クラウスの言い分
信じられない。まさか彼がここまでしてくれるなんて。
クラウスは恭しく会釈する。顔面が血まみれなのに、所作だけ見ていたら貴公子のようだ。
国王陛下は笑みを浮かべつつ頷きながらも、クラウスを心配する。
「クラウスよ、血は大丈夫なのか?」
「はい、返り血ですので」
周囲を取り囲む者達は、顔が引きつっていた。それも無理はないだろう。
「しばし、婚約者と部屋でゆっくり過ごすとよい」
クラウスと揃って、会釈を返す。
あろうことか、彼は私の肩を抱いたまま、ずんずんと大広間を闊歩する。
人垣は自然と遠退き、出入り口まで繋がる道が開かれた。
私の移動速度に合わせているのか、ずいぶんとゆっくり歩く。そんな配慮ができたのか、と内心意外に思ってしまった。
一部の者にのみ許された出入り口を通り抜けた瞬間、私はクラウスから離れる。
「あの、どうぞ」
胸元に押し詰めていたハンカチを取り出し、クラウスへと差し出す。
「お前、どこにハンカチを入れているんだ」
「仕方ありませんの。ドレスにはポケットがないものですから」
少し生暖かいが、直接肌には触れていない。衛生的であると訴える。
クラウスは受け取り、額についていた血を拭う。
ハンカチを返してくれと手を差し伸べたが、彼は胸ポケットに入れてしまった。
「あの、ハンカチ、返してくださいませ!」
今日、手元にあるのはあのハンカチしかない。侍女とははぐれてしまったので、吐血に対応できなくなってしまう。
なんて事情は言えないが、必死になって返すように懇願した。
「血が付着して汚いだろうが」
「汚いです!」
「だろう?」
思わず本音が出てしまったため、ハンカチは返してもらえなかった。
潔癖性な自分が憎い。
「行くぞ」
「待ってください。ラウ様は、どうしてわたくしを助けてくださったの?」
「礼を言うより先にそれか」
「感謝はしています。けれども、昨晩話したときは、わたくしとの結婚に否定的でしたので」
クラウスは振り返り、私を睨むように見る。あまりにも強い眼差しで、目を逸らしたくなった。
負けてはいけない。二本の足でしっかり立ち、クラウスをじっと見つめる。
彼が私との婚約を決意した理由は、意外なものであった。
「お前が、死を救いだと言うから」
「え?」
「死は救いなんかじゃない」
親の敵を見るような目で私を見ながら、クラウスは言った。
「逃げるな。現実から目を逸らすんじゃない」
どくん、と胸が高鳴る。
その言葉には、聞き覚えがあった。状況はまるで異なるものの、予知夢の中で彼が私に言った言葉である。
「私と結婚することで、お前が助かるというのであれば、手を貸そうと思っただけだ。それ以上の感情はない」
「ラウ様――」
ありがとう、という言葉の代わりに、血を吐いてしまった。
急に目眩に襲われ、立っていられなくなった。
これは、予知夢で見た未来を変えてしまった代償だろう。
「げほっ、げほっ、ううっ……!!」
「おい、大丈夫か!?」
手袋を嵌めた手で口元を押さえ、血がドレスに付かないようにする。
その場に蹲った私を、クラウスが抱き上げてくれた。
以前した荷物のように担ぎ上げるのではなく、お姫様のような横抱きである。
「お前、病気なのか!?」
「い、いいえ。これは、先ほどジルケに突き飛ばされたときに、口を切った、のです」
「苦しい言い訳にしか聞こえない!」
手袋は真っ赤に染まっている。口を切ったというには出血が多すぎた。
近くの部屋に運ばれ、優しく寝かせてくれた。
血まみれの手袋を外し、シーツを口元に当てる。
「げほっ、げほっ――!!」
大丈夫かとクラウスが顔を覗き込む。
そんな彼の手を取り、近付いてきた瞬間、耳元で囁いた。
「ドレスを血で汚したくないので、脱がしていただける?」
