9. 本当の望み
昔のことは、よく憶えていない。
気が付いた頃には、僕は人間の男の人と暮らしていた。
僕はその頃、自分も彼と同じ人間だと思い込んでいたような気がする。
彼が年老いて死んだ時に、まだ若いままだった僕はようやく、僕が彼とは「違う」存在なのだと気付いた。
☆
せっかく作るのを手伝ってくれたんだから、と言って、理桜は夕飯を一緒に食べないかと誘ってくれた。
友香は一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせたが、
「うちも多分、家政婦さんがごはんを作ってくれてると思うから、今日は帰るわ」
と残念そうに断った。
「そっか……。じゃあまた今度、先に予定を決めて夕食会でもしようよ」
「いいの? ……あ、それとも、次は理桜がうちに来る?」
「え、行きたい行きたい!」
「分かった。お父さんに訊いておくね」
親しげに話す二人はすっかり仲の良い友達同士のように見え、つい何時間か前まではほとんど話したこともなかったとは信じられないくらいだった。
「あ、そうだ忘れてた。これ……」
友香が帰らなければいけない時間の少し前、理桜が思い出したように隣の部屋――寝室?――へ行き、僕に一枚の紙を持ってきた。
「幸太君からの手紙」
と言って渡されたその紙には、「おにいちゃん ありがとう」と、クレヨンの少し歪んだ字で書かれていた。
「それの書き方、わたしが教えたの。よく書けてるでしょう」
理桜がちょっと自慢気に言った。
理桜が書いた見本を頑張って書き写す幸太君の姿が目に浮かんだ。
「……ありがとう」
「コウタ君、って?」
友香が首をかしげる。
理桜は、先日の一件を友香に語って聞かせた。
「そんなことがあったの。アル、頑張ったのね」
「うん。今日はそもそもその話をしようかと思って友香の家に行ったんだ」
「そうだったの。凄くいいお話だったわ。聞けて良かった。……もしできたら、その幸太君にも会ってみたいな」
「あ、だったら僕も、手紙のお礼を言いたい」
「じゃあ、今から行く?」
理桜がそう言い、また躊躇う友香も連れて、僕達は揃って隣の家へ向かった。
呼び鈴を押すと、ほどなくドアが開き、幸太君のお母さん、愛が顔を出した。
同時に、その足元から、幸太君が走り出てきた。
「おねえちゃん!」
と叫んで理桜にしがみつく。それから僕を見上げ、
「おにいちゃんも、こんにちは」
と言った。
「こんにちは、幸太君。お手紙ありがとう。今日は僕達の友達を連れてきたよ。友香っていうんだ」
僕がしゃがんで幸太君にそう言うと、幸太君は理桜から離れ、友香を見上げてぺこりと頭を下げた。
「ともかおねえちゃん。こんにちは」
「こんにちは。初めまして、幸太君」
友香は嬉しそうだった。
愛が友香をじっと見つめ、何かを思い出すような表情になった。
「あなた、ええと、杉……杉山…じゃなくて……」
「杉本、友香です」
「ああ、そう! 杉本さん! この前、ピアノのコンクールで賞を取ってたでしょう。町内会でも話題になってたわよ。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
そんなことを言われると思っていなかったのだろう。友香は赤くなってもじもじした。
「幸太、このお姉ちゃん、とってもピアノが上手なのよ」
「ピアノ? おばあちゃんちにあった?」
「そう。綺麗な音がしたでしょう。お祖母ちゃんも上手だったけど、友香お姉ちゃんはもっと上手よ。ピアノの上手い人が集まるコンクールで三位に入ったんだから」
後ろで聞いていた僕にも、その話は初耳だった。
幸太君と一緒に、
「へえ……」
と感心してしまう。
「学校でも表彰されていたわよ」
理桜が僕の隣へ来て教えてくれた。
友香はまだ愛と話を続けていたので、僕は理桜の耳元で、こっそり訊いてみる。
「友香ってやっぱり、プロのピアニストを目指してるのかな? 夢があるとは言ってたんだけど、一番の願いは、僕に叶えてもらいたくはないんだって。夢は自分で叶えないと意味がないから、って」
「そんなの本人に訊きなよ。そこにいるんだし」
「ああ……、まあ、そうだよね。でも僕、それを聞いたら多分、友香の夢を叶えてあげたくなるから……。他の願いを叶えちゃったから、もう無理なのにね」
僕は少し考えてから、さらに訊いてみることにした。
「あのさ、もし僕が、友香をピアニストにしてほしいって願ったら、理桜は叶えてくれる? 本人には分からないように」
「それが『あなたの』願い?」
理桜はふっと笑った。
「でも、わたしはそれには賛成できない。トモは自分の力を試したいんじゃないの? 結果と同じくらい過程が大事なんでしょ。だったら、そこを尊重してあげなきゃ」
「そうか……」
「何? 今、私のことを呼ばなかった?」
友香が不思議そうにこちらを振り返ったので、僕達は慌てて首を振った。
「友香がピアニストになれるといいねって話をしてただけだよ」
「そうなの……。ありがとう……」
友香の表情がかすかに曇った。
気のせいかとも思ったけれど、理桜も怪訝そうな顔で友香を見ていた。
友香の夢は、ピアニストになることではないのだろうか?
