Franken to rise
脳が揺れる。
倒れ込んだ冷たい地面が体の熱を奪っていくようだった。立ち上がろうとしても、手足にまるで力が入らない。遠くから沢山の声が聞こえてくるが、それは頭の中までは届いてこなかった。
ぼやける視界の先で、細身の男が右腕を突き上げる。そこに刻まれた勝利の女神のタトゥーは、微笑んでいるように見えた。
光を浴びるその影で、俺は、藻掻くことすら許されない。
□■□
汗の臭いの染みついた控え室で、俺は右腕を冷やしていた。腫れるようなダメージは受けていないが、念のためだ。怠るようではプロは名乗れない。
「よう。今日も盛大に負けたな」
聞き慣れた声と共に、少し小太りの人の良さそうなオッサンが入ってくる。
「台本通りだっただろ。向こうさんはなんか言ってたか?」
「好評だったぜ。流石は相棒だ。今日は盛況だからな、金もたんまり入るだろうよ」
「次の予定は」
「一日おいて明後日だな。移動がある。短いがしっかり休んどけ」
テーピングがいるか? と聞かれたのを断って、俺は冷やす場所を胸の中央に移した。今頃、リングの上ではメインイベントに盛り上がっている事だろう。
top of versatile。略してtovと呼ばれる、格闘技の王を決める戦い。
武器の持ち込みと目への攻撃、その2つ以外は全て許される。先に倒れ、立ち上がれなくなった者が負けという、レフェリーすら介入しない至極単純な決闘。
俺達はその前座だ。
tovはそのルール上、一戦一戦の負担が重い。選手には万全のコンディションが求められ、連戦は御法度だ。いくら多くの選手が居ようと、どうしても間に空白の期間が生まれる。
その期間でも効率よく金を稼ぐために、俺達へお声がかかる。定期的な公演と、tov本戦の前のエキシビション。勝者と敗者が事前に決まっている、殴り合うフリをするだけのままごとが繰り広げられる。
フランケン。図体ばかりデカい俺は、不死身の怪物の名と共に、絶対に負ける悪役の宿命を背負った。
勝者のみが輝く世界で、敗北を食って生きる怪物。
自分で言って情けのない話だが、これが今の俺の姿である。
「どうした。妙な顔しやがって。らしくねぇぞ」
頬に当たる冷たい感触に手を伸ばすと、それはいつも使っているドリンクボトルだった。よっこらせ、と言う声と共に、俺の対面へオッサンが座る。
「話してみろ、相棒。俺はお前のマネージャーだ」
「なんもねぇよ」
探るような目から顔を逸らして、受け取ったボトルを煽る。冷たい液体が、喉元の熱を流した。
「tovが気になるのか?」
親しげな声で話しかけてくるのを無視して、ボトルの中身を確かめるように軽く揺らす。トプトプと、飲み干しても満たされない程度しか、中身は入っていなかった。
質問には答えない。
「お前も気になるよな。今日戦うのは今話題の天才ファイターだ。連戦連勝。あらゆる戦いをほぼ無傷で済ませ、一週間おきに一戦と来てる。今最もチャンピオンに近い男だ」
答えない。
「このまま行けばチャンピオンマッチだな。お前も人気では負けてないから、そのエキシビションに出られるぞ」
堪えない。
「そういや、お前は昔にそいつと戦ったことが――」
握っていたボトルを机に置いた。意識せず力が入っていたのか、予想外に大きな音に、オッサンが言葉を切る。ハッとしたような目が向けられた後、それはすぐにいつもの笑顔に戻った。
「いや悪かった相棒。そうだよな、そいつのせいでお前は」
「それ以上言わないでくれないか」
咄嗟に言葉が飛び出ていく。のしかかる得体の知れない重圧に頭が上げられず、オッサンの顔すらまともに見ることができない。
昔、tovに憧れていたことがある。血の滲む努力を積み重ねた。周りに将来を期待されたりもした。
だからこそ油断をしていたんだろう。一度アゴに直撃を貰って、負けた。そのダメージは脳まで届いていたらしく、二度と戦いの舞台には立つなと言われた。
それでも過去の夢を、栄光を諦めきれず、惨めにしがみついた。その結果が、チャンピオン候補とその前座である。
滑稽な話だ。
「オレは、出て行った方が良いかもな」
ぎこちない笑顔と共に、オッサンが俺の前から去ろうとする。
「待ってくれ」
それを、何故か俺は、呼び止めていた。オッサンが驚いた顔で振り向いて、ゆっくりと俺の目の前に戻ってきた。
「何かあるなら言ってくれ。俺ができる限りの事はやってやる」
