7. おかえりなさい
「こんにちは」
呼び鈴を鳴らして出てきた女性、幸太君のお母さんに、僕は言った。
ドアを開けた瞬間は期待に満ちていた彼女の表情が、さっと曇る。
「誰……?」
彼女は僕の顔を憶えていないようだった。
あれから色々調べて準備をしていたら、二週間も経ってしまったから、それも当然かもしれない。
「僕は願いを叶える妖精です。あなたの願い事を、一つ叶えてあげましょう」
「は? 妖精?」
「はい、妖精です。あなたの願いを叶えます」
「何を言ってるの? だったら証拠を見せてよ」
女性は胡散臭そうに僕を見た。
最近は色々な詐欺があるから、警戒しているのかもしれない。
「それが、あなたの願いですか? 言っておきますが、願いは一つしか叶えられないんですよ。証拠を見せたら、僕はそれで帰ることになります」
「え、ちょ、ちょっと待って」
女性は少し考える様子を見せた。
「……私の恋人が、なぜかここ二週間くらい、ずっと来てくれないの。前は三日に一度は来てたのに……」
「その理由が知りたいですか? それが、あなたの願いですか?」
僕が訊くと、女性はぶんぶんと首を振った。
「知りたくない! 理由なんて、絶対」
「それなら、あなたの願いは何ですか?」
「それは……」
女性は何かを言いかけ、ふと言葉を切った。
「……あなた、誰に言われてここに来たの?」
「え?」
「まさか、あの人達に偵察を頼まれたんじゃないでしょうね」
「あの人達? 誰のことです?」
「とぼけないで。私が母親にふさわしくないとか言って、また幸太を取り上げようとするんでしょう!」
実を言えば、僕は既に大体の事情を知っていた。
この人は三年前に夫を亡くしているが、その亡くなった夫の両親が、幸太君を引き取りたいと言ったらしい。
この女性――愛という名前だ――は、それを拒否したようだ。
恋人と好きにやりたいなら、子供など手放したいと考えそうなものだが、そうしていないということは、幸太君に対して愛情を持ってはいるのだろうか。
「幸太君が大切なら、どうして放っておくんですか? 僕は幸太君のことを心配している近所の人に頼まれて、あなたの話を聞きに来たんです」
「近所の人……そう……。世間の人は皆、勝手なことばかり言うのよね」
「勝手、ですか?」
「幸太の父親が死んでから、私はずっと働いてきた。だってそうやってお金を稼がないと生きていけないでしょう? でも、ロクな働き口なんてなかった。疲れる割に時給は安いし、上司は横暴だし。幸太を保育園に入れるのも苦労したけど、あの子がもし熱でも出そうものなら、仕事中だって迎えに行かなきゃいけない。早退するって言ったときの、上司の迷惑そうな顔なんて、最低よ。しかもそんな嫌な思いをしながら働いて、くたくたになって帰ってきても、さらに家事をしなくちゃならないの。なのに幸太は、服なんかすぐ汚すし、食べ物の好き嫌いも多いし、すぐ泣くし……。幸太がいなければ、もっと楽だったかもしれないって、何度思ったか分からない。そうよ、あの子さえいなければ……」
「……幸太君がいなくなればいい。それが、あなたの望みですか?」
僕がそう問いかけると、堰を切ったように喋り続けていた愛が、うっと言葉に詰まった。
「やめてよ。あんたまで、私から幸太を奪っていく気なの?」
急に百八十度、言うことが変わる。
「私がこんなに苦労して、それでも我慢してるのは、みんなあの子のためなのに」
「幸太君を家から追い出しておいて?」
少し腹を立てながら、僕は言った。
「子供がいたら、親は何もかもその子のために犠牲にしなくちゃいけないの!? 私には幸せになる権利すらないっていうの!? どうしてみんなして私を責めるの! もう、たくさんなのよ!!」
愛は頭を抱えながら叫んだ。かなり追い詰められている様子だ。
僕は、少しきつい言い方をしてしまったことを反省した。
愛が幸太君をうとましく思っているのは間違いない。
だから愛が言っていることは支離滅裂にも思えるが、幸太君を手放し難く思う気持ちも、嘘のようには聞こえなかった。
愛自身が、矛盾する自分の感情に引き裂かれそうになっているように見えた。
「ちょっとぐらい、息抜きさせてよ。私だって、たまには『幸太君のママ』じゃない、ただの愛になりたいの。まだお洒落とかしたいし、恋だってしたいのよ。だって、あの人はもういない……私を置いて死んじゃったんだから!」
愛の言う「あの人」というのは、幸太君の父親のことだろう。
「あなたがもし本当に願いを叶えるっていうなら、あの人を生き返らせてよ!」
それが、愛の一番の願いのようだった。
だが……。
「すみません。それはできないんです。僕には、どんなに偶然が重なっても起こらない出来事は、起こすことができません。少しでも可能性があれば達成可能ですが……、残念ながら、あなたの旦那さんが生き返る可能性は、ゼロです」
「役立たず! だったらもう、帰って!」
「では、他には何も願いはないんですね?」
僕が訊ねると、愛はまた何かを言いかけて躊躇った。
僕は少し助け舟を出すことにした。
「……幸太、っていい名前ですね」
愛は少し目を瞠ったが、やがて何かを思い出すような顔をして頷いた。
