変わり果てたシルト大公家
シルト大公家の門の前まで辿り着くと、なんとも言えない気持ちになる。
ここは本当にシルト大公家なのか。
屋敷が見えなくなるほど木々が伸び、鬱蒼とした雰囲気になっている。塀は汚れているというよりも、汚されたと言えばいいものか。泥や卵などが投げつけられているように見える。
どこからともなく悪臭がするのは、周囲に捨てられた生ゴミのせいだろう。
人よりも鼻が利くアルウィンは、不快そうな声で「にゃあ」と鳴く。
「あの、もしかしなくても、イヤコーベとジルケは嫌がらせを受けているの?」
「みたいだな」
中に入ることができないよう、正門は鎖で縛られていた。これはイヤコーベがしたのか、それとも外側から誰かがしたのかは謎である。
「裏口から行きましょう」
「ああ」
塀に沿ってくるりと回りこむと、今度は別の嫌がらせを発見した。
木の扉には〝使用人に罪をなすりつけるな!!〟とペンキで書かれている。どうやらこの嫌がらせは、かつてここで働いていた使用人達の仕業に違いない。
さらに、腸みたいな細長い物が落ちていて、ゾッとしてしまう。人の物でありませんように、と祈るばかりだ。
いや、人の物でなくても大問題だが。
中に入ると、雑草だらけの裏庭に言葉を失う。ここでこの有様なのだから、正面にある庭はさらに酷い状態なのだろう。
他に使用人はいないと思われるので、正面玄関に回りこむ。
予想通り、かつて美しかったシルト大公家の庭は雑草だらけになっていた。
それだけでなく、ゴミが持ち込まれて酷い有様だ。悪臭どころの騒ぎではない。
見ているだけで辛くなるので、なるべく視界に入れないように歩く。
玄関にはペンキで〝悪女母娘〟と書かれてあった。使用人達はよほど恨みに思っているのだろう。
その気持ち……よくわかる。
クラウスが扉を叩くが、反応はない。もう一度、強く叩いたら、二階の窓が開く音が聞こえた。
何事かと玄関を離れ、二階部分を覗き込むと、空から水が降ってきたではないか。それを被る前に、クラウスが私を抱き寄せてくれた。
ばしゃりと音を立てて、水が地面に広がる。
よくよく見たら水ではなく、水で薄めたペンキだった。こんなものを二階からぶちまけるなんて、どうかしている。
「金を借りた男は死んだよ!! さっさとお帰り!!」
イヤコーベの威勢がいい声が庭に響き渡る。元気に暮らしているようだった。
どうやら借金取りと勘違いされているようなので、誤解のないように弁解しておく。
「あの、私達は借金取りではないわ」
今日からここで働く者だと訴えると、イヤコーベは「そこで待ってな!」と叫んだ。
人違いしてしまった件に関しての謝罪は一言もなかった。
待つこと十分――イヤコーベとジルケがやってきた。
父が生きていた頃は大人しめの恰好だったが、今は赤や黄色といった派手な装いでいる。
夫が亡くなった妻は、最低一年間は喪服で過ごすというのに。中には生涯、喪服しか着ない貞淑な妻もいるという。
それに比べてイヤコーベときたら……呆れて言葉も出ない。
着ているドレスはどこか安っぽい。いいドレスを買うお金すらないのか。
「ふうん、あんたらがローゼ夫妻か」
イヤコーベとジルケは不躾すぎる目で私達を見る。
変装は完璧なのでバレないだろうが、こうしてジロジロ見られるのは居心地が悪い。
「パッとしない、あか抜けない夫婦だねえ」
「本当に。っていうか、なんか臭うんだけれど!」
臭うのは庭に投げ捨てられたゴミのせいで、私達から臭っているものではない。
けれどもぐっと我慢し、申し訳ないと頭を下げる。
それにジルケが気分をよくしたのか、さらに見た目を非難し始めた。
「女のほうはやせっぽっちで、男のほうはガタイはいいが不細工だ」
クラウスが不細工だって!?
