21:8d
お待たせしました。
西のレースが佳境を迎えた頃、東のレースも山場を迎えつつあった。
この日、ドムネル=ニムハウゼン湖沼地帯は朝から戦闘騒音が絶えなかった。ドムルスブルクを目指すクロブコフ少将の第23歩兵師団を支援すべく、ニムハウゼン屈折部の各前線でカロルレン軍がアルグシア軍防衛部隊へ圧力を加えている。
そして、作戦の最先鋒を担うラインハルト・ニーヴァリ少佐の機甲部隊は、アルグシア軍が構築したドムルスブルク前面の防御線を食い破らんと悪戦苦闘を繰り広げていた。
元々の難地形と限られた道路に加え、アルグシア軍の趣向を凝らした歓迎――切り倒された街路樹のバリケード、スコップと土系魔導術で掘り起こされた対車輛壕、水系魔導術で作られた泥濘、小川や水路に掛かる橋は悉く落とされているかブービートラップが仕掛けられている等々――が進撃を阻む。
挙句、障害物や妨害を厭って迂回すれば、アルグシア軍の急造野戦陣地が待ち構えていた。
一つ一つ強引に突破していては損耗してしまう。かといって、迂回を重ねては時間が足りない。そこへ、師団本隊が『さっさとドムルスブルクへ突入しろ』と30分ごとに文句をつけてくるのだから鬱陶しいこと甚だしかった。
ラインハルトが魔導通信器を叩き壊したい衝動を堪えているところへ、先遣の烏竜騎兵が吉報を持ってきた。
「ここより西3キロに、地図に未記載の橋を発見。確保しました」
「どういうことだ。なぜそんなところに橋がある」
ラインハルトが敵の“釣り”を疑うも、烏竜騎兵は苦笑いを返す。
「神聖レムス時代の遺構だそうで、地元民も年寄りが辛うじて知っていたぐらいです。橋に繋がる道も完全に藪で覆われていました。アルグシア側も認識していません」
マジかよ、とラインハルトは目を瞬かせて考え込む。罠の可能性は否定できない。なんせ対峙している敵は油断ならない手合いだ。橋を渡った先が十字砲火の殺し間だってあり得る。
しかし、この予期せぬ渡河点を使えれば、本日中にドムルスブルクが見えるだろう。
「……その橋は車輛が渡れそうか?」
「魔導術と資材で補強すれば可能かと」
烏竜騎兵の回答から補強作業時間を考慮し、
「工兵隊を連れて先行しろ。橋の補強を完了次第、ドムルスブルクを目指す」
ラインハルトはサイコロを投げた。
その精悍な横顔に、エーデルガルトは情動を強く刺激された。心から愛して崇敬する男が徐々に“本領発揮”しつつある様に心が震え、下腹部に熱を覚える。
もっとも、不屈の野戦指揮官ラインハルト・ニーヴァリの本領発揮とは、魔女の鍋の底が近いことに他ならないが。
〇
「こっちの方が速いのに、なんで追いつけないのっ?!」
ハンドルを握るイネス・バラーサは疑問と苛立ちを混ぜて毒づく。
黒煙を吐くトレビシック・パーソンズの黒いマシンを追い抜いたためか、可憐な顔立ちが煤に汚れている。まあ、元より冷や汗に砂塵が塗れていたけれども。
レース開始時に出遅れていたにもかかわらず、往路の頭で先頭争いに加わったことが示す通り、ステラヒールの青い雷の速度性能は参加車輛で最速だった。ストロミロMkⅡのビックリドッキリメカ『手動式三段変速機』で出力伝達効率が高く、加速力と最高速で白獅子のモデル84Rに優っている。
しかし、白獅子の白い歌姫に追いつけない。直線で距離を詰められても、コーナーで距離を離されてしまう。
「ちきしょーっ! 奴らの方が突入と立ち上がりが速ェッ!」
機関士のミトニックがシンギング・エリーのケツを睨み据えて唸る。ドライバーの腕で負けている、とは言わなかった。
