〃 8歳 雪の日の邂逅⑪ 四面楚歌
『──……聞こえる? トリシア』
はっとしてパトリシアは左目を隠したまま左右を見渡した。
『ちがう、ちがう。ボクは闇から出られないから、そっちにはいないよ』
耳に届いているのは、△森で木々が燃えゆく音、どこか遠くで剣や何かがぶつかる音──それらは存外、大きな音だ。
そんな中、まるで頭の中から響いてくるような、外の音などおかまいなしでくっきりと聞こえてきた声……。
「…………キィなの? なんで」
『言ったでしょう? 出口だって。繋がったままなんだ。トリシアが急かすから……しょうがなかったんだけど……』
「私が、急かした?」
『それより、たぶん、そっちは危ないからね。あちこちに魔獣が散らばってると思うし、キミがそっちに戻ったから、また大穴からも出てくるよ。気をつけて』
「──気を……つけるって……」
キィ曰わく『闇の住処』から出てみれば完全に日は暮れていた。
チャドの横で塔の上から見た時にはまだまだ序盤戦に見えていた大食いの森だが、いま、荒れきっている。戦いは終盤、終末のようにも見える。
距離があるとはいえ、周囲の森が燃え上がっているのは、ここにさえいれば父か騎士団か、双子が見つけてくれると信じていても恐ろしい。
正しい情報は、なにもわからない。
過去世の記憶の中の物語にはもちろん『キィ・ティア』なる人物は出てこない。ただ、赤黒い瞳は、物語のパトリシアが処刑後に復活した際の闇の巫女と同じ……。また、悪夢のなかのパトリシアと同じなのだ。血を求め、人を傷つける事を厭わない──絶対に迎えたくない、あるかもしれない未来。
過去世の『未来に関する物語』の記憶には、パトリシアにとっての現在進行形の未来が記されているわけではない。
あくまでも悪役令嬢は最終的な敵の魔王を召喚する仕掛けにすぎない。主人公がチヤホヤされ、最強の力で気持ち良く悪役を倒していく。同情する余地もなく、徹底的にボコボコに叩き潰すべき悪役には親近感や背景を察するべき人物像の描写など必要ない。むしろ、悪役には『主人公にとって邪魔者である』という設定以外、読者に伝えてはいけない。
つまり、物語の悪役令嬢パトリシアはひたすら愚かに踊り狂って主人公を心地良くさせる為に、何も描かれていなかった。
──闇の住処とは? キィ・ティアは誰か? なぜ、魔王は存在しないのか?
『ちょっとまって。……はっきりとは見えないけど、今、キミを探して誰かが近付いてくる。その人に保護してもらうまで、じっとしてたらいいんじゃないかな』
闇の中に居た時もキィはこちらを『表』と呼んで見えているようだった。同じようにパトリシアの周辺を見てくれているのだろう。
「──キィ、私の瞳の色が赤くなったのはあなたがしたからなの? あなたのせい?」
『え……いや、ボクのせいっていうか……うーん。そうなんだけど、そうじゃないっていうか』
キィの言葉は歯切れも悪く、あやふやだ。それはパトリシアの焦燥感を煽る。
「どういうこと? 元に戻してもらわないと困るわ」
『──と言われても……な。自分に変異魔術の変化術とかかければいいんじゃないかな。元に戻すもなにも、ボクが元に戻してそれなんだし』
「──……どういう意味?」
『──あ、誰か近くに来るよ。その赤い瞳、綺麗なのに、隠したいの?』
「当たり前でしょう? これ、魔獣の色じゃない。私はお父様と同じ蒼色がいいの!」
これは我が儘じゃないと自分に言い聞かせ、パトリシアは語気を強めた。
『──……今回はボクがしてあげるけど、ボクが出来るのは変異変化術じゃなくて見る人の視覚を操作する支配魔術幻覚術だからね……それから、あとでボクの話、ちゃんと聞いてよね』
「──わかってる……! 早くして」
幼いとはいえ命令することに慣れたパトリシアは要求を強めた。
確認の為に氷の板を一枚きり、召喚魔術で作り出す。枚数を減らしている分、先程よりは早く、手の平ほどの氷の板を作り出した。この際、像にはこだわず、色が映りこめばいい程度の氷の板だ。
「──パ、パトリシアさまっ!!」
背後で男の声が聞こえた。後ろからで良かったと思い、パトリシアは氷の板を覗き込んで左目の赤黒い瞳の色が変わるのを待つ。
こちらへ駆けてくる足音が聞こえ、心臓が跳ね上がる。
──はやく、はやく! はやく、はやく変わってっ!
「……パトリシア様……?」
真後ろまで来た声は、おそらくミック。パトリシアの魔獣討伐初陣でクリフを馬に乗せていた騎士だ。その若さで実は副団長という立場である。馬蹄の音ではないので、乱戦の末、下馬したのだろう。
瞳の色は変わらず赤黒い。
──だめ……振り返れない……!
