めくるめく季節⑩ ふりかえればそこに
騎士の手をかりて馬車を降りれば、花の香りを含んだ風がさわりとスカートを揺らした事に気付いた。春を思わせて、パトリシアは少し気持ちが軽くなった。
顔を上げて騎士を見上げる。
歳は父ジェラルドより上のようだ。
深緑がベースで赤の差し色が映えるサーコート。
領城でノエルが教えてくれた事のある王国第一騎士団の近衛騎士のみ着用が許されるという栄誉あるサーコートだ。金色の糸で刺繍された竜の紋章が目の前に見えた。
少し目線をずらして帯刀ベルトを辿れば、汎用でも儀礼用でもない騎士剣が下がっている。
こればかりは、パトリシアが深層の令嬢などではなく、騎士の修練場にも頻繁に顔をだしていたからこそわかることだ。
華美ではないが、アルバーン騎士団団長や大掃討では身を挺して守ってくれたミックが持っていたような──シンプルな鍔に手の跡が見える革巻きの柄……使い込まれている。
近衛騎士団は儀式向きの美麗な騎士が集められがちだとは聞いていたが、眼前の騎士は凜々しくはあるが、貴族令嬢が好みそうな美しさは目立っていない。実力重視の精鋭といったところか。
「──ありがとう」
パトリシアが礼を言えば、消されていた騎士の表情が少し驚いたように緩む。首を傾げて相手の顔をしっかり見れば柔らかく微笑まれた。
「お足元にお気をつけください」
頷いてステップを降りる。
先に母が降車したのだが、考えてみれば母は軽く膝を落とした会釈のみで礼など言っていなかった。領城では騎士達だけではなく使用人らとも距離が近かった為、うっかりしていた。
五人の騎士が前後に分かれて回廊を案内してくれる。
母エノーラのすぐ横をパトリシアが歩き、後ろを侍女サニーと母の従者としてアルバーン騎士団の女騎士がついてきている。
回廊から臨む植え込みは多層に並び、春を待ち望む初々しい緑の葉に昼の陽射しが当たって眩い。今にも花開こうとしているつぼみがあちらこちらに見えている。
社交シーズン本番に向け、王城庭園も準備が本格化しているのだ。
街中を馬車が走っていた時は通りの賑わいが聞こえていた。やはり王都、領城城下町の十倍は騒々しい──活気とエネルギーに満ちた様子が伝わってきていた。
一方、王都王城内に入ってしまうと途端に静かで、ギャップからかパトリシアは忘れていた緊張が蘇って生唾を飲み込む回数が増える。
ふと、左頭上、天井からゴトゴトンと音がした──気がした。
ごく僅かな音だった。
剣やサーコートの下の鎖帷子が音をたてる騎士らも、母達も変化がない。
緊張から少々過敏になっていたパトリシアだけが聞いたようだ。早朝パルクールでいつの間にか身についた、足音静かに歩く癖のせいもあったかもしれない。
音はそれだけで、しばらく廊下を奥へ奥へと進む。中庭を見下ろせる豪奢なゆるい螺旋階段を登り、広い廊下をさらに進む。
王城の茶会や夜会の会場は馬車乗降路に近いが、今回のようなプライベートに近い形での王族への謁見の場合は居住区域手前まで進む。
やがて、護衛の衛兵が何人も立つ大きな両開きのドアの前に辿り着き、騎士らが開けてくれる。
広い廊下がさらに続いているが、入ってすぐの扉を示して騎士は「ここからは王家の皆様の居住区域になります。お付きのお二人はこちらでお待ちください」と告げる。
そこからは母エノーラとパトリシアの二人が騎士らに誘導され進む。
扉をくぐってからの廊下には窓がない。しばらく進むと騎士が正面の扉を開く。
「こちら白の広間での拝謁待機部屋になります」
縦長の部屋で置かれているソファも二十席はありそうだ。
「アルバーン公爵夫人はこのままあちらの扉より白の広間への廊下へお進みください。扉の向こうには王妃陛下の侍女がお待ちしております」
「わかりました。トリシアは──」
「ご令嬢はこちらでお待ち下さいませ。あちらの扉には騎士が二名、こちらの扉にはここまで付き添いました我ら五名が待機致しますのでご安心下さいませ」
そうして、パトリシアは広い待機部屋に一人、ポツンと取り残されたのだ。
……だから、もちろん、ハッと振り返った時、合計三つの影がどこからともなく現れたことにはパトリシアしか気付かない。
部屋の真ん中で、パトリシアを中央にして左手部屋の奥側に真っ黒装束の男が一人。男は静かに不定形のようでいて黒光りする長剣──おそらく魔術による暗器──を構えた。
また、右手側、それは霞のように黒ずんだ、文字通り影のようだった。
──うそ……闇魔術──視覚妨害!?
