幕間4.忘れられない温度
※テオドール視点
武術大会が終わると一気に冷え込む季節になる。木々の色合いは変わって緑から赤に様変わりし、夏で減少していた食欲も一気に増加する。旬の食材も増えるのも関係しているかもしれない。この季節は女性にとってかなり危険らしくて、食欲と常に戦わないといけないらしい。それは庶民も貴族も変わらない事実のようで、実家でもここでも同じような会話をする女性がいた。
それはともかく、大きなイベントが終わったことで学校の中の空気は緩んでいるように思えた。バディを組む真意は未だに読めないけど、それでも組んでいること自体に悪いことはないようで、最初と比べればどの学年も友好的な空気を醸し出していた。それはオレの学年でも同じで、特にオレが武術大会で三位になったこともあり、周囲の貴族から一目置かれるようになった。それまでもオレの魔法の力は認めてくれていたようだから、直接文句や嫌味を言うのは一人を除いてほとんどいなかったけどな。
そんな時期だから、というのもあるのかもしれない。冬に入る前のこの季節、緩み切っているからこそのイベントがこの学校にはある。それが、建設記念祭だ。
「そういうのって、普通学校開校とかそういう時にしません?」
「それなら名前は開校記念祭とかになるだろ? それに、それだと開催日は春になるし、入学式とかと被るし、上手くいかねーんだよ。でも、この学校ができたこと自体は祝いたいからって理由もあって、開校ではなくて、この建物ができた時期に持ってきたんだ。だから、名前は建設記念祭ってなってる」
「へえ。それはオレ達何か関わるんですか?」
「うーん、特には。でも、一部の女生徒は参加する催しもあるな」
いつものようにディーノ先輩と授業を組みながら無駄話を楽しむ。こういう情報はいつだって先輩がくれるから助かった。もちろん、ある程度時期が近くなったら先生からも連絡が来るけど、当日の雰囲気とか催しとか詳しいことは言ってくれないしな。
「一部の? どういう人たち?」
「歌が上手いって認められた人たちだな。歌姫を決める小さなコンクールがあるんだよ。その代表に選ばれた人はそれまでに歌の練習とかすることになるな」
「へえ」
そういうこともちゃんとするんだな。でも、歌ってところが貴族らしいところか。しかも女生徒限定なのはそういう趣味が社交のステータスにもなるからだろうな。そんなことをばあちゃんかティナが言ってたし。
でも、歌か。こればかりはティナは選ばれたりしねーんだろうな。なんたってあいつ音痴だし。
「そうだ。これに関しては家族や友人も招待できるんだぜ。お前も呼んだら?」
「そうなんですか? じゃあ母さんに声だけかけてみます」
「あと、お前の幼馴染は? オレ一回会ってみてーんだけど」
ニヤニヤと揶揄いの笑みを浮かべる先輩に口元を引きつらせる。この顔、母さんとそっくりなんだけど。まさか先輩までもこんな顔して茶化してくるとは思わなかった。
普段だったらそれでもティナを招待することを考えたけど、今回ばかりは難しいな。
「あいつ、今事情があってベッサの街から離れられないんですよ。だから、呼べないです」
「そっか。残念。お前がそんなにベタ惚れになってる相手だから一回くらい会ってみたかったんだけどな」
「揶揄わないって約束してくれるなら、オレも先輩に紹介したかったですね」
さっきの仕返しとばかりに一言余計に口にすれば、先輩は気にした風もなく、悪かったってと謝ってくれた。思えば、学校に入るまでオレは友人達にさえティナを隠して生きてきた。だから、ティナのことを話して相談したのは先輩が初めてだ。
幼い頃から遊んでいた友人達だって、同じように相談したら気さくに答えてくれる気のいいヤツばかりなのは知っている。それでも妙な独占欲を働かせて、子供なりに欲張ってあんな行動に出ていた。そう思えば、子供の頃から自分は人に恵まれていたのだろう。
決して多いとは言えない人付き合いだけど、そのほとんどが良好な関係なのだから悪くない人生を送っていると思う。
(人が死ぬなんて……そんな経験しばらくないって思ってたんだけどな)
父さんの次にばあちゃんがその直前にきているなんて、考えたくない。けれど、ティナが言ったようにあの病気に特効薬も治療法も存在しない。続く痛みに次第に体力は奪われ、気力を削がれ、眠れなくなって、最後は消耗して死んでいく。痛みが酷い人はショック死するほどのもの……らしい。ばあちゃんがそれでも長く生きながらえているのは、元々の体力が人よりあって、騎士として生きていたことで痛みにも耐性があったからに過ぎない。そして、今はティナがなるべく痛みを軽くしているから、どうにか生きている。