ドラッグレースのように直線を突っ走るだけならともかく、サーキットや公道のレースではコーナーが勝敗を分ける要因になりがちだ。
そして、コーナーの速さは制動系と操縦系とタイヤの性能。ドライバーの技量が大きい。
一例を挙げよう。
地球史1950年代。ジャガーのマシンは世界初の自動車用ディスクブレーキを搭載し、ル・マン24時間耐久レースで連覇を飾った。
当時一般的だったドラムブレーキよりも強い制動力と耐熱性を持つディスクブレーキにより、ジャガーのマシンは他のマシンよりコーナー突入速度を稼げたうえ、他のマシンのドラムブレーキが熱ダレしていく中、着実な制動能力を維持し続けたという。
究極的に言ってしまえば、どれだけ素晴らしいエンジンを搭載していようと、どれだけ緻密な駆動系を構築していようと、ブレーキがショボショボでは、どれだけ練達のドライバーを乗せても十全な走りを実現できない。タイヤがヘナチョコではどうにもならない。
白獅子のモデル84Rシンギング・エリーは車体構成要素――エンジン。ボディ。タイヤ。駆動系。吸排気系。制動系。操縦系。全てにおいて高水準で仕上げられているだけに、タイヤと制動系も質が高い。
「本当に追いついてきましたな」
「速度性能は向こうが上のようだ」
ヴァンダーカムが肩越しに背後を窺って唸り、レクスがにやりと口端を歪める。
ステラヒールの青いマシンが排気管から黒煙を吐くトレビシック・パーソンズの黒いマシンを追い抜き、白獅子の歌姫に迫っていた。
「だが、エンジンや駆動系だけが速さじゃない」
レクスは粗い砕石舗装の街道を走らせながらコーナーを睨む。
「ブレーキとタイヤを使い潰すつもりで走る。エンジンを上手くあやせよ」
「了解。思いきりどうぞ」
ヴァンダーカムの返答を聞き、レクスはシンギング・エリーをコーナーへ突入させた。
制動系が許すぎりぎりまで堪え、がつんとブレーキを踏みこむ。高摩擦素材製のブレーキシューがホイールリムへ噛みつき、身を削りながら速度を落とさせる。
車体が減速しながら教科書通りのアウト・イン・アウトのライン取りでコーナーを超えていく。遠心力の荷重に車体がしなり、外装がばたばたと揺れる。サスペンションがみしみしと軋み、スライム皮革製の疑似ゴムタイヤが粗い砕石舗装の路面にがりがりと削られる。
立ち上がりに移り、ヴァンダーカムが機関部制御盤を操作。白い歌姫が猛々しく歌いながら躍動し、青い雷をコーナーで引き離す。
「また引き離されたっ!」
遠くなった白いマシンのテールを睨み、イネスが悔しげに唇を尖らせた。
レース開始前は半ベソで嫌がっていたのに、今や勝負に勝つこと以外何も考えていない。ある意味でレースに完全没頭し、集中しきっている。
「おい、無茶すんなイネス嬢ちゃんっ! 街道は路面が粗ェッ! 接地衝撃がバカにならねェんだっ! 変速機がもたねェぞっ!」
前述したように、ドンダーの手動式三段変速機はクラッチ機構無しで無理やり嚙み合わせる代物。当然ながら駆動系に与える負荷は大きい。ぶっちゃけ素材の頑丈さや耐久性頼りだ。物理的な限界が来たら容赦なくぶっ壊れるだろう。そうなれば、もう走れない。
でも――
「ここで引き放されたら追いつけませんっ!!」
機関士ミトニックの助言に、イネスは雌狼のように唸る。
繰り返す。イネスは勝つことに全霊を注いでいた。勝つこと以外のことを全て削ぎ落していた。自分の出自や氏育ちのことも、殺しても殺したりないほど憎む母と母の情夫のことも、このレースが両陛下の台覧試合であることも、大金の掛かったマシンを扱っていることも、全てを明後日へ投げ捨て、イネスは瞬きも忘れて眼前の白いマシンを睨み据え、吠えた。
