めくるめく季節⑪ 宝杖『キルティアム』
いつ閉じたかわならない目を開いたが、閉じていたときと変わらない闇が広がっているだけだった。
パトリシアはこの場所を知っている。
「…………」
右も左も上も下もわからないような真っ暗闇の中で、パトリシアはもう不安にはならない。
この場所の名前なら知っている。彼のいる闇の住処だ。
「キィ、いるの?」
奥行きだとか距離感すら見失う闇の中、白い手がぬぅと伸びてきた。
よく見れば、その腕は真っ暗闇のさらに深い闇の中から出てきていることがわかる。
品の良い貴族服は黒、中性的な容貌にさらさらの肩までの黒髪。白い肌。
印象的でしかない赤黒い瞳。
「やぁ。ひさしぶりだね、トリシア」
「何よキィ、突然過ぎてびっくりしたわ」
「最高のタイミングだったじゃないか」
「あれはギリギリというのよ」
パトリシアはぷぅと頬を膨らませた。だが、すぐに微笑む。
「ありがとう。助かったわ」
「はは、トリシアはいい子だね」
「……どういう意味?」
「そのままだね」
「キィは、元気になったの?」
大掃討があったのは四ヶ月ほど前だが、そのときに助けてくれたキィは疲れたと、眠ると言って別れた。
「元気だよ。あのくらいならね」
「そう。よかったわ」
「それより、トリシアはもう戻った方がいいね」
「え」
「あちらとこちらは時間の流れが違うから、すぐに昼になるよ」
「えっ!? 大変! す、すぐ戻るわ」
あまり深い意味もなく後ろへ走り出そうとしてパトリシアはドンっと何かにぶつかった。
「あれあれ、大丈夫? 前を見ないと怪我しちゃうよ?」
見上げれば、亜麻色の髪の青年が立っていた。癖程度のゆるやかな流れのある髪は男性にしては長く、腰まであるようだ。耳後ろから左手前の髪だけ染めたように真っ黒で、違和感がある。
じっと見上げれば垂れ目の優しそうな琥珀色の瞳と目が合った。
「え……」
何故か、この場所にはキィしかいないような気がしていた。
詰め襟に白い神官ローブの青年はパトリシアの手をそっと取るとニコリと微笑んだ。
「…………」
「久しぶりじゃないか、リリィ・ディオ」
亜麻色髪の青年に声をかけたのはキィだった。
リリィ・ディオはパトリシアの手をそっと下ろすとキィの方を向いた。
「やぁ、キィ。近くに来たから寄ったよ。五百年ぶりかな」
「……そんなにたつか?」
「『表』ならね」
「そうか」
「それよりキィ、会えたら頼みたかったんだ。闇を剝してくれないかな?」
「なぜ?」
「どうやら今のボクの持ち主は敵対している。キミの替え玉を続けるのもいいけれどボクは闇の巫女を害したくない」
「…………なるほど。でもいいのか?」
「それはこっちのセリフ。持ち主は戸惑うだろうね。仕方ないよ。ああ、ほら、もう離れてく。急いで、キィ」
「──……リリィがそれでいいなら」
キィはパトリシアの隣に立つとリリィ・ディオの一房の黒髪を静かに手ですいた。不思議なことに、リリィ・ディオの黒髪は他と同じ亜麻色に染まる。いや、黒が取れて元の亜麻色が出てきたようにも見える。
「…………」
「どうも。だからキィ、バレるのも時間の問題だよ。覚悟しておいて」
「…………わかった。仕方ない」
キィはまっすぐの黒髪をガシガシとかいた。
「二人は何の話をしているの?」
おとなしく聞いていたパトリシアだが、声をかけた。
「ごめんね。でも大丈夫、君にとって悪い話じゃないよ」
言っている間にリリィ・ディオの身体が闇に融けていく。
「ああ、遠くなりすぎた。じゃあねキィ」
「ああ、また」
「では闇の巫女、また会えるのを楽しみにしてるよ」
リリィ・ディオはパトリシアに向かってそう言うと完全に消えてしまった。
「な、なんだったの?」
「トリシアも急いだ方がいいね。ほら」
「う、うん」
