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お前は誰だ 貴女は誰

2017/09/30 にも「幕間 肉山 → 細山」を更新しています。ご注意下さい。


 詩季の朝は早い。

 目覚ましを掛けることもなく、夜明け前に目が覚める。


「今日は……金曜日だから……パターンゴールド」


 そう呟きノソノソと寝床から起き出す。

 そして目に入るのは一枚の壁に掛けられたコルクボード。

 詩季が退院した日から、増えるばかりでところ狭しと貼られている。


 退院した日、母と看護師、主治医と撮った。

 今の詩季にとって初めての、そして今の詩季になる前にとっても初めての、家族旅行。

 冬美が大活躍をした運動会。

 夏祭り。

 バレンタイン、ホワイトデー。


 他にも多くの思い出の軌跡。


「…………むぅ」


 冬美のような声を漏らす。


「…………あーあ」


 そして陰鬱な気分になった詩季はシャワーを浴び、台所に立つ。


「詩季、おはよう」

「おはよ。早いね」


 誘拐事件後、特に金曜日になると詩季はテンションが僅かにだが低くなることに春姫だけは気付いていた。


「手伝おう」

「ありがと。じゃあ……お皿お願い。今日はゴールデン」


 春姫は詩季の定めた朝食パターンで使う食器を用意する。


 月曜日は洋食・ムーン、火曜日は和食・ファイアー、水曜日は洋食・ウォーター、和食・木曜日はトゥリー。そして金曜日は洋食でゴールデンとそれぞれ詩季は名付けている。和食洋食を交互にそしておかずもそれに併せてそれぞれの曜日で重ならないよう、飽きないように工夫されている。


 そのネーミングセンスは熊田家のベアーフィールドをバカに出来ないレベルであったが誰に迷惑がかかる訳でもないので誰もツッコミは入れない。普通はそこは星の英語名ではないか、などとは言わない。


「詩季、私の卵はトロトロで頼む」

「ブラジャー」


 腰をふりふりしつつフライパンを操る詩季に胡乱な目を向けてしまう姉。


「……私の今着けているので良いか?」

「立派なおかずになるね」


 この弟はなんと下ネタに強いのかと春姫は感心どころか心配になる。


 この世界の男性が女性の半裸や全裸に興奮はすれど、下着そのものに劣情を催すかというと微妙なところ、かなりマイナーな性癖であった。詩季の前世の世界で女性が男性の下着に興奮するかというとそれほどメジャーな性癖ではないのと同じ事である。

 下着泥棒の男性は時折居ても、男性の下着を盗む女性が極々僅かなのだがこの世界では逆であった。


「妹たちから総攻撃を受けるな」

「じゃあ、おかずはスクランブルエッグにして、ブラジャーはこのあとスタッフが美味しく頂きましたのテロップ流そう」

「おいおい」


 詩季に渡すならば全く問題ないどころか、それで興奮するというのならばむしろ望むところではある。が、詩季がここまで飛ばした会話をするときは調子に乗っている時か、逆に精神的に疲労なり落ち込み空元気で居ようとする時だと知っていた。


「何か有ったか?」

「え?」

「今なら誰も起きてない」


 詩季は悩む。

 朝からあまり深い話はしたくないという気持ちと、見抜かれていたか、という気まずさ、そして体は元気でも心が弱っている自分にさらに打ちひしがれた。


「端的に話すと」

「じっくりでも構わんぞ」

「イントロダクションで三日掛かるね」

「ふむ。まぁ好きな方で構わん」


 詩季に関しては特に付き合いの良い春姫に苦笑いを浮かべる詩季。なんと懐の深い姉なのか、と精神年齢で言えば本来一回りほど上のはずの詩季は感心とともに感謝が胸に染み渡る。


「記憶が戻ったら、僕どうなっちゃうのかなって」

「私たちは、どうなってもお前を受け入れることに変わりはない。これまで通りだ」


 春姫の意志の篭もった即答に詩季はため息を付く。それは解っている。予想出来た反応だ。


「ありがとう。ただ、前の僕はどこに行ったのかなって。記憶が戻ったら、今の僕はどこに行くのかなって」


 暴きようがない詩季の秘密。そして今の詩季では本来知り得ないであろう知識や記憶を披露したところで常人では信じようがない、今の詩季にとってだけの事実。


「……どう転んでも詩季は詩季だ」

「でも、記憶を失う前の僕と今の僕、だいぶ違うでしょ?」

「性格はな。だが、その体は間違いなく暦詩季。間違いない。私が幼い頃から傍で見続けた暦詩季以外の何者でもない。それはこれからも変わるまい」


 体だけか。

 詩季は当たり前のことを突きつけられ、一瞬立ちくらみを覚えた。


「当然だ。精神や魂と言ったものをどう定義するかは宗教や学問の領分だろう。私たちには見えるもの、触れるものしか互いに証明出来るものはない。この肉体でしか自分が自分だと他者に証明出来る方法はないんじゃないか」

「朝から……なんて会話だろうね。あはは」


 いつの間にか、フライパンを持つ詩季の背後に立った春姫がそっと詩季を後ろから抱きしめた。


「胡蝶の夢は知っているか?」

「ぁ……うん」


 耳元で囁かれ、耳朶に掛かる息に詩季の鼓動は高まる。


「詩季」


 一瞬、ためらうように言葉を紡ぐ春姫。ここが分水嶺だと気負って居た。今でなくても良いのかもしれない。だが、今もまた、その一つの見極めの時だと気付いていた。


 詩季が日々の合間に、何かの拍子に、不安に駆られているのは気付いていた。それは記憶に関することであろうことは疑いようもない。


 姉として、詩季という人格を愛する人間として、その不安を出来るだけ早く取り除きたい。故に、春姫は用意していた。そのタイミングを逃さないように、しくじらないように。


「例えお前が、お前の心が、私たちの弟として育った詩季ではないと言ったところで、それをどうやって、客観的に証明出来る?

