煙草 煙草
春姫が煙草を吸い始めたのは二十歳になった日の朝であった。
現在ではなく、当時の暦詩季が欠かさず視聴していた刑事ドラマ「デンジャラスポリス~清純派~」の主人公で男役、木村卓美(SMOP)がヘビースモーカーの設定であった。
『……ホシにはホシの、事情があらぁ』
どこかに必ず肩肘を付いてのポーズと決め台詞である。あまり脈絡が無い状況で乱発されるため春姫からすると「何言ってんだこいつ」であったが以前の詩季からすると
『おぉ……カッケェ』
となり、その呟きを春姫は聞き逃さなかった。
そして家の中で煙草を吸うような真似はせず、庭で吸っていた。
『姉貴……煙いんだけど』
庭に肘を置ける場所が無かったため夏紀を横に立たせその肩に肘を置いて吸ってみたが詩季は一瞥しただけで興味を全く引かなかったという微妙過ぎる結果であった。
ちなみにこの世界では男性保護視点での性に関わる表現は分厚いフィルターが挟まれているものの、煙草や酒といった嗜好品に対する放送規定や自主規制が無く、せいぜい違法ドラッグや犯罪助長となる内容や表現に対しての緩めのガイドラインが存在するだけである。世の働き手、特に女性がストレスを溜めやすくドラマや映画などといったものに商品タイアップで登場人物が嗜むのも商業的には有りとされている。そしてDVD・ブルーレイ化される場合は大抵モザイクが掛けられることについては賛否両論有り、商品名が解らぬようモザイクが掛けられるのが昨今の主流である。
暦家が現在のマンションに越してからは、学校から帰ってきてすぐにバルコニーに出て一本吸うのが日課となっていた。春姫が帰ってくるのは大抵午後六時。丁度夕食前で詩季が準備をしているタイミングである。
最近ではすっかり詩季に家事を奪われたが申し訳ないと思いつつ生活のリズムに大分余裕が出てきたのを実感している。
以前はそれこそ分単位で諸々の予定を調整し学業と家事を成立させていただけに、帰宅後の一服はなかなか辞められない物があった。
「春姫お姉ちゃん、何か飲む?」
座卓に座れば自動的に出てくるのはビールと決まっている。
そしてバルコニーで一本吸っていれば詩季が声を掛けてくる。
「お任せで一杯頼む」
「りょうかーい」
感慨深いものがあるのは当然で、弟にこんなサービスを無償で提供される姉がこの世に居るだろうか、と己の幸せを噛みしめる。
「はーい、モヒートだよー」
「む?」
初めて出たカクテルである。普段はビールか焼酎ソーダ割り、あとはせいぜいハイボール位であった。
「春姫お姉ちゃん、今日お昼にんにく食べたでしょ?」
「……臭うか」
「まぁ別に僕は気にならないけど、外なら臭い消しはした方が良いよ、という愛する姉への弟からの秘めたメッセージ」
「秘められてないな」
「あはは」
一服したらまずは歯を磨いて風呂に入ろう、と算段する。愛され姉さんは弟の好みに合わせたいのである。
「詩季は、煙草を吸う女は嫌いか?」
「別に? まぁ程々にどぞ。ただ子供考えてるなら止めた方が良いんじゃないかな? くらいの感想だけど」
「なるほど。辞めるとしよう」
「あらま。誰か良い人でも居るの?」
「居た事すらないな。ただ将来子供は欲しい」
お前だよ、という言葉は飲み込む。春姫は苦笑を交えつつ最愛の弟に告げる。
「ほほう。お姉ちゃん、モテそうだけどねぇ」
「理想が高いのかな」
「禄でもない男だったら僕がワンパーンチするから注意だよ?」
「それは私の台詞だ。禄でもない女と付き合うようなら……暦家奥義北斗百列拳だ」
「ひでぷー」
そう笑いながら夕飯の準備に戻る弟を愛おしげに見送りながら「詩季はいつ……北斗の県を読んだのだろう」と首を傾げる。家に漫画の類は少なく、せいぜい冬美が買う程度だが北斗の県は世代が明らかに違う。
「まぁ……光源子計画は順調ではある、か……しかしまぁ」
モヒートのミントの香りを楽しみつつ生涯最後の煙草をもみ消す。
「始末は付けなければならんが……どうしたものか」
今でこそ煙草を吸わない詩季。事件前、詩季に煙草を覚えさせた者に対する興信所の報告内容が薄く、不満と共に、ため息をつくのであった。
