シルト大公家へ
クラウスと同じような全身黒尽くめとなる外套をまとい、頭巾を深く被る。
コルヴィッツ侯爵夫人の見送りを受けながら、発つこととなった。
「ふたりとも、どうか気を付けて」
私とクラウスは同時に頷く。
馬車ではなく、馬に乗って行くらしい。コルヴィッツ侯爵家の厩に、クラウスの馬がいるようだ。
全身黒の美しい青毛の馬である。私の接近に気付いた馬は、威圧するような目で見下ろしていた。
「わたくしが乗る馬は、どの子ですの?」
「いや、私と一緒に乗ってもらう」
急ぐので跨がるように言われた。
乗馬用のドレスではないのだが……緊急事態なので仕方がないのだろう。
クラウスが馬の背中に置かれていた鐙を下ろす。大きな馬なので、足が届くかどうか心配だったが、ここでクラウスが私を赤子のように持ち上げた。高い、高いではなくて、馬に乗せるためである。こういうのは一言、事前に何か言ってほしい。
無事、馬に跨がったが、スカートが臑のあたりまで上がっているのがわかった。恥ずかしいが、我慢するしかない。どうせ辺りは暗いので、道行く人には見えないだろう。
続けて、クラウスも後ろに跨がる。
「行くぞ」
「え、ええ」
思っていた以上に密着したうえに、耳元で囁くものだから、驚いてしまった。
馬は軽やかに歩き始め、厩を出た瞬間、走り始める。
舌を噛まないよう、奥歯を噛みしめ、衝撃と速さに耐えることとなった。
馬は風を切って走る。外は暗く、何も見えない。
私自身が風になったようで、不思議な気持ちを味わった。
あっという間にシルト大公家の屋敷へと到着する。が、正門から多くの荷馬車が出入りしていたのでギョッとした。
「あれは、なんですの?」
「家具か何かを持ち出しているようだ」
耳を澄ませたら、声が聞こえる。イヤコーベのものだった。
「あの人の部屋にある物は、全部持ち出すんだよ! 今のうちに、売っ払っちまえ!」
父が亡くなった晩に、家具を売りに出す妻が世界のどこにいるというのか。
兄が隣国から戻れないという情報は届いていないはずなので、邪魔する者が出る前に売ろうと思ったのか。呆れた話である。
「ラウ様、裏口のほうへ回りましょう」
「ああ」
使用人が出入りする裏口のほうへと回り込んだら、使用人が何か持ち出していた。
「イヤコーベ様が気付かないうちに、急げ!」
「ああ!」
いったい何をしているのかと目を凝らしたら、庭に生えている薔薇の樹を持ち出しているようだ。
あの薔薇は父が母のために贈ったものだったのだが。
イヤコーベだけでなく、使用人までも盗人のように屋敷を荒らしていたなんて。本当に信じられない。頭がズキズキと痛んだ。
「あいつら、絞めるか?」
「いいえ、今は大丈夫」
すぐに駆けつけてきて正解だった。まさかこんなにも早く、屋敷に残った者達が窃盗行為を働くとは想像もしていなかった。
「エル、他に出入り口はあるか?」
「――!!」
いきなり耳元で名前を呼ばれたので、飛び上がりそうになった。ずっと、私への呼びかけはお前だけだったのに。
しかも愛称だったので、驚きは倍である。すでに名乗っているので本当の名は知っているはずなのに、なぜ、愛称だったのか。
私がずっとラウ様と呼ぶので、仕返しなのかもしれない。
「エル?」
「あ、えっと、出入り口はございませんが、一カ所だけ、塀が低くなっている場所がございます。馬の背に立てば、なんとかよじ登れるはずです」
「案内しろ」
「は、はい」
夜でよかったと思う。明るい場所だったら、私の顔が真っ赤になっていることがバレてしまうだろう。
思いのほか優しく呼ぶので、余計に照れてしまったのかもしれない。
名前を呼ぶならば、いつもの迫力ある低い声で口にしてほしかったのだが。
塀の前に到着すると、クラウスは音も立てずに塀の上に飛び移った。
猫のようなしなやかな動作に、見とれてしまう。
が、次の瞬間には、私に手が伸ばされる。ここから跳べと言いたいのだろう。
「立ち上がらなくてもいい。手を取れ」
「わ、わかりました」
馬の上に立てるか、若干心配だったのだ。
足場の悪い塀の上から、引き寄せてくれるという。
それは果たして大丈夫なのだろうか。今は彼を信じる他ない。
クラウスが伸ばした手を掴んだ瞬間、ものすごい力でぐいっと引かれる。
「んんんっ!!」
一瞬にして、クラウスの胸の中に飛び込む形となったが、私を抱きしめたクラウスの体がぐらりと傾いた。
なんとか堪えてくれという懇願も空しく、ふたり揃って背後に倒れていく。
悲鳴をあげないよう、口元を手で覆う。そして、衝撃に備えたが――着地したのは積み重ねられた藁の上であった。
「……ラウ様、もしかして、わざと藁の上に落ちました?」
「そうだが?」
何か文句でもあるのか、という声色である。
私が怖がると思って言わなかったようだ。
心の準備というものがあるので、行動に移すときは事前に言ってほしい。
立ち上がったクラウスの背中には、藁が大量に付着していた。
取る振りをしつつ、思いっきりバシバシと叩く。思いのほか、背中が硬くて驚いた。きっと、全身に筋肉がついているのだろう。
このままでは手首を悪くしそうなので、ほどほどにしておいた。
無事、シルト大公家の敷地内に侵入することに成功したのだが、庭には多くの使用人達が行き来していた。
「呆れたな。盗人がこんなにも多くいるとは……」
「ええ」
母は庭の草花を愛していた。毎年父は母に薔薇や果樹の苗を贈り、庭は年々美しくなっていったという。
高価な樹や花が多いので、売れると思ったのだろう。
「このままふたりでうろついたら見つかる」
ならば、どうすればいいのか。と思った瞬間、クラウスは私の耳元で囁いた。
「抱き上げる」
言ったのと同時に私を横抱きにする。そして、人を抱えているとは思えない速さで、庭を駆け抜けた。
完全に、クラウスは闇に溶けていたように思える。使用人達は誰ひとりとして、気付いていなかった。
使用人達が作業をする階下は灯りが煌々と点いており、忙しそうに行き来していた。
キッチンメイドは食料庫から食材を盗み、ランドリーメイドは高価なリネンを我が物にする。パーラーメイドは執事と結託し、銀器をじっくり吟味しているようだった。
「騎士隊に通報したほうがよさそうだな」
「本当に」
厨房からこっそり入ろうと思っていたのだが、計画が頓挫する。
「エル、侵入するならば、どこがいい?」
「二階にある、わたくしの部屋がいいと、思います。窓の鍵が壊れているので、出入りできるはずです」
すでに何もかも奪われ、もぬけの殻だろう。
「窓の近くに大きな樹が生えておりますので、そこから登って入ることが可能です」
何度か樹を伝って屋敷を抜け出したことがあると告白すると、クラウスはため息を返す。
「貴族のご令嬢が、どうして木登りなんかできるんだ」
「お母様から習いましたの」
年に一度、イースターのシーズンになると、家族で草原にピクニックに出かけていた。
草原にあった大きな樹に、裸足になって登っていたのである。
父は木登りができず、いつも下から見上げるばかりであった。母が教えようかと言うと、いつも困った表情を浮かべ、断っていた。
あのときは、本当に幸せだった。