「そうだな。眠った状態で戻してあげる。目覚めて何を聞かれてもわからないと答えるといいよ」
「なぜ?」
「なぜ……うーん、話がややこしいから、かな?」
「そうなの?」
「うん。都合よくリリィ・ディオ……というか、宝杖も居合わせたから、誤魔化せるよ」
「宝杖」
「それから、もしかしたら『ティア』について何か知らないかと誰かに聞かれるかもしれない」
「…………聞かれたことがあるわ。お父様に。その時はキィの名前と同じだと思わなくて知らないって答えちゃったけど」
「ああ、それでいいよ。知らないって答えておいて。多分、今回、幸運なことに宝杖ともすれ違ったし、逸れてくれる」
「…………よくわからないけど」
「いつか。いつかね。でも今日は急いで──……ほら、おやすみ」
キィの手がパトリシアの目にかぶさるように掲げられる。
途端、ふぅっとパトリシアの意識は遠のいていった。
完全に眠りに落ちてしまう寸前、キィの独り言が聞こえた。
「──……ザカリーが動くにしてもトリシアが狙われるのは変だ……僕も把握してないヤツ……? 有り得るのか? そんなこと……」
パトリシアが目を覚したのは夕方だった。白レースのカーテンからオレンジの夕日が透けて見えている。
ふっと目を開けたとき、近くの椅子には父ジェラルドの姿があった。
この光景は何度目だろうか、父は本を読んでいる。
「…………お父様……?」
「……トリシア」
本を放り、ジェラルドは立ちあがってベッドに膝で上がるとパトリシアをギュウウッと抱きしめた。
「心配したよ、トリシア。どこも痛くはない? 気持ち悪いところは??」
パッと身体を離してあちこち確認するジェラルド。
「どこも大丈夫よ、お父様」
「そうか……そうかぁ……」
安心してジェラルドはまたパトリシアを抱き締めた。
「ねぇ、お父様、私、確かお母様と王城に来ていたと思うのだけど、どうなったの?」
「……──ああ、トリシア……何か、何か覚えてないかい?」
「何か……」
「トリシアは拝謁待機部屋で気を失っていたんだよ」
「…………拝謁待機部屋……」
「いや、無理に思い出さなくてもいい。いいんだよ、トリシア」
「……そうだ。陛下や王妃殿下にお会いして婚約したくないって伝えるはずだったのよね、お父様、拝謁時間は──」
「うん、とっくに過ぎてしまったよ」
「……そうなのね……──ねぇ、お父様、私何時間くらい寝ていたの?」
パトリシアが問えば、ジェラルドは少し困った顔をした。
「……お父様?」
「よく聞いてね、トリシア」
「……ええ」
「トリシアがいた拝謁待機部屋の近くでちょっとした事故があって、トリシアは巻き込まれてしまったんだ」
「事故?」
「そのとき持ち込まれたとされる宝杖の影響でトリシアは眠ってしまったんだと思う」
「宝杖……?」
確かキィとリリィの会話でも『宝杖』という言葉が出ていた。
「トリシアは五日ほど寝ていたんだ」
「五日!? 五日も!?」
「うん、それでね、トリシア。トリシアには申し訳ないのだけど、エドワード王子との婚約は決まってしまったんだ」
「え? ……──は…………えぇ…………」
自分の口で『嫌です』を伝えに来て『決まりました』と聞く羽目になった。
「トリシアの希望と違ってしまって、お父様、力になれなくて本当に申し訳なく思うよ。トリシア、ごめんね」
「…………お父様」
「うん?」
「私、領に戻りたいわ」
「そうだね、明日──」
「すぐに」
強めの声で言ってパトリシアはじっとジェラルドを見上げる。
「でも、トリシア」
「お父様」
「…………」
「…………」
王城に居た方が安全だというジェラルドを根負けさせ、パトリシアを直々アルバーン領の領城へ送り届けさせ、その日の夕飯はアル・アイ・ラソン城でとったのだった。




