ナイフ 壊れ易いもの
注:ギャグ無し
冬美は呼吸を整えるため、深呼吸した。
「僕は……悪くない」
そう呟き、もう一度、今度は先ほどより大きく深呼吸。
「駄目だ」
落ち着いても考えがまとまらなかった。そこはいくら天才でも経験の足らない小学生である。
そこで携帯を取り出した。
夏紀が到着したのはそれから二十分後であった。肩で息をしている状態で、余程急いで来たのが詩季達の目からも明らかだった。
「夏姉」
「夏紀お姉ちゃん……あの」
春姫が遠出しており電話もすぐに出るか解らない、母はまだ寝ているだろう、頭脳派の秋子に電話しようとも思ったが不測の事態に滅法弱いと本人も公言している。
結果、消去法であったが冬美は最良の選択をした。夏紀に電話を入れたのである。
「ナイフは、どこだ」
「ここ」
「寄越せ」
冬美からナイフを受け取った夏紀は己のリュックに無造作に突っ込んだ。ジャージの上も着ないで駆けつけていた。
現状は、夏紀の指示通りに詩季達を電話で女子トイレに招き入れた冬美は川原木の妹が所持していた刃物を隠し持っていた。
川原木と熊田で川原木妹を肩で運び出し、詩季と冬美が隠しながら移動したのである。
そしてボウリング場の端の目立たないベンチを占領していた。
「怪我は」
「顎殴ったくらいだからだいじょぶ。もうすぐ目を覚ますと思う」
何故そんな気絶させた相手の状態が解るのだ、と夏紀は思いはしたが聞き返さない。
夏紀は冬美のそういった判断に誤りが出るとは思えず素直に受け入れる。
だがその一方で「冬美ならもっと上手く対処出来たのでは」と疑う気持ちも有った。勿論それは漠然とした想いであり、非難する気持ちからではなく冬美に対する評価が高いが故であった。小学生に対して過大なものであり酷な話である。それは夏紀の若さ故の間違った感覚と言える。
「冬美、このタオル、濡らして来い」
夏紀の様子に怯みながらも指示に従う冬美。
「あの、夏紀先輩」
己の妹の凶行に川原木は青ざめ震えていた。
「起きるのを待つ」
刃物で脅す小学生。冬美が怪我をしていないのがまだ救いだと夏紀は思う。
妹が傷つけられていたら夏紀はさすがに後輩の妹とは言え決して許すことはない。後遺症などによっては相手が小学生であろうと地獄を見せる程に夏紀は母の血を色濃く継いだ激情家である。
だが、夏紀は人情家である。
詩季を除く暦家の面々はややもすると他人には冷たい傾向が有る中で、夏紀は最も情に厚い女であった。
川原木の事も良く知っており川原木の家の状況もまた、熟知していた。
そう言った意味でも冬美は偶然ではあるが最良の選択をしたのであった。
川原木妹、利香が目覚めると第三者である熊田が夏紀を含め改めて状況の確認と説明を行う。
冬美にも経緯を聞いていたので大筋間違いはない説明であった。
目を瞑って腕組みし妹の横で立つ川原木は眉間に皺を寄せていた。その横で怯えるのは川原木妹。
「お前、刺そうとしたの?」
利香にそんな度胸はなかった。ただ、悔しさと面子の問題で何とか冬美に土下座させなければと強迫観念に捕らわれていた。
冬美は青ざめたまま微動だにしなかった。夏紀がここまで静かに事を進める様子を見るのは初めてで、先ほどから自分に一度も視線を向けようとしていないのにも気付いていた。
「さ、刺す気は、なかった、です」
「そか。刺そうと刺すまいとお前人生終わったな」
夏紀の淡々とした言葉に利香は完全に絶望の表情を浮かべた。
ここで川原木家の事情について少し語る。
川原木家は一男三女。川原木兄、健太が長男で利香が長女である。そして小学校三年生と二年生の年子で次女三女と居る。
川原木家の父は、三女が生まれた年に経済的に追いつめられ始めた川原木母に借金や散財を咎められたため不貞腐れて蒸発していた。
そして大黒柱の母は今、入院していた。育児に仕事にと無理が祟って体調が思わしくない状況がここ一年続いていた。
長男である川原木健太は母が体調を崩し始めた当時は中学三年生。
高校はスポーツ推薦だったため家事と育児をサポートしていた。そしてそれは今も続いており、部活の顧問はスポーツ推薦ではあるものの状況を鑑みて落ち着くまでは健太が怪我をしていることにし療養中とされているのである。
健太は父に可愛がられていた。だがその一方で妹たちに対しては跡が残ったりするようなことは無かったとはいえ理不尽な暴力や叱責が頻繁に浴びせられていたため、徐々に嫌悪するようになったのである。
それに対して母は健太にバスケを、利香には空手を、下の子達にもそれぞれ好きな習い事を続けさせようと自分を削って日々必死であった。
健太は深く物事を考える方ではない。ただ、男子らしく生理的な嫌悪を感じる場面も有るがそれ以上に、子供たちには文句一つ愚痴一つ言わずに常に笑顔の母に対して健太は尊敬の念を抱いていたのである。
健太は母に気の利いた言葉や笑顔を向けることはない。ただ彼もまた、淡々と己の出来る範囲で家事や育児を手がけていたのである。
「俺が悪いんです」