何時になく真面目な、真摯で真っ直ぐな声と顔。頭を上げることはできたのに、重い口はいつまで経っても開いてくれない。
オッサンはいつまでも待つというように頷いた。
「俺は」
震えて漏れた言葉は、形にならずに途中で切れる。もう一度閉じかけた口を、勢いのままに動かした。
「俺は、もう一度tovを目指したい。危険なことはわかってる。だが、このまま負け犬のままで生きるなんて事は、俺は」
吐露した本音は、ここで途切れた。開いた口から別の言葉が出ることはなく、息をするのも辛いように戦慄く。力なく上げた頭は再び落ちた。
情けない。無様が過ぎるだろう。こんなことを言ったところで、叶うはずがないのだ。tovで勝ち上がれるような選手を仕上げるには、膨大な金と時間がかかる。勿論、その間は俺は公演に出ることができない。もし出場できたとしても、下手をすればすぐに死ぬ。
こんなもの、金をドブに捨てろと言っているようなものではないか。
世迷い事を取り消そうとして口を開く。今度は素直に動いてくれそうだった。
「言ってくれて嬉しいぜ。相棒」
こちらの言葉が形になる前に、オッサンの声が届いてきた。
見上げると、いつもの人懐っこい笑顔がある。だが、その顔は少し自信げだ。
「いつかそう言うと思ってな。少し前から動いてたんだ。相棒がいないと話にならない、無理な話だって馬鹿にされたりもしたがな」
コイツは、何を言っているんだ。
言葉の真意を噛み砕くのに時間がかかる。いや、わかってはいる。予期していない言葉に動かなくなった頭とは別に、体はその奥底を滾らせていた。
もう一度あの舞台に立てるというのか。
「オッサン……あんた」
「おっと、相棒。そのままで勝てると思うなよ。まず体を絞らなきゃならねぇ。そんな図体のまんまじゃ、ただのデカい的だからな」
心のそこから楽しそうな声でオッサンが言う。じわじわと頬が吊り上がるのを感じた。
「それと、だ。これが一番重要だぜ。相棒」
「なんだ」
「お前の頭には、まだ爆弾が埋まったままだ。それに、向こうとこっちとじゃ世界が違う。下手をしなくても死ぬかもしれないぜ」
「知ってるだろ。俺は不死身のフランケンシュタインだ」
「相棒」
静かに、されど力の籠もった口調で、オッサンが俺の覚悟を問う。
今なら心から素直に言える。もう一度俺の勝利を望んでくれるならば、俺が出す答えなど最初から決まっていた。
「悪い。それでも、俺はやりたい」
「負けるときは死ぬときだぞ」
「既に一度死んでいる。死体として生きるよりマシだ」
「ブランクは無視できねぇ。待っているのは地獄だ」
「承知の上だ」
「もう二度と負けないと誓えるか?」
おう、と答える口元には自然と笑みが浮かんでいた。
試合が終わったのだろう。遠くで響く歓声が、この部屋にまで届いてくる。天井に固定されたテレビを見上げると、傷一つ無い体を見せびらかすように、アイツが右拳を突き上げていた。
「チャンピオンまで後一歩」という派手な文字が、一度大きく画面を横切る。
そこで待ってろ。すぐに追いつく。
□■□
幾重にも重なる音が、無機質な壁を反射して、俺の体を包み込む。久々の感覚に心が高鳴った。
遠くから、今まさに俺を煽り呼ぶ声がする。
「調子はどんなもんだ。相棒」
「最高だ」
「よし、顎にだけは貰うなよ」
「耳にタコでも作らせたいのか?」
「大丈夫そうだな。よォし、お前の拳を見せてやれ!」
叩かれるように背中を押された、その勢いに任せて鉄の扉をくぐる。爆発する喝采が鉄の檻を叩いて揺らした。軽く手をあげて答えてから、俺は対戦相手の待つ中央へと足を進める。
間合いのその内側まで踏み込んでから、右手を出した。筋肉質だが細く絞まった手が、しっかりと俺の手を握る。
試合の前の握手。いつからか暗黙となった、tovのマナーである。
「随分と縮んだな、フランケン。頭のネジは治してきたか?」
「うるせぇ、肉を詰めてきたんだよ。チビ」
「お前からすれば誰だってチビだ」
軽く言葉を交わした後に、空いた手で互いに肩を叩く。伸ばした腕には、勝利の女神のタトゥーが刻まれていた。
「良い試合にしよう」
「もちろんだ」
グッと手を握りあった果てに手を離す。振り返って三歩。そこからまた、正面に向き直る。
腰を落とし、両手を軽く広げて構えた。上体を前に倒し足裏に力を溜める。相手は両手を軽く上げ、顔の前へと構えた。
観客も押し黙り、沈黙が戦場を支配する。敵以外の全てが、意識から掻き消えた。
今、始まりのゴングが鳴る。