思わず手袋に氷の板を握り込み、肩にぎゅっと力が入ってしまう……。
──すっと、ミックがパトリシアの正面に回り込み、顔を覗いてきた。反射的にパトリシアも見上げる。
「…………」
ミックは──……。
「良かった、ご無事だったんですね……!!」
片膝をつき、ほぼ真正面からまっすぐパトリシアの目を見ている。
ミックが左目の色の違いに気付いた様子はない……。
戦いが激しかったか、兜は吹き飛んだのか、薄茶色の髪を風にまかせている。顔周りの髪は汗ではりついているし、その顔を煤や泥、多少の跳ねた血が張り付いている。
素顔を見るのは初めてだったが、面貌から覗いていた焦げ茶色の瞳は忠心で満ちていた。
サーコートのあちこちが裂け、下の鎖帷子が見えている。こちらも点々と血の黒ずみが散っていた。魔獣の血は残らず消えるのだから、その血はミックのものか、誰か他の騎士や兵士のものだ……。
ちらりと抜き身のままのミックの剣を見れば、やはり汚れている。かろうじて根元が元の美しい刀身を残していて、鏡のように映り込む。
パトリシアの左目は、赤黒いまま……。
「突然、お姿が消えてしまわれたと全軍に一報が入り、お探ししておりました。同時に魔獣がかつてないほど押し寄せまして……大穴からは出てこなくなるも結界の外から大挙して現れ、作戦が吹き飛び、自陣も崩れ捜索もままならず…………ジェラルド様がそれはもう──」
ミックが言葉を続けようとした時、大穴の方からいくつもの咆哮が轟いた。二人で顔を見合わせた後、ミックが厳しい顔つきをした。
「──ここを離れましょう。パトリシア様がいらっしゃったときの合図だけ打ち上げます」
手の甲を目の前にかざし、ミックは早口で呪文を唱えている。ミックは火属性に強い。だからこそ、燃え盛る△森の周辺を捜索していたのだろう。
詠唱を聞けば召喚魔術と変異魔術の合わせ技とわかった。
ミックの手の甲にはゆらゆらと不定形ながら、火の鳥が生み出される。
「──いけ!」
彼は手を空へ振り上げ、火の鳥を打ち上げる。鳥は上空までいくと、ぼっと燃え上がり、大きな爆竹音をあげながら花火のように広がって散った。
「……ミック、私の左目は、何色をしてる?」
「──いつもとお変わりない、ジェラルド様と同じ青色のようにお見受けいたしますが……?」
「…………」
パトリシアが困惑していると頭の中にキィの声が聞こえてくる。
『言ったじゃん、トリシアを見る人の感覚を操作するって。それが闇属性が得意な支配魔術、その幻覚術なんだから。でも、ボクの力もそっちには顕わせられないから、そっちの魔力を使ってるからね?』
──幻覚術……ミックに私の瞳は青と幻視させて……? 私には魔力はないのに……?
魔力を持っていないと伝えたいが目の前にミックがいるので返事はできない。そのことを察したのかキィは『だから多分、その胸の三連晶石、もう空だよ』と教えてくれる。
ミックは燃える△森を背に立ち上がり、大穴の方へ体の向き、位置を変えた。
「いいですか、パトリシア様は剣を抜かないようにしてくださいね」
昨日もチャドに言われたこととほぼ同じだ。未熟さからの自傷を心配されていることはわかっているので、パトリシアは「わかったわ」と返事をする。
そのすぐ後だ、ドドドっと地面を揺らす音が聞こえたかと思えば全周囲を魔獣で囲まれていた。
「──はやいな……」
ミックの呟きは『見つかってしまったのが』という言葉が省略されている。
奥歯を噛み締め、パトリシアはミックを背に反対側を見た。
左目を誤魔化す為、シャノンの魔力晶石は使い果たしたらしい。
キィは魔術を使えるらしいが、こちらに魔力を移動させられないとのこと、さらに当人も闇から出られないという理由から援護を頼めない。そんなことを考えていると、キィの声がする。
『──キミは良くも悪くも闇を惹きつけるから……ボクは何も出来ないからね……アテにしないで』
それは、どこか拗ねた声音だった。
周囲を取り囲むのはパトリシアが魔獣討伐で見た闘牛の進化版にも見える、一回り大きく黒い牛がびっしり。
さらに大きな熊型の魔獣灰爪熊が牛五体につき一体。絶望でしかないが、熊五体につき、その熊を上へ二倍、横へ二倍にしたような地竜黒炎竜が輪のように囲い込んできている。
地竜は翼はもたない代わりに体格に対して不釣り合いなほどに大きな頭と顎、さらに鋭い牙を無数に持っている。また、獲物を追う両脚は筋肉量が多く立派で、その蹴りは一撃で騎馬五騎を吹き飛ばすと言われており……。
地竜一匹でも、少年冒険者カーティスならば『三級難敵、俺一人なら全力逃亡する』と断言する。
「──……」
ミックはさすがに唾を飲み込み、無意識に抜き身の剣を血振りの所作をして構えなおした。