利香が荒れているのには気付いていた。ただ、反抗期だろうと目を背けていた。その事に気付いてはいたが、直視することが出来なかった。どこかで好きなバスケの練習参加もあまり出来ず、試合にも出れない鬱憤から「何で俺がそこまで」とどこかで思っていた。
「んなこと聞いてねぇよ」
兄としての監督不行届であると自分を責める健太に夏紀は冷たく切り捨てた。
「お前ら、タダで済まないからな」
冬美はその言葉が自分にも向けられているのを感じた。姉の静かだが圧倒的な存在感に震えが止まらなかった。
そんな中、冬美の兄は、静かに佇んでいた。
その日の内に利香の取り巻き連中の親も含め話し合われることとなった。暦家側には十鬼紋女が懇意にしている弁護士に付いて貰った。
集合を渋る親に対しては弁護士が強気で呼びつけると飛んで来て節子にため息を付かせるという一幕があった。
親同士、弁護士事務所で話し合いが行われている同時刻、夕方。
暦家のリビングに子供たちは揃っていた。全員が終始無言である。
冬美は自分が被害者だと思う一方で、開き直ることの出来ない空気を感じ身を縮こまらせていた。
長い静寂を破ったのは夏紀であった。
普段なら春姫が対処するのを眺めるのだが、この件に関しては春姫から「お前が仕切れ」と命じられていた。
それは春姫が川原木家の事情を夏紀から聞いたことと、それまでの対処についても春姫ならば警察に直行だったであろうに夏紀が隠蔽する方向で動いたからでもあった。
法律家を目指す身としては春姫にとって夏紀の対処は許し難く理解し難い面もあったのである。
「冬」
「う……は、はい」
普段は陽気な姉が無表情でソファーに座る冬美の前に移動し屈んで目線を合わせてくるのに冬美はたじろぐ。
「冬は強い」
そして、静かに話しかけてきた。
「頭も良い、見た目も良い、何をやっても器用に出来る」
叱る様子ではない。
慰めたり褒めたり諭したりしようとする気配も皆無であった。
夏紀は和を尊ぶ精神が強い。かと言ってそれが万人に通じるものだとは思わない。
姉の春姫が天才肌であり他人は他人と割り切り自分に付いてくる人たちにもそれほど興味を示さない。
すぐ下の妹は妹で幼少の頃から独特過ぎて放置すると友達も作らずに一人遊びに興じる性格だった。
そんな放置すれば勝手に生きていきそうな二人を密かにつなぎ止めていたのは夏紀であった。
「どう思うかはお前の勝手だし、内容を聞くとお前はそんなに悪いことはしてない」
夏紀は直情的で考えることは苦手だと自覚している。
ただ、直感に優れていた。冬美の心を抉る一言が口を突いて出た。
「満足か?」
ただ、その一言だけで、冬美は思考が止まった。自分は悪くないという思いは有り、責められれば即座にそう答えただろう。
その答えは事実だ。冬美は二度に渡り多数に囲まれ絡まれたのだ。
「満足なのか?」
夏紀の理屈も内容も伴わない言葉は冬美にとって挑発として届いていた。
冬美には『お前はこの程度の事も丸く収められない程に無能なのか?』と言われているように聞こえたのだ。
冬美は過程と結果を区別して思考する位には理性的な性格をしている。一度目の対処によっては二度目の襲撃は防げたかもしれない、と思い至ったのである。
問いかけた夏紀にはその意図はなかった。
ただ、どうとでも取れる言葉を本能で紡いでいるだけ。
夏紀は己の本能を疑わない。それは己が最も信頼する人間、秋子が信じて疑わない夏紀の最大の武器だから。
「次は……もっと上手くやる」
冬美に説教は不要であり優秀が故に己の矜持によって自発的に動き出す、と夏紀は感覚として理解していたのである。
話し合いの後に冬美に訪れたのは、ずっと堪えていた詩季の涙と抱擁であった。
「ふゆちゃん……ふゆちゃん……ぅう」
「ご、めん……なさい」
普段の冬美ならただ単に愛されている実感と喜びを感じただけだろう。夏紀の問い掛けが冬美に罪悪感や後悔を植え付ける土壌になったのである。
「夏紀。風呂入って来い。汗臭いぞ」
そう言われ自分が汗だくになったままシャワーも浴びていないことに気付き素直に従った。
そして夏紀はすぐに慌てふためくことになる。
「夏紀お姉ちゃん、背中流すよ~」
色々と対処してくれた姉を労おうと思った詩季。エロ目的ではなく、純粋に喜んでくれるだろうと思い、抱擁もそこそこに腕まくりして風呂に侵入。
「えうぇええ!? い、いや、汚れてるから!」
「え、だから洗うんじゃん? 遠慮しなくて良いよ?」
「い、あ、う……良いのか?」
「勿論!」
まさかそんな展開になるとは思わなかった春姫と秋子は苛々とストレスを溜めていく。
「あいつ、ところどころ美味しいとこ持ってくなぁ……ちっ」
「夏姉の本能は馬鹿に出来ないさ……ちっ」
冬美は冬美で「最良の結果を……次は僕が背中を流して貰うようにしなきゃ」と若干おかしな方向に向かうものの一連の流れに対して己の行動を強く反省するのであった。
数日後。冬美の通う友田柔道場に、利香とその仲間も入門するのだがそれはまた別な話となる。




