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 〃 7歳 初めて

 絨毯の敷かれた広めの廊下で、音もなくついっと足を止めるジェラルド。


「お父様が知っていることはひとつだけだよ。トリシア」


 透けるカーテンの隙間から差し込む日差しがゆっくりと流れる。微笑む父の笑顔が輝いて見えた。


「私のトリシアは一人しかいないってこと。だから、何か困ったことがあったらすぐに言うんだよ?」

 ジェラルドはパトリシアの頬に右手をそろりと添えた。


「君は私とエノーラ……お父様とお母様の宝物だから、世界で一番大切な、かけがえのない娘なんだから。トリシア、君に何かあるならすぐに飛んでくるよ、今日みたいにね」

 そう言って、やっぱりバチコーンとウィンクを付け足した。


 パトリシアのじっと見つめる父のアイスブルーの瞳が少し揺れた。父はそのまま目を細める。

「……つらかったね」

 そう言って、パトリシアの頬に添えた手の指先をするりするりと動かした。


 パトリシアはやっと、自分がボロボロと涙をこぼしていたことに気付く。


 父はきっとなにも知らない。

 チャド団長が報告したという、昨日の初陣の失敗と夜中に嘔吐したことは聞いているだろう。だが、きっとそれだけ。


 黙って唇を内側に巻き込んでみるとぬるぬるとしていて、とてもしょっぱかった。

 父が拭ってくれるそばから、涙は溢れて溢れて止まらない。喉が変な乾き方をして痛い。

 まばたきを繰り返してみるが涙は止まってくれない。泣きたくなんてないのに、涙だけ勝手にこぼれて困る。


「変なお父様……」

 どうにか絞り出したパトリシアの声は震えていた。それ以上は言葉に出来ない気がして、パトリシアは両手を父の首に巻き付け、横顔の少し後ろへ自分の顔を押し付けた。いつものまろやかな香水の香りが落ち着く。けれど、涙は一向にとまらない。たまらなくなってパトリシアは全身でぎゅうっと抱き付いた。


 ──変なのは私の方なのに……。


 一年半前からパトリシアが立ち向かう前世の記憶──嘘であってほしい過酷な運命を知ってしまったことなど、父も母も察しようがない。パトリシアだってあまりに『おかしな夢』としか思えなかった。言えるはずがない。

 きっともっと心配をかけてしまう。


 目を瞑ってジェラルドに抱きついているのに、脳裏には昨夜の夢の続きが流れていく。パトリシアの意志を無視して──。




 夢の中の17歳のパトリシアは憂慮して駆けつけたらしい未来のジェラルドの瞳に強い眼差しを向けるのだ。

 ──赤黒い、闇の魔術を。

 魔獣召喚に使われるはずだった生け贄から変換された魔力は、空っぽのパトリシアに吸い込まれていく。パトリシアはそうやって魔術を使うのだ。


『お父様も、私に力をくれるのね?』


 そう言って血と闇に染まるパトリシアは父ジェラルドの長剣を引き抜いた。

 父が反応出来ない速度ではなかった。

 ただ、闇属性魔術が最も強力に作用するのは支配魔術、特に精神攻撃であり、対象の動きを封じること──。


 パトリシアはゆっくり、ゆっくりとジェラルドの胸に長剣を突き立てた。

 父の口の両端からだばだばと血が流れていく。パトリシアはそこへ顔を寄せ、鼻で息を吸い込んだ。

「……嗚呼……とっても甘いわ…………ありがとう、お父様」

 パトリシアをまっすぐ見つめていた父のアイスブルーの瞳から(いろ)が抜ける。傾いで地面に倒れ落ちるジェラルドを、パトリシアは静かに見下ろしていた。




 無言で泣いていた7歳のパトリシアはついに大声をあげた。慟哭しながら、いま生きて自分を抱きあげている父ジェラルドに一層しがみつく。


 前世の記憶の物語でも、悪夢か正夢かの未来図でも、父を殺したのはパトリシア。

 そのことを悟った。

 一年半前の5歳では思い出しきれなかった。閉じ込めていたのかもしれない記憶。

 初めて前世の記憶に触れても声をあげて泣いたことはなかった。だが、もう哀哭することを止められない。


 心配して手を差し伸べてくれる父を、闇に飲まれゆくパトリシアは容易く殺してしまうのだ。

 なんという役回り。

 漠然と、エドワード王子の婚約者となり、学園に入学すると浮気をされて報復に嫌がらせをして暴れるだけの悪役令嬢(レディヴィラン)ではないのだろうとは感じていた。

 罪を犯して処刑される──だから、いざ処刑される時に逃亡出来ればと剣や魔術を知り、いずれは冒険者になるつもりで領で鍛錬を重ねて暮らしていた。


 ──なんて罪深いの……どうしたらいいの? どうしたら私は誰も傷付けないでいられるの??


 ジェラルドはただ声をあげて泣くパトリシアを抱きしめ、薄い金色の髪を撫でている。大きくて温かな優しい手が、ますますパトリシアの心を締め上げる。

 こんなに自分を愛してくれて、パトリシアも大好きな父を殺めるくらいなら、自分が死んでしまった方がいい。


 ──死ぬ? それは……出来ない……。


 物語のパトリシアは処刑された後、蘇るのだ。闇の魔力を持ち、自在に死の魔術をあやつる闇の巫女として──自我を完全に失って──より強力な悪役令嬢(レディヴィラン)として顕現する。

 パトリシアが死ねば、魔王とやらの復活が早まるだけ。殺戮が広がるだけ。


 ──死ねない……私は死ねない……。


 父の腕の中、泣きすぎたパトリシアはまともに息も吸い込めず、混乱したまま疲れ果てて眠るように気を失った。

 


7歳編のどん底折り返しです。物語全体の開幕へ向けて。

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