めくるめく季節⑭ 春風
日々のルーティーンとたまにスケジュールの空いたタイミングには双子と領城の蔵書庫通いが始まって数日──。
この日だけは双子はまだ魔獣討伐から帰っていなかったし、パトリシアはティータイムに蔵書庫から持ちこんでいた本を私室で読んでいた。
そんな折り、にわかに中庭が騒々しくなった。
双子とアルバーン騎士団が戻ったのかとパトリシアが開け放ったバルコニーから見下ろした時、ドアがノックされた。
侍女のサニーが扉を開けると、特徴的な銀髪と新緑の瞳のエドワード王子が旅装のまま立っていた。
「トリシアお嬢様──」
「やぁ、パトリシア……王都では入れ違いになったみたいだったから。少し話したいんだけど、いいかな?」
「…………」
何度顔を会わせてもどこか得体が知れないエドワード王子。身分を考えると断ることはできない。
──は…………ぁ……忘れてた、私、この人と婚約…………あー……。
わかってはいたが、度重なる襲撃、父や自分の秘密や嘘で婚約内定が頭の中からすっぱり消え去っていた。
しかも、ずっと先の破滅フラグである『魔王』に気持ちが移行していたのだから、今回のパトリシアのうっかりはかなりのものだ。
とにもかくにも、悪役令嬢として避けたかった『婚約』は現実のものになった。
今は内定でいずれ発表もするはず。
撤回させるには発表前まで。それ以降は婚約破棄か解消を目指すことになる。
パトリシアは八歳らしからぬ頭痛を覚えるハメになった。
護衛を廊下に残し、静かに室内に入ってくるエドワード王子。腰には子供でも扱える長さの長剣──大人から見れば短剣により近い──がさげられている。
一番の寒さは終わって春目前、エドワード王子のマントも薄手の物のようだ。ここでは外さずばさりと跳ねるのみ。長居はしないのだろう。
パトリシアは形式的にも私室内のソファを勧め、侍女サニーにお茶を頼んだ。パトリシアの分も入れ直してもらうことに。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………サニーは外してくれる?」
「はい……」
少しばかり心配そうに私室を出ていく侍女サニー。
男女という年齢でもないため、扉はパタリと閉められる。
とはいえ、扉の向こうにはエドワードが連れてきていた王国騎士団の面々が複数名いる。
「婚約について、なのですけれど」
挨拶もなく切り出すパトリシア。
「──うん」
ひとくち飲んだカップを口から離して頷くエドワード。表情は微笑みを湛えているような、無表情のような、完全なポーカーフェイス。
「私に拒否権はなかったのでしょうか」
パトリシアもまた無表情でエドワードを真っ直ぐとらえて問う。
一度しっかりと目線をあわせてからエドワードはカップをソーサーに置いた。
「君が貴族令嬢である以上、君自身に拒否権はないよ」
「…………しばらく同じ領城にいたのに殿下からは何も伺っていませんでしたけど」
パトリシアが不服を口にするとエドワードが温かさも伴う春風のようなさわやかさでふっと笑った。
「だってパトリシアは私から逃げてばかりいただろう? 話せる状態じゃなかったと思うけど」
「そ、それは…………」
何か反論をと思うがパトリシアは一切思いつかない。
「──それより」
首を傾げるパトリシアをエドワードはじっと見つめる。
「聞いていたけど、怪我はないみたいでよかった。今回、王城で、しかも私達王族の住まうすぐそばで危険な目にあわせてしまい悪かった。陛下からも直々伝えたいとの言葉を頂いているよ」
「えっ──え……??」
王族からの謝罪──パトリシアは何が起こっているのか理解が追いつかない。
「ええと……殿下はあの日、何があったかご存知なのですか?」
「…………パトリシアがどのように聞いているのかはわからないけれど、危険なことがあったと──」
「……」
「パトリシア……ああ、トリシアと呼んでも?」
「え………」
──嫌……。
「……はい」
拒否できるところでもなく、パトリシアは混乱気味の頭で頷いた。
「トリシアは婚約について不満があって当然だと思う。私の父上や君の父上の間で決まったことだし、そもそも私が言い出したことだから」
パトリシアは下を向いてぐっと奥歯を噛む。
「私が言えたことではないが……その、トリシア」
顔を上げれば、実に曖昧な表情をしたエドワードを見つけることになった。
「すべての縁が無意味だと決めつけないで欲しい……んだ。殻に閉じこもってしまうことは簡単だが、多分、道はそこまでしかない。人と人との縁が新しい道を結ぶことの方が多いと私は思う」
「…………」
パトリシアは何を言っているのだろうと首を傾げる。