「お前は――!!」
コルヴィッツ侯爵夫人が丁寧に血抜きし、修繕してくれたドレスを台無しにしたくなかった。
どうかお願い、と口にしたかったのだが、意識がブツンと途切れてしまった。
◇◇◇
ひんやり、と冷たい手が額に触れる。
「……気持ちいい」
自分の声に驚き、ハッと目覚める。
瞼を開くと、私を覗き込むクラウスと目が合ってしまった。
起き上がろうとしたものの、ぐっと額を押さえ付けられる。
私の額に触れていたのは、クラウスの手だったようだ。
だんだんと意識が鮮明になっていく。
私は華々しい社交界デビューを果たす途中にウベルとジルケの婚約破棄を目撃してしまい、さらにジルケの束縛から逃れたウベルから求婚されてしまったのだ。
絶体絶命の私を助けてくれたのが、クラウスだったというわけである。
彼にお礼を言おうとしたら、吐血し倒れてしまったのだ。
「あの、わたくし、どれくらい眠っていたのですか?」
「丸一日だ」
「へ!?」
クラウスが額から手を離した瞬間、のろのろと起き上がる。
ここは王宮の休憩室ではなく、コルヴィッツ侯爵邸だ。
「わたくし、どうしてここに?」
「医者の診断を受けたあと、私が連れてきた」
「そ、そうだったのですね」
消え入りそうな声で、ありがとうございますと伝えた。
まさか、そんなに寝込んでいたとは……。
これまでも気を失うように倒れてしまった覚えがあったが、丸一日眠っていたことはなかったはずだ。
大きく運命を変えてしまったので、体のダメージも大きかったのだろう。
「信じがたいことに、医者は病気なんかしていないと言っていた」
それはそうだろう。私の吐血は、運命を変えたさいの代償だから。
たぶん、命か何かを削っているだけに違いない。
「ただ、イェンシュ先生の診断は違った」
「イェンシュ先生がいらっしゃったのですね」
「ああ。お祖母様が呼んだ。意識があるときに詳しく調べないとわからないようだが、これまでのことが精神的な負担となり、胃にダメージを受けた結果、血を吐いたのではないか、と言っていた」
たしかに、イヤコーベとジルケがやってきてからの暮らしは精神的な負担になっていた。血を吐いても不思議ではない。
「もう、お前は実家に帰らなくてもいい」
コルヴィッツ侯爵夫人が私の保護者兼後見人として、名乗り上げてくれたらしい。
書類は国王陛下に提出し、無事、受理されたようだ。
たった一日で、そこまでしてくれていたなんて。話を聞いているうちに、目頭が熱くなる。
「婚約期間中は、お祖母様と共に暮らせ」
なんでもここはコルヴィッツ侯爵邸の本邸ではなく、コルヴィッツ侯爵夫人が静かに暮らすための別邸らしい。
「そう、でしたのね。そういえば、コルヴィッツ侯爵はいらっしゃらないな、とは思っていたのですが」
なんでもコルヴィッツ侯爵は本邸で愛人達と仲良く暮らしているという。
各々楽しく暮らそう、というのが夫婦の在り方らしい。
「さまざまな夫婦の形があるものですね」
「呆れたことにな」
私とクラウスは、どんな夫婦になるのか。まったく想像できない。
唯一言えるのは、彼がコルヴィッツ侯爵のように愛人を大勢迎えるようなタイプではないということか。
「ラウ様、この度は、本当にありがとうございました。おかげさまで、わたくしに平穏が訪れそうです」
ウベルと結婚するという最悪の運命は回避できた。彼もクラウスが相手だったら、勝てないだろう。
さらに、実家に戻らなくてもいいという。イヤコーベとジルケからいじめられることは二度とないのだ。
私は一生をかけて、クラウスに恩返ししないといけない。
予知夢の能力も、今後は自分のためでなく、彼のために使おう。
そう、心の中で強く強く誓ったのだった。