十鬼紋女は荒れていた。紋女の生家が営む『十鬼総合開発』通称『十鬼財閥』とのコンペで敗北が目立っているというのが原因である。
「申し訳御座いません」
役員にして営業部総責任者である暦節子は頭をこれでもかと下げ定例役員会にて謝罪する。
「報告に今も相違無いか」
「御座いません」
「百戦百勝など無理な話。次に繋げよ」
「申し訳御座いません。畏まりました。次こそは」
何度目の次だ、と悪態をつきそうになるが営業部を統括する暦節子の責任は有るものの、事は節子の進退の追求をすれば良いと言うほど単純ではない。何より業績は昨年対比を越え、予算も十分達成している。
紋女が立ち上げ育てたabecobe corporationはここ十年で東の雌となり、十鬼財閥は依然西の雌と言われ業界を共に二分する勢力である。
紋女達が後発であり、たった一代で、遡れば戦国時代にまで遡れる財閥にその業界では拮抗しえるまで育てあげたことを考慮すれば紋女は高望みに過ぎる、との見方も出来る。
だが弱肉強食のビジネスの世界では企業とは成長し続けなければならない。時に貪欲に、時に強かに。二番じゃ駄目ですか? という問いに「二番に甘んじれば二番の座さえ失う」という答えしかないのが紋女を始め会社全体に浸透していた。
「十鬼財閥は我の私情は置いておくにしても不倶戴天の敵である」
部下たちにある。全敗ではないのが悩ましいところで、節子が参戦したコンペは相手が十鬼財閥であろうと勝率は悪くない。他の人員の十鬼財閥以外に対する戦績で言えば悪くはないどころかむしろ健闘している。が、業界を二分しているとはいえ十鬼財閥以外の切り崩しに留まっており十鬼財閥の節子が関わらない大部分に対して苦戦どころか圧敗と言える状況に紋女は焦りを感じていた。
負け癖がついては適うものも適わなくなる。ましてやいつしか「十鬼財閥なら仕方ない」などという空気が流れればそれは即ち今の地位すら失いかねない。
三番手以下は統廃合を繰り返し時には外部資本によって一番手二番手を追い落とそうとするのが世の常であるからだ。下位を取り込み、服従しない雑魚は奈落に突き落とす。そして上位の爪先から食らいつき、食らい尽くす。それが業界二番手の生態である。
「我はかねてより進めていたM&Aを加速させる。更に跡継ぎ問題の有る企業はもとより旨味さえ有れば多少難が有っても吸収する」
既に公開している方針を拡大し紋女は役員らに宣言した。
「暦。おぬしが十鬼財閥対策チームの音頭を取れ。現在抱えている部分は下に委譲せよ。多少のリスクは目を瞑る。これを期におぬし抜きでも我が社を支えられる地盤を作りおぬしが十鬼財閥へ楔を打ち込め」
稼ぎ頭の節子を選任とすることの危険性が役員達の脳裏を過ぎったが口を挟むことはしない。
節子は立ち、一礼してすぐに着席した。紋女の決意を感じ取っている。
「須藤」
「はい」
須藤香奈の親であり紋女の片腕、経理・総務の長である須藤稟は座ったまま返事をする。
「おぬしを専務取締役とする。現状の役目も兼務せよ。我は不在となることが多くなろう。パイプ役を主に担え。我が居ない間の舵取りはおぬしに任せる」
「ぁ……ぁ」
鉄面皮と呼ばれる稟をして、驚きでうめき声しかあげることが出来ない。
これまで常務は居たが専務は空席となっていた専務の座に須藤稟を据えた。大抜擢である。株式上場しては居るが銀行や一般投資家に許している以外の約六割を自前の持ち株会社で紋女が占有している故に可能な独断専行である。
役員の誰しもがいずれは節子と稟が専務、常務となるであろうと予測はしていた。だが、稟のこの段階での抜擢は予想外と言えた。節子を超え、さらに古株の常務をも越えた稟に思うところがない役員達ではない。
だが、現状では感情的な問題を除けば役員の中で誰かが排除された訳でもなく、さらに異を唱え紋女に切り捨てられるのを覚悟してまで反対する理由が現状無い。今後起こりえることで言えば稟の監視と発言力が増した時点での話である。