ベッサの街に移る前、それでもどうにか普通に生活できていたばあちゃんが、ティナの魔法で一命を取りとめたのに寝たきりになってしまったのは、それだけ危険だった証拠だ。それからもうすぐ一年。いくら毎日魔法を使ってると言っても、気休め程度のその方法があとどれくらい持つだろうか。
考えたくなくて、考えたところでどうにもできなくて、オレは思考を振り払った。
考えたくないほどの嫌なことって、いつだって唐突に、呆気なく訪れる。
その証拠に、その日は思った以上に早くきた。
建設記念祭当日。オレは母さんを迎えに門に向かおうと部屋を出ようとした。あの後、この日のことを母さんに言ったら、父さんから話だけは聞いていたようで珍しくノリノリで店を休みにしてくることを決めていた。久しぶりに見る楽しそうな顔に誘ってよかったとホッとする。
だから、思った以上にオレもこの日を楽しみにしていて、少し浮かれていた。だけど、そういう日に限って思いがけないことが起きるんだって、この日初めて知った。
「あれ、ティナからこんな時間に手紙?」
部屋を出ようとしたその瞬間、机に置いてあった魔道具が光っているのに気づいて咄嗟に中を開く。そこには手紙ではなくカードが入っていて、たった一言だけ走り書きで記されていた。
〝フィーネさんの時間が多分もう一日もない〟
体が凍り付くような感覚がした。いつだって人の死は突然だ。もっと、もっとと願っても、待っててくれない。だけど、まだばあちゃんは生きてる。まだ、会うことはできるんだ。
すぐに気持ちを切り変えて部屋を飛び出した。門の所まで走れば、タイミングよくたどり着いた母さんを見つけて手を取る。
「ちょ、ちょっと! どこ行くの!」
「ベッサの街! ばあちゃんに会わねーと!」
オレの焦り顔を見て母さんも事情を察したんだろう。すぐに強張った表情に変わって黙ってついてきてくれた。本当なら王都を出てから魔法を使うべきなんだけど、今は緊急事態だ。馬車に乗って外にまで出ていたらベッサの街に着くのは夕方になっちまう。そんなことしてたらばあちゃんに会えない。だから、人目が付かない場所まで走って、その場で飛行魔法を展開した。少しでも早くするために母さんにはオレにしがみついてもらう。
「しっかり掴まっててくれよ」
「わかってるわ」
そう一言だけかけて空を飛ぶ。って言っても、王都の外周の壁は魔道具の一種で、魔法を展開したまま跨ぐことはできない。だから、なるべく人目が付かないように空高く飛んで、門付近まで来たら、ちゃんと門をくぐって外に出る。途中、何人かに目撃された気がするけど、今は気にしていられないので無視無視。門も通り過ぎたから大丈夫だろ。
気を取り直して全力でベッサの街まで飛ばした。
最速記録を出してどうにかベッサの街にたどり着き、オレは母さんと肩を並べて病院まで走った。息も絶え絶えに受け付けに行けば、ティナと二人で庭に出たと聞いて慌てて身を翻す。そして、どうにか間に合った。
もう半分も瞼を上げられない状態のばあちゃんに縋り付くティナの背中をゆっくりと撫でているばあちゃんの姿を見つけて、母さんと二人で叫ぶ。
「フィーネさん!」
「ばあちゃん!」
声を上げればようやくオレ達のことに気付いたばあちゃんは、驚いたように僅かに目を開いた。それでも、本当にちょっとしか上がらない瞼に、もう限界が近いことを悟る。ああ、本当にこれが最期なんだ。そう思った。
母さんは父さんが死んだときのように泣いてる。もう、泣き声しか出せなくて、何も言葉にできない状態だった。それに苦笑してばあちゃんは謝る。もっと、長く生きていられればよかったのに、と。
「テオ……母さんを支えておやり。セドリックとも、約束してたんだろう?」
ばあちゃんが、オレと父さんが交わしたこの約束について口にするのは二回目だ。一回目は、父さんが亡くなってすぐの時。その時はオレがばあちゃんに約束したことを口にして、これからは護ることを再度ばあちゃんに誓った。だから、今はばあちゃんの方から口にしてくれている。いなくなっても、見守っていると……多分、そう言ってくれているんだ。
オレは小さく頷いた。もちろん、言われなくても護る。父さんとの約束だし、何よりオレ自身がそうしたいから。
「護るよ。母さんも、ティナも。だから、安心して」