「絶対、絶対に勝つんですっ!! あの人のために、皆のために、私自身のために、絶対に勝たなきゃダメなんですっ!」
白い歌姫と青い雷が街道を一心不乱に駆けていく。
街道の先にリュッツェンの尖塔が見えてきた。
〇
空中観戦用飛空船。
固唾を呑んで先頭争いを見守っているテレーズ王女へ、アンリエッタ姫が楽しそうに言った。
「随分と熱心に見てらっしゃいますけど、御姉様はどちらを応援してらっしゃるの?」
「え? いえ、私は別に応援なんて……我が国の選手が脱落した今、どこの誰が勝とうと興味ありませんわ」
なぜかしどろもどろになって否定するテレーズ。
「そうですか。私はもちろん白獅子のマシンですわ、ウィレム様」
アンリエッタはあっさりと姉の反応を放りだし、ウィレムに身を摺り寄せて上目遣い。
「ありがとうございます。アンリエッタ様に応援していただければ、弊社の選手も力が入りましょう」
モテることに慣れているため、ウィレムは美少女に色目を使われても動じたりしない。
「ウィレム様。私のことは是非クラリスとお呼びになって。ふふふ」
呆れ顔の姉を余所に、アンリエッタはウィレムにがんがん迫る。
「それは、その、テレーズ様のお許しがいただければ、ということで」
クラリス・アンリエッタ・ド・クレテアは狩猟者の如くであり、さしものウィレムも気圧され気味になってきた。
「あまりウィレム様を困らせるものではないわ」テレーズは即座に言い「まったく年頃の娘がはしたない。もう少し淑やかに振る舞ったらどうなの」
すぐそこにベルネシア国王と王妃がいるのだからみっともない真似すんな、と言いたげに王女が妹を見据えるも、アンリエッタは姉へ減らず口を叩く。
「御姉様ったら、“こんなところ”でも御小言する気? そんなだから婚約者が決まらないのよ。サルレ……こほん、ジョセフィーヌ様なんて婚約どころか結婚の予定まで決まってらっしゃるのに」
「――それを言ったら、それを言ったら戦争よ、クラリス」
御尊顔に青筋を浮かべるクレテアの薔薇。麗しきマジキレであった。
「姉妹仲がよいのですね」とウィレムが如才なく仲裁に入る。
「ええ。公衆の面前で気の置けないやり取りを交わせるくらいに。ね、御姉様♡」
「~~~~~」
アンリエッタが悪戯っぽく微笑み、テレーズは口の減らない妹に歯噛みした。
クレテアのやんごとなき姉妹と我が子の“仲良き”やりとりを横目にしつつ、ヴィルミーナは密やかに眉を下げた。
ぶっちゃけ我が子の嫁がクレテア王族とか面倒臭すぎる。
なんせヴィルミーナは潜在的にクレテアを“依然として『敵国』と認識している”から。
加えて、カレル3世やエリザベスが時折『あれが誰か分かってるよね?』と雄弁な視線を投げて来ていた。ええ。もちろん分かっています分かっていますとも伯父様おば様。
ヴィルミーナが密やかに嘆息をこぼしかけたところへ、
「御観戦中に申し訳ありません、ヴィルミーナ様」と秘書が身を屈めて背後から近づき、耳打ちする。
「アルグシア連邦のシュタードラー子爵様が王都社屋へお越しになり、大会後に御時間をいただきたいと。社屋の者が判断を求めております」
第三次東メーヴラント戦争の件か。とヴィルミーナは目を細める。
白獅子財閥はアルグシア連邦で活動を鈍くしていた。
リソース配分の問題だ。イストリア。クレテア。アルグシア。聖冠連合帝国。旧フルツレーテン。カロルレン・マキラ大沼沢地。地中海。外洋。白獅子はこれだけ手を広げており、優先順位をつけている。中には手放した利権もある。