「あの人と二人で付けたの。この子が幸せになりますように、って。私は、いい母親になりたかった……。あの人と一緒なら、なれるかもしれないって思ってた。でももう分からないの。いい母親って何? だって私の母は、全然いい親なんかじゃなかった! 私のことを、お荷物としか思ってなかった! でも……、いつの間にか私も、幸太のことをそんな風に扱ってる……。いけないと思うこともある。でも、だってもう、どうしたらいいか、分からないのよ……」
愛の目から、涙が溢れた。
拭っても拭っても、次から次へと零れてくる。
「では、もう一度訊きます。あなたの願いは、何ですか?」
「私は……、いい母親になりたい……」
愛の声は掠れていた。
僕は一つ頷いて、言った。
「あなたの願いを、叶えましょう」
「本当……?」
「僕があなたに魔法をかけます。大丈夫、あなたはいい母親になれます。自信を持ってください」
愛は不思議そうに、自分の両手を見た。
「別に何か変わった感じはしないけど……。……そういえば、幸太は? 保育園から連れて帰ってきて……、その後……」
愛は、急に落ち着かなげに周囲を見回し始めた。
玄関に幸太君の靴がないのを見て、不安そうな表情になる。
「ちょっと、捜しに――」
愛は自分も靴を履いて、僕を押し出すように家の外へ出てきた。
だが、そこに立っていたもう一人の人物を見て、体をこわばらせる。
「……お、お義母さん……」
幸太君のお祖母さん――亡くなったお父さんのお母さんである、澄子さん――は、愛からは見えないドアの陰に隠れて、ずっと話を聞いていたのだ。
愛が僕をキッと睨んだ。
「嘘つき! やっぱりあなた、この人に頼まれ――」
愛は最後まで言うことはできなかった。
澄子さんが無言のまま、愛をぎゅっと抱きしめたのだ。
「な、何を……」
「ごめんなさいねえ。あの子がこんなに早く死んじゃったばかりに、残されたあなた達に、随分つらい思いをさせたわね」
「や、やめてください。そんな、そんな風に言っても、幸太は渡さないから」
「違うの。大丈夫よ。幸太を取ろうなんて、思ってないのよ」
「嘘。だって、あの人の葬式の時、お義父さんが言いましたよね。母親一人じゃ大変だろうから、幸太のことを任せてくれないか、って」
「そうじゃないわ。そういう意味で言ったつもりじゃ……。ごめんなさいね。うまく伝わらなかったのね」
澄子さんは愛を抱きしめる手に力を込めた。
「だから、一人で全部できるなんて言ったのね。私達があなたに、余計な意地を張らせちゃったのね。違うのよ。私達は、例えば幸太の保育園の送り迎えとか、幸太が病気になったときやあなたに他の用事があるときなんかに、幸太を預かれればと思って……。あなた自身にだって、体調の悪いときもあるだろうし、そんなときに誰かに頼れると安心でしょう?」
「……でも……」
「そんなことで、あなたを母親失格だなんて思わないから、大丈夫よ。遠慮なく頼ってくれていいのよ。それよりも、今の状態の方が問題だわ。それはあなたも分かっているでしょう?」
「それは……でも」
愛はまた泣き出してしまった。
澄子は、そうするのがごく当然のように、愛の頭を優しく撫でた。
「今まで一人で頑張ってきたのよね。でも、うちの息子が一緒に頑張るはずだった分の苦労や喜びを、私達にも少し、分けてちょうだい」
「喜び……?」
「ええ。だってあなたも、こうやって幸太を抱きしめるとき、幸せを感じるでしょう? 幸太の成長が嬉しいでしょう?」
「私は……」
呟いて、愛は恐る恐る、澄子さんを抱き返した。
「私はこんな風に、あの子に……」
僕はしばらくその様子を眺めていたが、そろそろいいだろうと思い、その場を少し離れ、隣の理桜の家の呼び鈴を押した。
すぐに、中から理桜と幸太君が出てきた。
僕が、幸太君をしばらく預かってくれるよう、理桜に頼んでいたのだ。
「あれ、お祖母ちゃんがいる」
幸太君はこちらへ駆け寄ってくると、澄子さんを見上げてびっくりしていた。
「幸太……」
愛が呟く。そして澄子さんから離れると、おもむろに、幸太君を抱きしめた。
「おかえりなさい」
幸太君はちょっとビックリした後、満面の笑顔になって、愛にしがみつくようにして抱き返した。
「ママ、ただいま!」
愛はそのまま、幸太君を抱き上げた。
「重い……。幸太ったらいつの間にこんなに大きくなったの……」
「毎日見ていると、なかなか気付かないものよね」
澄子さんがにこにこして言った。
母親に抱かれて嬉しそうな幸太君を見ながら、僕は小さな声で言った。
「これで契約は完了。あなたの願いは叶いました」
☆
僕はまた理桜の家に寄らせてもらった。
理桜はホッとした表情で、お茶を出してくれた。
「ありがとう。幸太君があんなに嬉しそうにするの、初めて見たよ。このお礼は必ずするから、何かあったら言って。……そうだ、あんた、他人の願いばっかり叶えてるけど、何か自分の願いはないの?」
「僕の願い、ですか? いえ、特には。理桜さんこそ、今回叶えたのは他人の願いじゃないですか」
「そうだけど……。でも、自分の知り合いが苦しんでるのを見るのって、やっぱりつらいじゃない? 幸せそうにしてたら、自分も嬉しくなるじゃない。だからある意味これはわたしのためでもあるわけよ」
うんうん、と理桜は頷いた。
初めて会った時は、なんて生意気で勝手な女の子だろうと思ったけれど、時が経てば人はこんなにも変わるのか、というのが驚きだった。
そう、人はいつの間にかどんどん成長し、変わっていく。
そして、いつか老いて死んでいくんだ――。




