸にも我らに届きませんでした」

 先任准尉の”見解”に戦隊参謀達も大きく頷く。


 エーデルガルトが陶然とした面持ちで、蕩けた眼差しで、熱を込めた声で告げた。

「戦隊長。御命令を」


 ラインハルトは姉お手製の略帽を被り直し、部下達を見回す。

「これより我々は当陣地を放棄し、撤退戦を始める。総員、準備に掛かれ」

 深緑色の瞳が精気と活力に満ちていた。






 メーヴラントの西でレースが終わった後、東で再びレースが開かれる。

 カロルレン軍が友軍戦線へ脱出することが先か。アルグシア軍の追撃が届く方が先か。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 戦争の恐ろしさ(主に無能で冷徹な上層部と国家指導層)が良くわかる。 [気になる点] 作者さんはユやロ、ロなどの 表の世界史では出てこないような謀略などに詳しいとお見受けしますが、最近のそれ…
[良い点] 優雅に常勝しまくってたどっかの金髪儒子と違って、こっちのラインハルトは泥にまみれてしぶとく生き残るのが強くてすこ。
[一言] この包囲から仮に生きて帰っても、あれよあれよという間に争いに巻き込まれるんだろうなぁ。
感想一覧
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