節子の顔色を他の役員らは盗み見るが憤怒どころか驚きさえ見て取れずいつも通りであり、そこで稟以外の全員が節子には前もって知らされていたか予測していたであろうことを理解した。
「十鬼財閥」
紋女は拳を握りしめ、机に向かって激しく、渾身の力でもって叩きつけた。
「十鬼、財閥」
静寂に包まれた会議室の中で、紋女は奮える声を絞り出す。
「殺せ……十鬼財閥の全てを喰い尽くせ……殺せ」
例え私情が絡もうとも経営方針と企業戦略として問題が無い以上、紋女は正しく経営者と言える。
勿論その想いを口外するかどうかの点で人格的な評価に影響がある。だが創成期より付いてきた役員らには頼もしい大将としか映らず私情が無いにも関わらず私的に恨みを持つが如く打倒十鬼財閥へと同じ方角に向かうのであった。
「あーん」
「あーむ……んー! 旨い!」
暦家、晩餐。紋女は節子に誘われ相伴に預かっていた。誘われなくとも二日に一度は詩季が誘ったり勝手に紛れ込んだりと夕飯をご馳走になるのだがこの日は別な事情があった。
「社長、あんた馬鹿ですか」
「あーん」
「あーむ……んー! 旨い!」
この日は詩季が隣に座り、紋女に「あーん」とご飯を食べさせていた。節子をはじめとする暦家女性陣の視線が槍のように突き刺さってくるが紋女に効くわけも無く、詩季からの「あーん」を心から味わっている。
「聞いてます? あんた馬鹿でしょ」
「お母さん、まぁまぁ。ほらあーん」
「あらッあーむ! 美味しいわ!」
怒りつつ、呆れつつ、雇い主を馬鹿扱いし続ける節子に詩季は行儀もへったくれもないと諫めるために母親にもカボチャの煮付けをあーんと食べさせる。少し態度が軟化するあたり、お母さんちょろい、と詩季は良い意味で苦笑いを浮かべた。
「そうは言うがな、節子。我は頑張ったぞ?」
「どう頑張ったというのですか。須藤さんが専務に、というのは私も賛成してましたが骨折るくらい机叩く人を馬鹿だと思わない人居ませんよ」
「我は激しい痛みに堪え静かに病院に向かったのだからもっと褒めても良いではないか。あの場でのたうち回ったらまんまギャグじゃろ」
紋女は会議で叩きつけた拳を骨折させたのである。骨折の痛みを堪える精神力に暦家の子供達は呆れ、そして驚いた。さらにまた呆れた。
「いや、何やってんだあんた」
「激情家は早死にするさ」
「紋女さん、何故加減しない」
「メッティ、馬鹿?」
散々な感想に紋女はキコエナーイキコエナーイと片手で耳を塞ぐ。
「紋女さん、物に当たるのイクナイ」
「ッうぁ」
詩季からデコピンを貰い面食らう。
そして夕食後。
「頑張るのも程々にね」
「うひゃっ!?」
帰り際、玄関まで見送りにきた詩季にデコピンを食らった場所にキスをされた。
詩季にしてみれば絶対好かれていると確信している紋女であり、怪我をしているし、とサービスのつもりであった。調子に乗り過ぎだという自覚も有るが、ホームだし、と変な開き直りをしている暦家長男兼変態、それが今の暦詩季である。
「ど、どうせなら口にして欲しいのぅ」
額とは言え詩季との初めてのキスに驚き、内心の動揺を隠せないまま拗ねたふりをする紋女。
一人であれば『ぬっはあああああああああああああ! にゃっはあああああああああ! ひゃにゃああああああああ!』と地べたをゴロゴロ転がりつつ悶えていた。実際に部屋に戻ってすぐに衝動を抑えられず実行することとなるが。
「紋女さん、煙草臭いから駄目~」
紋女は仕事が忙しくなると煙草を吸う、という悪癖がありここ数日煙草の匂いをまとっていた。それは僅かな残り香であったが吸わない人間にとっては鼻につくものである。
「ぬ、ぬ……なら、止めよう」
「それが良いよ」
詩季は特に煙草を吸う女が好きでも嫌いでもないが、激務であろう紋女を気遣って、止められるなら止めた方が良いと思ってのことであった。
「ずっこい」
「飯くらいなら全然構わないけどあれは許せないさ」
「春姉、ちょっと妖怪ロリ婆こらしめてくるわ」
「許可する」
「夏紀ちゃん、殺してきなさい」
それを目撃していた暦家女性陣に呆れつつ、苦笑いしつつ、同じようにサービスする詩季であった。