たとえば、かつて国内経済界と揉めた際に手を付けた北洋のロージナ利権は、他の利権へ手を付ける際、手札として切っている。
アルグシアの出先商館などはほとんど連絡事務所程度にまで縮小されており、北洋貿易商事の隠れ蓑程度の価値しかない。
とはいえ、シュタードラー卿は軽んじてならない人物だ。
「お会いするわ。予定を組むように伝えて」
「かしこまりました」
滑らかに離れていく秘書を視界外に追いやっていると、カレル3世が姪に苦笑を向けた。
「依然、アルグス人に気に入られたままのようだな」
「カロルレンで事業を展開して以来、大分嫌われたと思っていたのですけれどね」
ヴィルミーナは少しばかり鼻息をつき、伯父へ微笑む。
「ま、今は世界最初のモーターレースを楽しみましょう。間もなく勝敗が決しますし」
眼下で二台のマシンが市街内道路へ進入していく。
いよいよクライマックスだ。
〇
レクス・ヴァン・ハウベルトはハンドルやシートから伝わる手応えや感触からマシンの状態を把握していた。
――予想よりブレーキとタイヤの消耗が速い。コーナーへ深く飛び込めるのはあと一度が限界か。
「ヴァンダーカムッ! 雑貨屋前の大コーナーでフルブレーキングだっ! その後はもうブレーキとタイヤは頼れないっ! 任せるっ!」
「了解っ! 思う存分飛び込んでください、レクスッ!」
相棒の頼もしい了承を得て、レクスは肩越しに背後を一瞥する。
青い雷を駆る小麦色肌の乙女。もはや彼女への侮りは微塵もない。出遅れたスタートから先頭争いまで昇ってきた。マシンの性能だけで成し得ることではあるまい。
認めよう。貴女は優れた乗り手だ。
なればこそ――負けるわけにはいかない。
雑貨屋前の大コーナーの先からゴールの広場まで、緩い小コーナーと直線しかない。速度性能に優る青い雷にまくられる可能性を否定できない。このまま逃げ切りを決めるためには、大コーナーで出来る限り距離と速さを稼がねば。
「勝負だっ!」
石畳で舗装された市街道路を快走するシンギング・エリー。左右の路肩、規制線の向こう側や道路沿いの建物の窓や屋上から歓声と声援が降り注ぐ。
三気筒蒸気機関ロスリング84型が排気口から荒々しく白煙を吐き出し、猛々しく歌う。ピストンが勇躍し、ギアが目まぐるしく回り、チェーンが踊る。
レクスはぎりぎり、否。限界を超えて大コーナーへ突入した。速度が速すぎる。ハンドルをどれだけ切っても車体が遠心力の手を振り払えずにラインのアウト側――路肩へ向かって引っ張られていく。コースアウトする、と判断した観客達が慌ててその場から逃げ出す。
「まだだっ! まだ終わらんぞっ!!」
ブレーキペダルを床ごと蹴り抜く勢いで踏みつけ、ワイヤーを通じて伝わった機械式リムブレーキがタイヤを思いきり締め上げた。
瞬間、タイヤがフルロック。石畳の上を強烈な摩擦音と共に滑り、摩擦熱で焼けた接地面部分から白煙が上がった。この滑走によりテールが振られて鼻面が大きくイン側へ向く。
レクスは直感的にブレーキをリリースし、代わりにアクセルペダルを踏み殺さんばかりに踏みつけた。駆動輪に荷重が掛かり、前輪が暴れ、イン側へ入り過ぎようとする。も、咄嗟にハンドルを逆方向に切って抑え込む。
「今だ、ヴァンダーカムッ! エンジン最大出力っ! 前へ押し出せっ!!」
「了解っ!!」
俗にいうパワースライドからのカウンターステアリングを成功させ、シンギング・エリーが運動エネルギーをほとんど失うことなく大コーナーを突破。
「なによ、それ……なによ、それぇえっ!」
コーナーで大きく引き離され、イネスはゴーグルの中で目を剥きつつ怒鳴る。
