序章
今日から定期更新していきます。
初日だけ二話連続投稿します。一話は本日朝六時に更新します。
空を覆い隠すような高いビルが連なり建つ。それが私が最期に見ていた世界の景色だった。
体の感覚はない。温度も、感触も、痛みも何もない。音すら聞こえないそんな中、小さく切り取られた空は、分厚い雲に覆われていて、まるで私が世界の汚れと言わんばかりに大粒の雨を降らせていた。
何も感じないはずなのに、その雨だけは冷たい気がした。どんどん、どんどん体から熱を失う感覚に蝕まれながら、私はそっと瞼を下ろす。
これで最期。
もう死ぬのだとわかってはいたが、よく聞く走馬灯のようなものは何も見えない。
仕方ない。だって私には、この世界でそんなものを見るほどの輝かしい思い出なんて、何もないのだから――――。
◇ … ◆ … ◇
ぱちり、と瞼が上がる。次に見えた景色はビルの代わりに木々が空を隠すように広がっていた。
遮断されていたはずの感覚は戻っていて、ざらざらとした土の感触や冷たさが背中に伝わっている。息を吸い込めば土と葉っぱの独特な香りがして、たまらず吐き出す。
ここ、何処だ。
おかしいな、私は確か東京にいたはずなのに。いつの間に森へ来たのか。右を向いても、左を向いてもあるのは土と木と草。それにときどきキノコだ。キノコ立派だな。何のキノコだろう。食べられるかな?
なんて、つい現実逃避してしまうほどビルらしいものはない。それどころか建物さえも、ない。
もしや、死体遺棄にでも遭ったのだろうか、なんて、そんな馬鹿げた思考に陥りながらゆっくりと起き上がった。
土に汚れた白いワンピースの裾が視界に入る。三段フリルが施されたそれは、可愛らしいデザインだ。二十代半ばも過ぎようとしている私が着るにしては可愛すぎる。年齢的にキツい。学生であってもキツい。これは小学生か、精々中学生止まりのデザインではないだろうか。
「っ、は?」
その裾から伸びた足に視線が向く。足は短く、少し丸い。そしてこれまた二十代半ばすぎの私が履くには可愛らしいデザインと大きさの革靴に目を丸めた。そして堪らず口から漏れた声にもまた驚く。
聞いたこともない声が、自分の口から出た気がした。
「あー、あ、あ? あ、やっぱり自分の、声」
高く、か細い声。自分の口から出てるとは思えないほど、可愛らしい声だ。信じられないとばかりに口を手で塞げば、その手も記憶より小さい。極め付けは後ろから胸元に溢れる髪が、白い。いや、少し違う。キラっとした灰色。銀かな? 多分、白銀なんだろう。見たこともない色の髪に思考は停止する以外ない。
これは、やはり、私はやっぱり〝死んだ〟のだろう。
そして、この子に転生した、と考えるべきだろうか。
それにしたって、ここに来るまでの記憶が一切ないのが疑問だけど。いくら幼いって言っても、転生したのならここまで生きてきた記憶くらい残ってるはず。まるで、死んでからそのままこの子供の中に入った、という記憶の繋がりには疑問しか残らない。
このままでは、自分の両親がいても気づかないままスルーしてしまうではないか。
「はぐれたにしても、捨てられたのだとしても、とりあえずここにいても誰も来ないよね」
がばりと起き上がる。体に痛むところはやはりない。ということは、私はこの小さな体をこの大自然に委ねて寝ていたのだろうか。そう考えるとなかなかに大物だ。眠くなって寝ていたのか、それとも気絶していたのか。わからないけれど体に痛みとかの異変は感じられないからとりあえずは大丈夫そうだ。
実はかなり活発な性格で街から外れて山に入り込み、奥深くになって力尽きたのかもしれない。顔も名前も知らないけれど、この体の両親に育児放棄の罪を押し付けるのはまだ早いだろう。なんて、変な前向き思考を巡らせながら体についた土を払い落とす。冷たい感触がしていたが、濡れていたわけではなさそうだ。払えばすぐに落ちてホッとした。とりあえず道がないか探すことにする。
ガサガサと草木をかき分け足を進める。けれど、悲しいことに今の私は園児体系。どんだけ足を早く動かしても、どんなに股を大きく開いてみてもなかなか前に進まない。見えてた一番奥の木の元にたどり着くまでに二分近くかかる始末。
ヤバい、このままじゃ日が暮れる。こんな山奥で身動き取れなくなるなんて最悪だ。転生したと気づいたその瞬間に命の危機なんて絶望を通り越して笑えてくる。いや、やっぱり笑えない。死の恐怖は相変わらず薄いけれど、それでも何にもわからない状態で死んでもいいと思えるほど生に対して執着が薄いわけじゃない。
「だ、誰かー!」
意を決して声を張り上げてみるけど、か細い声が上がるだけ。元より大声を出すなんてしていなかったのかもしれない。それとも寝ていたせいで喉が萎まっているのか。どっちにしても、今はこれ以上大きい声を出そうと思うと引きつりそうになったので口を閉じる。あまり意味がない気がするし、余計に力を使ったので早々に声を出す方法は諦めた。
人はいないし、水もない。もちろん道らしきものも見当たらなくて途方に暮れる。どうすればいいんだろう。せめてここまできた記憶だけでもあったらよかったのに。
とぼとぼと遅くとも足だけを懸命に動かす。高い位置にあった太陽はすでに沈みかけているらしく、山の中の影が濃くなっていく。じわじわと真綿で首を絞めるようなじっとりとした不安が体を襲う。
知らない土地。記憶もなく、扱い慣れない体。何もかもがこの小さな身では受け止めきれない事件で、だからこそ深く考えることはやめていた。大人だった前の記憶が残っているからと言っても、身体的には子供だからか、これ以上考えると身動きが取れなくなる気がする。
「みず、」
どれほど歩いただろうか。もう喉がカラカラだった。せめて水があれば。喉を潤し、そのまま下流に向かって歩いていけるのに。
そんなことを考えていたからだろうか。さわさわと小さく、風の音よりも小さく、水が流れる音が聞こえた気がした。
ハッとして鉛のように重い体を懸命に動かす。音は徐々に近づいてきて、自分と同じ高さの草木を押し除けるようにして顔を突き出せば、小さいながらも綺麗な水が流れた川があった。
夕焼け色に染まる水がキラキラと輝いて見えて、まるで天国に来たような気持ちになる。飛びつくように屈んで水をすくう。冷たさなんて気にしない。澄んだ色に安堵してそのまま口をつけた。
「はーーー、いきかえるぅ」
ここまで何時間かけたのか。一度座ってしまうとジンジンと足が怠さを訴えてもう動きたくない。これからどうしよう。体力も限界だし、今から下流に向かって歩く元気はない。
お腹もすいたけど、とりあえず一晩くらい食べなくてもいいだろう。川から少し離れた大きな岩に体を乗せて、座り込んだ。
さわさわと絶え間なく聞こえる川の音がすごく澄んでいる。ずっと自分が歩いている音か、草が揺れる音ばかり聞いていたせいかもしれない。
それがまるで子守唄のように聞こえた。
ああ、ダメ。
こんなところで寝たらダメ。
そう思うのに、この小さな体に溜まった疲労は相当だったようで、重すぎる瞼を押し上げる気力はもうなかった。
全身の怠さを感じながらも、落ち着く川の子守唄を聞きながら、私はゆっくりと意識を手放した。