パトリシアは目をこすって二度見をするが、やはり霞んでよく見えない。
闇属性の支配魔術だ。
パトリシアは自分が支配魔術にかかりにくいことを知らない。それでも、視覚妨害の影響下に落ちた。
最後、パトリシアの真正面に現れた男はやはり暗色系装備だがどこか馴染みのあるデザイン──先程まで一緒に歩いていた騎士らのサーコート、鎖帷子を除いたような格好をしている。立襟には王国騎士団の獅子の紋章のピンが見えた。ならばこの男は騎士団所属の騎士で間違いがないだろう。彼は敵ではないはず、敵であっては困る。
黒装束、影、騎士が突然現れてパトリシアも目を大きく見開くしかない。
「──えっと」
思わず声が出てしまうも、くるっと四方のうち誰もいない方へ身体を向きを変えるパトリシア。
子供の足で五歩も走れば壁についてしまう。出口として近いのは五人の護衛騎士らが控えている廊下への扉。
パトリシアは嫌な風を感じた気がして頭を抱えてかがむ。
ちらりと見上げれば黒長剣が薙いで、すぐに引っ込んだ。高さはパトリシアの首があった辺り。
立ち上がりながら地面を掻くように廊下の方へ走り出すパトリシア。その背中に騎士が回り込んできて黒長剣を弾く。
ぶつかり合う刃だが、黒長剣から音は出ない。騎士の長剣から鈍く低い音が響くも、廊下に届きそうな音量とは言えない。防音魔術でも付与されているのだろう。
廊下へはあと二十歩はある。
扉をギっと睨めば、間に黒く霞んだ影が割り込んできた。
パトリシアは咄嗟に部屋中央側へステップを踏んで目を細める。
──見える……気がする!
「清らにして聡き眼の見ゆる、咲け、タンジー!」
パトリシアの早口の詠唱と同時、影の中から三日月刀が閃く。
振り下ろされる銀刃の前に、ギュギュギュッとねじるような音とともにパトリシアの全身を覆い隠す花が開いた。
一見すると巨大なたんぽぽにも似ているが、色は半透明──氷属性の魔術のため、氷の花だ。
既にパトリシアの目は三日月刀を捉えている。その先の影が一気に消えていく。
三日月刀と氷の花がぶつかる寸前で手を引いて退く影の主──真っ赤な髪の大柄な女だ。
女は右手に三日月刀と、左手には大きな魔晶石のついた短杖を持っている。短杖の先が何やらモクモクと黒い霞を産んでいる。魔道具で姿を隠していたらしい。
女のキリッとした目元は露わで、パトリシアとはっきりと目が合う。
口元を布で覆って隠しているが、体型は隠せない。女の「──チッ」という呼気が聞こえた。
「清らにして聡き眼よ、猛きアキレアの意思を我に……!」
枕詞はすべて初級氷魔術のためのもの、短く発動も早いが強くはない。
右の手元に数多の小さな氷の花弁が棒状に舞ったかと思うとそれは固まり、乳白色の長剣に変化した。
パトリシアは足を止めることなくタンジーの氷花を盾のように背負ったまま扉へ駆ける。
その横を赤髪の女が駆け、行く手を阻んだ。
ひっかけるような蹴りが横っ面を弾きにくる。それを氷花の盾で弾けば正面が空く。
そこへ三日月刀が振り下ろされるがパトリシアは氷長剣を横にして弾く──つもりが、一撃で氷の長剣は砕け散る。
慌てて後ろへ下がれば黒長剣がパトリシアの喉元に振り下ろされるところだった。
──何が起きてるの……??
息を飲むことすら出来ない。
黒長剣、黒装束の男の向こうで騎士がうつ伏せに倒れている。騎士はヤラれていたと気付くが遅すぎた。
反対側から三日月刀がパトリシアの腹めがけて真っ直ぐに突き出されている。
──なんで、なんでこんなこと!?
次の瞬間、パトリシアの意志とは無関係に左目が赤黒く閃き、濃い闇が室内を埋め尽くした。