「ミトさんッ! エンジンをもっと回してっ!! もっともっともっとっ!!」
「嬢ちゃん、無茶じゃあっ! これ以上はエンジンが爆発しちまうっ!」
「ゴールまで持てばいいっ! 回してっ!!」
「ちきしょうっ! どうなっても知らんぞぃっ!!」
青い稲妻が疾駆する。シリンダーが吹っ飛びそうなほどエンジンをぶん回し、リュッツェン市内を激走する。
街は夏の暑気を蹴り飛ばす熱気に満ちていた。歓声と排気音。声援と駆動音。燃料の焼けた臭いと白い水蒸気。路面を微かに踊る砂塵と削れたタイヤの欠片。
白獅子のシンギング・エリーが先んじてゴールに通じる直線へ進入。タッチの差で続くステラヒールのドンダー。
レクスもイネスももはやゴールしか見えていない。ヴァンダーカムもミトニックもエンジンがゴールまで持つことを祈るだけ。
二つの排気音が通りに響き渡り、二つの駆動音が歓声を蹴散らす。三気筒蒸気機関の歌声が奏でられ、V4ストロミロ・エンジンの轟きが走る。
ゴールまであと100メートル。
80メートル。
ロスリング84型エンジンがオクターブを上げて限界まで駆動系をぶん回す。
50メートル。
V4ストロミロ・エンジンが絶叫した。駆動系が悲鳴を上げる。
30メートル。
白いマシンと青いマシンの距離はテール・トゥ・ノーズへ。歓声と声援が津波のように通りに満ちる。
20メートル。
最高速の差が出る。青いマシンが白いマシンを抜きに掛かる。ドンダーの鼻先がシンギング・エリーのテールを超え、後輪の先を行き、レクスの傍らを抜け、前輪に並び。
10メートル。
青いマシンのボンネット内から破滅の音色が響く。無理が祟ってミッションのギアが砕けた。砕けた破片がミッション系を破砕していった。
5メートル。
速度を落とした稲妻を歌姫が置き去りにし、
0メートル。
ゴールラインを白獅子製モデル84Rシンギング・エリーが越え、慣性の法則によって進むステラヒール製ストロミロMkⅡドンダーが滑り込む。
リュッツェン市代官の娘がばっさばっさとフィニッシュフラッグを振るう。
この日一番の大歓声がリュッツェン市を包んだ。
〇
稼働を終えてゆっくりと冷えていくエンジンや排気音が、チンチンと金属収縮の音色を漏らしていた。潤滑油や摩擦材が焼けた匂いが仄かに薫る。
顔を覆う覆面を外し、硬皮革製ヘルメットを脱いだレクスは大きく息を吐き、隣で同じくヘルメットを脱いだ髭面親父ヴァンダーカムと向かい合い、揃って苦笑をこぼした。
「勝てた、な」
「ええ。勝ったのではなく、“勝てた”、ですね。レクス」
ですが、とヴァンダーカムは右手を差し出した。
「貴方の運転は最高でしたよ、レクス。この勝利を誇るべきだ」
「ありがとう。君のあっての勝利だったよ、ヴァンダーカム」
2人は固い握手を交わし、満面の笑みを湛えて駆け寄ってきたスタッフの面々にマシンから引きずり出され、揉みくちゃにされた。
一方――
「ご゛め゛ん゛な゛さ゛い~~~~~~っ!!」
マシンのドライブシートで、ゴーグルを外したイネス・バラーサが泣いていた。大粒の涙を大放出する号泣だった。とめどなく流れる涙と鼻水が煤と砂塵で汚れた細面を洗うほどの、大号泣だった。
隣の席でミトニックが苦笑していた。駆け寄ったシモン・フランソワ・ディメを始めとするワークスの面々もやはり苦笑している。カーヤ・ストロミロすら日頃の不景気面を遠くに追いやり、柔らかな微苦笑をこぼしていた。
「何を謝っているのだね、イネス嬢。君は最高の仕事を成し遂げたというのに」
エルンストも苦笑いして、号泣し続けるイネスへ声を掛ける。