 それは不可能だ。絶対に不可能なことだ。

 お前が実は記憶喪失ではなく今のお前を演じていたとしても、お前が暦詩季だという事実は疑いようもない」


 道理だ。詩季は頷くしかない。


「だが同時に、これが私が見ている夢、誰かが見ている夢ではないとどうやって証明出来る? 覚めなくては夢だったと言える訳がないじゃないか。そして夢を本当に見たのかどうか、どうやって他の人間に証明する?」


 胡蝶の夢。

 詩季は合点がいった。だが、悩む意味がない、ということは解ってはいるのだが、不安が拭えないのも仕方がないことである。

 詩季にとって、今の自我の消失は死と同義なのであるから当然である。またある日突然、自分が自分でなくなったら、と。恐ろしくて仕方が無い。愛する家族を得て、友人を得て、楽しい日々を失いたくなどない。


「うん、ありがとう」


 気にするだけ無駄、と詩季は改めて開き直るしかない。それは解っていた。解りすぎていた。だから、何も変わらない。今の日常も。


 当然の帰結に詩季はため息が漏れそうなのを堪える。


「まだだ」

「え?」


 フライパンをそっと置かせ、ガスを止め、春姫は詩季の体を己に向かせた。

 そして顔を両手で、優しく包む。慈しむように。そして、



「それで、お前は、誰なんだ」



 言葉で突き刺す。先ほどまで、詩季は詩季だと、言っていた張本人からの刺突。


「お前は、誰だ」

「…………ちょっと……難しい問答だね」

「単純だ。お前はお前を誰だと思っている」

「僕……は」


 暦詩季で、暦家長男。その言葉を自信を持って返すことが出来ない。自分は偽物だと言われていると責められているのではないか、ととてつもない大きな不安に押し潰される。


 暦春姫にとって、弟を奪った張本人ではないか、と。

 だが、その己の頬に触れる手は、震えていた。そして、いつもの無表情な春姫の双眸は揺れていた。


 いつまでも答えない詩季を辛抱強く待つ姉。強く、賢く、優しい姉。


「僕は……」


 春姫は、言葉で刺す前に、教えてくれていたことに思い至る。


「暦、詩季」


 胡蝶の夢、我思う故に我有り。一般人にとっては言葉遊びの道具でしかない。

 だが改めて、宣言する。

 この体で、この場で、精一杯生きると飲み込む。

 前の世界に未練はない。そして自分のその記憶さえも最近ではあまりの非現実的な現象に自信が持て無くなっていた。それだけ、今の詩季にとってこの世界での日々が当たり前の存在になっていたのである。


「そうか」

「……ん」

「よろしくな」


 ならば考えても仕方の無いことだと『思い込む』しかない。

 余熱で完全に固まってしまったスクランブルエッグをあえて春姫のものに決め、詩季は笑顔を浮かべる。


 春姫はその詩季の笑顔に安堵を覚える。

 抽象的で、不確かな会話の中、勇気を出して踏み出したその一歩。その一歩は誰も踏み込めなかった前人未到の詩季の心の内側に確かに踏み入った。


「貴女は誰?」


 詩季はおどけた調子で自分の頬を挟んだまま離そうとしない春姫に問う。


 詩季の心を軽くし、だが確実にこの世界に根付かせた。それは勿論、春姫だけではなく、これまでの記憶、思い出、周囲の優しさが後押しした結果。


 詩季の心の最後の扉を開いたと春姫は確信した。今だ、と。



「私は暦春姫。詩季を愛する以外は何もない女だ」



 はっきりとした告白。一瞬驚く詩季に返事を聞くまでもなく、徐々にその美貌を近づける。

 詩季は拒む理由どころか選択肢を持たない。


「よ…………ろし……く」


 詩季もまた、美貌の姉のかすかに濡れた唇に吸い込まれるように距離を縮める。


 そして……





「じゃっらぁあああっ」

「ぐがっ!?」





 ニュータイプかエスパーの如く何かを感じ起きてきた末妹のローリングソバットが春姫のこめかみに決まった。唇と唇の邂逅は、あと数ミリというところで阻止されたのである。


「抜け駆け、だめ」


 空手のような残心の構えでそう宣言する妹に呆れつつ


「せめて、柔道使お?」


 斜め上のツッコミを入れる詩季であった。







 この日、詩季の心は救われた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] これで、やっと暦詩季として進んでいけるってことかな。よかったよかった
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