「言うようになったじゃないか。まあ、今のあんたなら、安心して任せられるよ。テオ、もっと男を磨きな。私に胸を張れるくらいにね。そしたら、あんたの望み通りにもらえばいい」
最期の最期まで、ばあちゃんは厳しいな。だけど、ちゃんとわかってる。オレがやる気を出す台詞を。一瞬こんな時に揶揄われたのかと思って表情を固くしちまったけど、そうじゃないなってわかってつい苦笑した。それでも頷いて見せれば、ばあちゃんはもうほとんど動かない表情を緩ませて笑ってくれた。涙を流す母さんとも少しだけ言葉を交わす。だけど、その間にもどんどん呂律は怪しくなって、言葉を紡ぐのも時間がかかるようになっていく。動いていた手はとっくに止まって、視線もどんどん空に向かっていった。
いや、きっと空を見ているわけじゃない。ここにはいない、誰かを思い浮かべているんだろう。
「幸せだったよ、あんたたちは、わたしの、かけがえのない、かぞくだ」
その声は、優しくて、穏やかで。きっと、心からの言葉。
王都にはあまり近づかなかったばあちゃんだけど、オレ達のことをちゃんとそう思ってくれていたんだ。それを言葉にしてくれた、ただそれだけで目頭が熱くなる。
「あいしているよ……」
掠れて、もう音として発しているのかも怪しい声で、愛を紡ぐ彼女に言葉を返すべきなのかもしれない。だけど、今何を言ってもきっと、もう彼女の耳には届かない。そう思って、オレもだよという言葉は飲み込んだ。代わりに、心で何度も何度も頷いて叫んで、ばあちゃんのことを思う。そしたら、まるでオレの声は届いたかのようにばあちゃんは目を細めて、そっと瞼を下ろした。
ガラス玉のような綺麗な碧の瞳は、それ以降見ることはなく……ばあちゃんは息を引き取った。
〝フィーネさんのお墓、山小屋の横に作ったよ。もう埋葬しちゃった。一人で勝手にしてごめんね〟
それから二日後。ティナから魔道具で手紙が来た。と言っても、今回もメッセージカードで、内容はそれだけ。相変わらず綺麗な文字で、綺麗なカードに書かれた内容に、オレは小さく息をつく。
「ティナのバカ。勝手とか思うわけねーだろ。というより、むしろ一人でやらせたことに苛立つ。クソ、こんな時に学校で身動きとれねーとか……」
傍にいてやりたい。きっと一人で肩を震わせているに違いない。あの、ばあちゃんの最期の日。母さんが号泣している横で、ティナは涙も流さずにただただばあちゃんの体に引っ付いていた。悲しいのに、苦しいのに、それを受け止めきれないとばかりに声もなく。
一番身近な人が死んだのに、悲しくないわけがない。それなのに、涙が出ないのは……きっとそれはティナが無意識に作り続けている壁の一つなんだろう。
そんなもの作っても、苦しいのは自分なのに。
「一人じゃ泣けねーなら、オレが泣かせてやんねーと」
明日は休みだ。それなら、授業が終わったら飛んでいこう。オレの顔を見たら、きっと無理して話をしようとするだろう。そしたら、無言で抱き締めてやればいい。
あいつが泣けるなら、何だってする。怒っても、諭してもいいし、一緒に泣いてみるのもいい。悲しいのはオレもだ。ティナが泣くのを忘れてるなら、オレが思い出させてやんねーと。
授業を終えてそのまま校舎を飛び出した。前回、王都内で飛行魔法を使ったことはやっぱりバレていて、だけどその姿をディーノ先輩が見つけてくれていたから先生に話を通してくれたお蔭で大事にはならなかった。だけど、ガッツリ説教はされた。いくら緊急時でも誰にも相談せずに飛行魔法を使ったらパニックが起きかねないだろうと。だから、今回はどれだけ急いでいても馬車で王都外に出ないといけない。焦る気持ちを抑えてちゃんとした手順で外に出て、そうしてあの時と同じくらいのスピードで空を飛んだ。
たどり着いた山小屋には明かりがついていなかった。今のティナならぼんやりとしてて明かりもつけていない可能性はあるけど。そう思ったその瞬間、外にティナの存在を見つける。
「ティナ!」
堪らず声をかけた。ティナが作ったばあちゃんの墓の前で、彼女は座り込んでいた。ゆっくりと、ぼんやりとした表情でオレを見上げた彼女は、表情をごっそりどこかに置き忘れてしまったような顔をしていた。光の灯らない瞳に、喜怒哀楽のない顔にゾッと冷たいものが背中を走った。