「ところで、今日は何かご用だったの?」
愛が、ふと気付いたように言った。
「あ、それはさっき僕が、幸太君からの手紙を受け取ったので、お礼を言いたくて。とても良く書けていました」
僕は進み出て言った。
「まあ、わざわざどうも、ありがとう」
愛は自分のことのように嬉しそうに、誇らしげに笑った。
僕はその様子を見て、凄く安心した。親子関係は良好のようだ。
「私からも、あなたにお礼を言いたかったのよ。でもお義母さんも理桜ちゃんも、あなたの連絡先を知らないって言うし……。会えて良かったわ。改めて、その節は本当にお世話になりました」
愛はそう言って、深々と頭を下げた。
「いえ。僕は幸太君の願いを叶えたかっただけですから」
僕は慌てて両手を左右に振った。
「今日は幸太君の元気そうな顔が見られて良かったです」
「私も、幸太君に会えて嬉しかったよ」
友香が微笑みかけると、幸太君は愛の服の裾に掴まりながら、ちょっとはにかんだ。
ひととおり挨拶も終わったので、僕達はそのあたりで帰ることにした。
「それじゃあ、お邪魔しました」
愛に頭を下げ、幸太君とは手を振って別れる。
そのまま理桜とも別れ、家に帰るという友香を、僕は送っていくことにした。
外は暗くなっていた。
夜空に光る一番星を見上げながら、友香はぽつりと呟いた。
「私をピアニストにすることが、お母さんの夢だったの……」
友香のお母さんが亡くなったのは、一昨年だという。
そういえば初めて会った時、友香が手を合わせていた仏壇には、彼女の祖父母と思われる遺影の他に、お母さんのものらしき遺影や位牌もあった。
「それは私の夢でもあると思ってた……ううん、ちょっと違うかな。私はいつかピアニストになれるに決まってるって、信じてた……思い込んでた。でもこの前のコンクールで、一位の人の演奏を聴いたら……、自信がなくなってきちゃった。私よりも上手な子なんて、きっといっぱいいるのね……」
僕はどう相槌を打ったらいいか分からなかった。
だが友香は、コメントを求めているというより、ただ話を聞いてほしかったのだろう、そのまま話し続ける。
「お父さんはね、私のことを応援してくれてるけど、つらかったらいつでもやめていいとも言うの。ピアノは趣味で続ければいいって。でも……、今までさんざん、レッスンのためとか、地方のコンクールに出るためとかに、お金をかけさせてきて、今更……。ううん、お金のことだけじゃない。理桜はあんなに立派に家事をこなしてるのに、私ったら……、何もしなくていいって言われることに甘えて、本当に何もしてこなかったんだなって、今日は思い知ったわ。なんだか自分が恥ずかしくなっちゃった」
「そんなこと、ないよ」
僕は思わず言った。
「理桜は家事はできるけど、友香みたいにピアノが弾けるわけじゃないもの。僕は、二人とも凄いと思う。理桜だって、友香のことは立派だと思ってるよ」
友香は微笑んだ。
「理桜は優しいわよね。私がお料理できないと分かっても、馬鹿にしたりはしなかったし……」
「……ねえ、友香。もし、ピアニストになりたいって願いが叶うとしたら、今ならどうする?」
僕は思い切って、そう訊いてみた。
以前は即答で断った友香も、今は迷うのだろうかと思って。
でも、
「私は、願わない」
今度も友香は躊躇わず、そう答えた。
「だって、それはズルいもの。たとえそれでプロになれたとしても、自分には本当はそんな資格がないんだって、その先ずっと思い続けることになるわ。それくらいなら私は、プロになるために努力をし続けたい。たとえそれで、実際にはプロになれなくても……、その努力だけは、間違いなく私の中に残るから」
「そう……」
僕は、「結果と同じくらい過程が大事」という理桜の言葉を思い出していた。
理桜は既に僕よりも、友香のことを理解しているのかもしれない……。
「頑張ってね、友香。僕には、応援することくらいしかできないけど……」
何もできない自分をもどかしく思いながら僕はそう言ったが、友香は微笑んで首を振った。
「アルに話を聞いてもらえて、少し楽になったわ。ありがとう、アル。ずっと友達でいてね」
「もちろん」
友香にそう言ってもらえて、僕は嬉しかった。
でも同時に、なぜか少し切なかった。
友香を家の前まで無事に送り届けて、僕は帰ることにした。
「……ああ、今日は楽しかった! でもその分、帰ったら練習しなくちゃ。また演奏も聴きに来てね、アル」
友香は満足そうに言ったけれど、今日が終わってしまうことを少し惜しんでいるようにも見えた。
「うん、行くよ。今度はちゃんと、休みの日に」
僕がそう答えると、友香は安心したように微笑んだ。