「私との婚約もひとつの縁と割り切ってみるのはどうだろう? 悪い話ばかりでもないと……本当に私が言うのもどうかと思うけれど…………だから、トリシアにとって利を見つけてくれたら嬉しい」
「…………利」
「うん。その為にも、もう少し私との時間を増やすことを検討してもらえたらとは、思う」
「殿下との時間……?」
「いや……! 硬く考えなくても良いんだ。だから、君が街でもどこでも行きたい時、私も一緒に行くし、そうすると護衛も増えて君にふりかかる危険も減るから、そういう意味で──私を利用して欲しい」
「…………利用」
ますます意味がわからなくなるパトリシア。
記憶の中の『物語』のエドワードはただただパトリシアの外見に見惚れて独り占めしたいと婚約を申し入れてきたし、パトリシアはパトリシアで身内を除いて魔力ゼロの自分に価値を見出してくれたエドワードに依存した。
それが──。
「利用……?」
「あー、言葉が悪いか……」
何やらエドワードは銀髪に片手を突っ込んで思案している。それは嘘臭さも、容姿に惑わされているだけにも見えない。
何より、エドワードが利己的な行動に出ているように見えにくい。
「…………なぜ、婚約を?」
ポツリと問えば、エドワードはほんのりと笑みを浮かべた。
「君を護る盾になれればと──」
パトリシアはひと時、エドワードは恋愛体質だと決めつけていた。それはほとんど前世の記憶の中の『物語』によるものからきていたが、いま、目の前にいるエドワードの目には色恋に惑わされる者の熱が見つからない。
エドワードはパトリシアの容姿に執着している風でも恋愛感情を抱いて動いているようにも見えないのだ。だから混乱する。
「…………殿下は私に何が起こったのか知ってるのね? お父様は事故と言ったし、いま殿下は危険なことと言ったけれど、それが誰かに危害を加えられそうになったということを、知っているのね?」
数秒顔を見合わせ、エドワードは立ち上がるとパトリシアの隣にまでやってきて腰をおろした。
揃えていたパトリシアの両手を取ると、エドワードはパトリシアを真っ直ぐ見る。
「──私はトリシアの味方だ。表立って動けない時も出てくるが、君や君の父君ジェラルド殿を護りたいと思っている。そこには嘘偽りや隠し事はまったくないことを伝えておきたい」
「…………私……だけじゃなく、お父様も?」
「ジェラルド殿もだ」
「……お父様は……弱くないと思うのですが」
「……ぅ……」
この時のエドワードは崩れそうになる心をどうにか奮い立たせようとしているが、パトリシアはやはり唇を薄く開き、大きな目をきょとんとさせつつ頭上に『?』を並べているのだ。
パトリシアは可愛らしい仕草で『比べてずっとずっと弱いエドワードに護られるような父ではない』とはっきり言ったようなもの。
パトリシアは時々、エドワードの心を穿つことをサラリと言ってしまうようだ。
「…………と、とにかく。私の婚約者であれば君の護衛は増える。不自由は多少出てしまうかもしれないが、領に居ても安全になる」
「……不自由……」
「護衛が増えるという意味で、それはでも、致し方ないんだ。不自由といっても、君はお忍びで街に出るのも好きなようだけど、そこを妨げるものではないんだ。自由に、そんな時はその──冒険者とかではなく、私を頼って欲しい……」
そこまで言うとエドワードは手を握ったまま下を向いてしまった。ほんのり頬が染まっている。
そこにはなぜか照れと、善意しか見えない。
パトリシアは思わず『ふふっ』と吹き出すように笑った。
「…………ト、トリシア」
「ご、ごめんなさい」
目尻の涙を拭いつつパトリシアは笑いをおさめる。
「殿下はこういう方でしたっけ??」
「……んん? トリシアのイメージする私がどんな感じなのかわからないが、私はたぶん、こうだね」
パトリシアはまたふふふと微笑った。
エドワード王子は和やかに退室していき、窓を開け放ったままのパトリシアの部屋に春風をもたらした。
反芻される言葉がある。
運命を改めるため、パトリシアの行動は『物語』から随分と違ったものになっている。その影響があったのかは不明だが、エドワード王子の心持ちも何故か違うようだ。
──『すべての縁が無意味だと決めつけないで欲しい』……か。
思えば前世の記憶の中の『物語』とこの現実は、すべて『縁』の結び直しで変化が生まれている。
もしかすると『物語』の本質は『縁』という糸で編み上げられているのかもしれない。
──だとしたら……。
侍女サニーの茶器を片付ける音を聞きながらバルコニーへ出るパトリシア。
銀色の雪は跡形もなく溶け、枯れ果てていた草木が芽吹いてあちこちで小さな緑の葉を広げては蕾がうずいている。
パトリシアはエドワード王子をネガティブな存在としか考えていなかったが、出会いから三年、この日、少しばかり風向きが変わったことを感じていた。