慌ててティナの前に降りて、家の中に入ろうと促す。けれども、何度声をかけても言葉は返してくれない。視線はこっちを向いているから聞こえてはいるはずだ。オレに会えば、きっと平気な振りをするんだろうなって思ってた。だけど、それすらもできないほど、ティナは追い詰められてる。胸がキリキリと痛んだ。こんなになってるのに、ティナはまだ泣けないんだ。
「悲しいのはわかるけど、とにかく家の中に入ろう?」
とにかくこの寒い中外にいてほしくなくてどうにか優しい口調で言った。無理やりにでも中に入れようとティナの肩に手を置けば、ひんやりと冷えた感触が伝わってきた。大分前からここにいるのだと、教えてくれている。
「――本当に、悲しいのかな?」
微かな声だった。風が吹けば掻き消されてしまうほどに。弱々しいその声音を、取り零さないように耳を澄ませる。
「どうして、涙が出ないんだろ」
ポツリと零された言葉に胸が苦しくなる。その言葉に、感情は見いだせない。ただ、純粋に疑問に思ったことを口にした。そんな感じだった。
悲しみだけじゃない。ティナは今、全部を見失っている。何もかも、考えたくないって……きっと体が拒んでるんだ。
思わず、ティナの腕を取った。強引に立たせれば、感情が乗らない表情が少しだけ驚きに変わる。その瞬間、縮こまって小さくなっているその体を強く抱き締めた。普段なら、できないことだ。だけど、今、自分を見失っているティナに、体も心も冷えてしまっているティナを、少しでも自分の熱で正気に戻ってほしくて。
ティナの中に悲しみは絶対にある。中に留まっているからどんどん辛くなっているのはわかってる。だから、それを吐き出してほしいって、泣いてほしいって思っていた。だけど、ティナが自分自身を見失いかけているなら、泣くことよりも現状を教えてやんねーと。
「もし、悲しいとか、そういう感情がわかんないなら……それは理解するのを拒んでるだけだ」
「こば、む?」
「昔、ばあちゃんが母さんに言ってたんだ。脳ではわかっていても、心が拒んでるんだって。大切な人がもうこの世にはいないって、受け入れられないからだって。きっと、ティナもそうだ。悲し過ぎて、受け止め切れなくて、拒んでるんだ」
泣けないことで自分が薄情な人間だと、そんなことを考えなくていい。だって、こうしてばあちゃんがいなくなったことでティナは苦しんでる。見ているだけでそれがわかるんだ。悲しんでないはずない。
だけど、ティナ自身はそれに気付かない。気付けないから、泣かせるためにも、泣かなくていいって口にした。泣くことは義務じゃない。泣く行為は権利があるかないかの問題だ。
だから、泣きたいときに、泣けばいい。
泣かせるつもりだった。それなのに、そんなことしか言えない自分が情けない。ティナの支えになりたいって、ティナの特別になりたいって。そう思って、いるのに。
泣かせるつもりが、オレが泣いてる。ティナのこんな姿を見ていたら、本当にばあちゃんが死んだんだって実感して、ティナに同調して、寂しくて……。
情けなくてより一層涙が込み上げてきて、体の震えが治まらない。
だけど、これは結果的によかったのかもしれない。
「――、……ッ!」
声もなく、ティナは涙を零した、んだと思う。オレは自分の顔をティナの肩に埋めて隠すことしかできなかったから、顔を見ることはできなかった。だけど、ポツポツと自分の肩に何かが落ちる感触がしたから、きっと泣けたんだと思う。ヒッ、と短く息を吸う音や小さな嗚咽を耳にして、オレも更に涙を零した。
「ティナ……オレの前でなら、いつだって泣いていい」
震えそうになる声をどうにか抑えて、口にした。僅かに体を揺らしたティナは、少しだけ間を置いて頷いた。
「むしろ……オレの前だけにしてくれ。その代わり、お前が泣きたいときは、絶対に傍にいるから」
今は見れないけど、次はティナの泣き顔を見て、存分に甘やかしたい。ティナとの間にある壁を取っ払って、オレを頼っていいんだって、甘えてもいいんだって、そんな存在でありたい。
だから――ティナの一番近いその場所には、オレだけを置いてほしい。
オレのその気持ちが届いているかはわからない。だけど、ティナは何度も頷いてくれた。縋りつくように背中に回された小さな手が、自分が彼女の一番柔らかい部分にいることを許された証のように思えて胸が熱くなる。嬉しくて、だけど寂しさや悲しみは無くならなくて、結局二人して静かに泣いた。終秋の月の山の夜はすごく寒くて、冷たい風が容赦なくオレ達を吹きつけたけど、その分お互いの熱がすごく暖かくて、とても心地よかった。
この温度はきっと、一生忘れられないと思う。