「だって、だって、勝てなかったぁっ! あと少しだったのに勝てなかったぁっ! それに、それに、皆が作ったマシン、壊しちゃった。カーヤ様のマシン、壊し……ぅわぁああああああんんんんっ!!」
更なる大号泣をするイネス。
マシンを囲む大人達は互いの顔を見合わせ、そして、大爆笑した。
「私はイネス嬢がただただ誇らしいぞ。さぁ皆、我らの乙女を降ろそう。イネス嬢の活躍を祝福しようじゃないか」
おおっ! とワークスの面々が泣き続けるイネスを強引に運転席から引きずり出し、その場で乱暴な胴上げを始める。
「ひゃあああああっ!? なんですか、なんですかっ!? やめてくださいっ! 怖いです怖いですぅっ!?」
イネスの泣き声が号泣から悲鳴に切り替わり、笑いが一層大きくなった。
そうして、ようやく解放されたイネスを、カーヤが心底愛おしげに抱きしめる。
「無事にゴールできてよかった。貴女は最高よ。誰が何を言おうと貴女は世界で一番よ、私のイネス」
「カーヤ様……」
ようやく泣き止み始めたイネスの顔を、カーヤはハンカチで優しく拭い、母性と愛情をたっぷりに告げた。
「ありがとう、イネス。愛してるわ」
「……私もです、カーヤ様。大好きです」
イネスがはにかんだ笑みを浮かべ、カーヤは躊躇なく恋人の柔らかな唇に口づけした。
衆人環視の中で。
長身のベルネス人美女と可憐な混血乙女が熱いキスを交わし――
幸か不幸かたまたま居合わせた記者の写影器でぱちりと撮影した。
この一枚のドラマティックな写真が聖王教圏で大騒ぎを招くことを、まだ誰も知らない。
〇
走行可能な全車両がゴールした後、表彰式が開かれた。
優勝した運転手のレクスへ国王カレル3世から銀製の優勝杯が渡され、機関士のヴァンダーカムに王妃エリザベスから記念盾が渡された。
また、優勝チームには金のメダル。準優勝チームには銀のメダル。三位入賞チームに銅のメダルが贈られ、参加した全チームに記念メダルが贈られた。
観客達は全参加選手に惜しみない歓声と称賛の拍手を送る。
斯くて、世界初のモーターレースは大きな昂奮と感動を生んで幕を閉じて、
宵を迎えたリュッツェン市は街を挙げての大宴会となった。
〇
西のレースが終わった頃。
東のレースも幕を迎えつつあった。
忘れ去られた遺構の橋を渡り、迂回機動の末にラインハルトの機甲部隊は日暮れまでにドムルスブルクへ届いた。
しかし、そのゴールは成功を意味しなかった。
ドムルスブルクには既にアルグシア軍一個旅団が十分な迎撃態勢を整えていたのだ。
「こんなの聞いてないぞっ!? 敵増援はまだ到着してないはずだろうっ! その前提で俺達は敵中突破してここまで来たんだぞっ!! どうしたら一個旅団の動きを見落とせるんだっ!!」
強力な防御態勢を固めた都市を前に、ラインハルトは誰へともなく怒鳴った。
ラインハルトの悪罵に釈明できる者はいない。
戦場の霧だ。
神ならざる人間に、刻一刻と千変万化する戦場の精確な情報を掴みえることはできない。
数多の勝利を重ねた戦争の天才ナポレオンですら、数えきれないほど戦況の誤認を重ねたのだから。
「戦隊長、あの、師団司令部から命令です」
通信手が泣きそうな顔で鬼の形相のラインハルトへ告げた。
「計画通りにドムルスブルクへ突入せよ、と」
ラインハルトは眉目を吊り上げ、
「バカかっ!! 敵はこちらの裏を掻いてたんだぞっ! どんな罠が張り巡らされてるか分かったもんじゃないっ! そんなところへ正面から飛び込めってのかっ!」
装甲トラクターの床を思いきり蹴りつけた。
「クソッタレめっ!!」
運命の女神が嗤っている。
長かったレース編終わり。
本章の残りを巻いていきます。




