幕間 紋女 杉本
紋女の極貧だった学生時代を知っていてなおかつ今でも付き合いが有るものは少なくない。
彼女は在学中からその体躯に反してカリズマ性を発揮し、部活動こそバイトのために行わなかったが生徒会長を歴任し絶大な人気を誇っていた。
上級・下級生問わず、優秀で頭角を現した、めぼしい人材は既に紋女の会社に引き込んでいた。ただ一人を除いて。
詩季の担任、杉本である。杉本は紋女が高校三年生の年に入学し、生徒会に入って紋女の薫陶を受けていた。
「そろそろ我の会社に来んか?」
繁華街、杉本が気負わない程度のランクの料亭に呼び出した紋女は近況の雑談もそこそこに、そう切り出した。
そこそことは言っても離れの個室であり、杉本の給料で支払おうとすれば一ヶ月分は飛ぶレベルだが。
どこに十鬼財閥の目や耳が有るのか解らないため、盗聴器の有無を確認した上で人払いも済んでいる。
「先輩、私が何年教師やってると思ってるんですか」
長年の教師生活を経た人間である。総合商社で事業が多岐に渡るとは言え役に立てる場面があるとは思えない。そう思い、何度も断っている。予想はしていたが、またか、という思いも強い。
だが解っては居ても食事の誘いを断れない理由が杉本には有った。
「その割に、報われていないようじゃが?」
紋女の二つ後輩である杉本の年齢であれば学年主任くらいになっていてもおかしくはない。教育機関といえど、様々な要素が人事には絡まるという悪い例だと紋女は認識していた。
杉本は紋女の片腕である須藤凛と同様に孤児であり、奇しくも同じ施設で育ったため凛の先輩に当たるのだが、両者ともお互いに今なにをしているのかは知らなかった。
「報われぬ時を過ごすのは不毛ではないか?」
杉本は瞳に苛立ちを浮かべるも、それは一秒にも満たない一瞬。
ただ、紋女が見抜くには十分な間。しかしその苛立ちの原因を取り違えていた。
「先輩に言われると、大分キますね」
世間一般では成功者として名高いことを自覚している紋女は可愛がってきた後輩が自分を羨んでいる、とその言葉から勘違いした。
「我は運も良かった。おぬしとて、飛べよう。我と共に高みを目指さぬか? いい加減、雌伏の時代を終わらせても良いのではないか?」
杉本は紋女の杯に酌をしつつ、己の杯も満たし、すぐに干す。
この苛立ちは何か。杉本が紋女に対し、学生時代から持ち続けた苛立ちのその答えは、解りきっていた。
大きな器を持った、小柄な紋女に恋い焦がれ、秘め続けた想いがその答えであった。
「学生相手にしてきた私が新たな分野でプロを相手に出来るわけがないでしょう。今の仕事だって、やりがいは有りますし」
差し伸べられた手を握りたくても、自分が重荷になるなど、とてもとても辛いことだ。
始めから紋女の背を追えば良かっただろうか、と何度考えたことか。
だが、近くに居れば居るほどに辛くなるのは目に見えていた。だから、正しい選択であった、と何度も杉本は己を宥め続けてきた。
「それなら問題ない。我は私学や学習塾を始めとする教育機関をこれから買収していく」
紋女の言葉によって、杉本の心の中にあった枷の一つが音を立てて外れてしまった。
「我と共に」
差し伸べられる、小さくも、愛しい手。
「飛べ」
学生時代。
輝くようなその小さな、だが広い背を眩しく想い、何度届かぬ想いに切なさで泣いたことか。
「我の翼となれ。
我を支えよ。
我と共に生きよ。
頼む。
おぬしが欲しいのだ」
これまでにない情熱をぶつけられた杉本の心は焦がされ、雑念も葛藤も燃え尽くされる。
もう良いのではないか。
傍に居ても良いのではないか。
居場所を作る、傍に来いと請われているのだから。
意地を張らないで良いのではないか。
例え、それが限界だとしても、傍で愛する人の夢を叶える礎になれるのなら、それは幸せではないか。
杉本はそう、過去の己を説得し始める。そして、やがて、過去と離別する。
止まらぬ想いに、目の前の小さな手に、全神経が集中し、すぐに決壊する。
「ぅ……ぁぁ……ぁあ」
無意識に、震えながらも伸びる己の手。
雫が頬を伝う。
報われることなどない想いだと解っていた。不毛だとも、そうと知らない紋女に言われた通りだと重々承知だった。
「もう、離さんぞ」
握られた手を、しっかり握り返し、紋女は満面の笑みを浮かべた。
紋女の野望への更なる一歩。
まだ芽吹く前の人材の把握と確保のため、紋女にとって、信頼に足る教育者がなんとしても欲しかった。
信頼という面では杉本は打ってつけであり、杉本以上に信用できる教育者が紋女には思い浮かばなかった。
教育機関と言っても様々であるが、買収先やその道のプロの下で杉本を修行させ、ゆくゆくはその分野のトップに据えることを視野に入れていた。
「せんぱい、がんばり、ます……わたし、がんばりますからっ」
そして、杉本は欲しかった言葉を、一生聞くことの出来ないと思っていた言葉を、その意味は違うと理解しながらも受け取った。
嬉しかったのだ。純粋に。
「うむ。頼んだぞ。我に出来ることなら、何だって報いよう」
だがその一言が余計だった。
「な……何でも?」
「我に出来ることならな?」
「出来ることなら、に、二言はないですよね?」
「む? なにが望みだ?」
いぶかしげな紋女の手を引っ張り、杉本は抱きしめた。
杉本にとっては幸いなことに、そして紋女にとっては平和ではないことに、二人が居たのは人払いも済んだ離れの個室。
「ぬぉっ!?」
「恋人に、などとは言いません。言いませんから。たまにで良いですからッ」
「ひぇ!? ま、待て待て待て待て待て!」
「もう待ちません!」
そして、杉本は御馳走を美味しく頂いたのであった。
おまけ
「し、詩季……あの」
「どしたの? 紋女、そんな死にそうな顔して」
「う、か、隠して、また変なことになったらまずいから、言うんじゃが」
「ん? また浮気?」
「う、浮気ではない! 浮気ではなく! って、またって!? えぇ!?」
「冗談だってば。で、どったの?」
「その……かくかくしかじかで……」
「杉本先生とメチャックス?」
「お、襲われたのじゃ! 誤解するでない! 我は詩季のことだけが!」
「紋女」
「うっ」
「セーーーーーーーフ!
セーーーーーーーーーーーフッ!」
「ふぁ!?」
「次から動画撮影してくるなら今後も許す!」
「はぁ!? なにぃいい!?」
詩季は百合好きであり、女同士ならば気にしない広く歪んだ心の持ち主であった。