彼の端正な顔立ちを知らないので、そんなことが言えるのだろう。
好みの問題もあるだろうが、私は社交界でクラウス以上の美形を知らない。
ジルケとは趣味がこれっぽっちも合わないのだろう。
「いいや、ジルケ、男のほうは案外見所がある。磨いたらよくなりそうだ。男の――名前はなんだったか?」
「ロビン」
「そう、ロビン。こっちにきて、顔をよく見せるんだ」
呆れた。他人の夫に色目を使うなんて。
ぎゅっと拳を握った瞬間、玄関の前で大人しくしていたアルウィンが中へ入ってくる。
「にゃ~お」
「ぎゃあああ!! 猫!!」
イヤコーベは素早く背後に跳び、ジルケの背後に隠れる。
「ちょ、ちょっと、あたしも猫は得意じゃないんだけれど!」
「いいから、そこに立ってな!」
相変わらず、イヤコーベは猫が苦手なようだ。
「そ、その猫はなんなんだ!?」
「私達の家族よ。田舎から、連れてきたの」
「お、追い出しなさい! 今すぐに!」
「それは無理な話だわ。この猫は、家族なのよ」
「猫が家族なわけない!!」
イヤコーベは否定するが、アルウィンは正真正銘、私とクラウスの家族だ。
「その猫を追い出さないと、あんたら夫婦も家に入れないよ!」
「だったら――」
クラウスのほうを見ると、こくりと頷く。
回れ右をして屋敷から出て行こうとしたら、イヤコーベは慌てた様子で引き留める。
「いや、待て! どこに行くんだ!」
「だって、猫は入れないと言うので、別の職場を探そうと思った次第で」
別の職場、と聞いたイヤコーベはさらに焦った表情を浮かべる。
「いや、あんたら夫婦みたいな田舎者を雇う家なんて、ここ以外ないんだよ」
「そうよ!」
母娘が強気になってきたこの辺で、引き下がろうか。
「だったら、猫を認めてちょうだい。お願いよ」
「そ、それは、認められない、けれど」
「給料は一日、半銅貨でいいから」
その言葉に、イヤコーベの眉がピクリと動く。
借金まみれで、資金繰りにも困っているはずだ。この値段交渉は彼女達にとってかなりおいしいだろう。
「そうだね。半銅貨ならば、その猫を入れていいよ」
「ありがとうござ――」
「ただし、二度と私の目の前に連れてくるんじゃないよ!」
イヤコーベは吐き捨てるように言い、あとの世話をジルケに命じる。
使用人の監督責任を任されたことが嬉しいからか、ジルケはにやついていた。
「じゃあ、あんた達の部屋に案内するよ」
ジルケが連れてきた先は、階下にある使用人用の仮眠室だった。埃被っていて、長い間使っていないことがわかる。アルウィンは埃を吸ってしまったのか、くしゃみをしていた。
「ここで、夫婦仲良く暮らすんだよ」
夫婦仲良く――と言われ、今さらながらハッとなる。夫婦設定なので、クラウスと共同生活をしなければならないようだ。
よくよく見たら、寝台はひとつしかない。ふたり用みたいだが、ここにクラウスと眠らないといけないのか。
まだ結婚していないのに、夫婦として暮らさないといけないなんて。とんでもない任務を引き受けてしまった。
「本格的な仕事は明日からでいいよ。今日のところは洗濯とあたし達の部屋の掃除、それから夕食を用意してくれ」
十分、本格的な仕事だったが、私は笑顔で「ええ、わかったわ」と言葉を返した。
「わかったわってあんた、言葉遣いがなっていないね!」
「言葉遣いなんて習っていないもので。よかったら、正しい言葉遣いを教えてくれない?」
ジルケは礼儀作法を習っていたはずだが、身についていないようだった。
私が正しい言葉遣いを教えてくれと言っても、言葉に詰まっている。
「あんたみたいな使用人が、貴族の言葉を使いたいなんて生意気なんだよ!!」
ジルケは吐き捨てるように言い、部屋から去って行った。




