88 背中とおへそ
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父の腕にわずかな切り傷を付けられたと思った次の瞬間、わたしの腹は切り裂かれていた。
折角のドレスが血に汚れてしまった。
「そのようなふざけた格好で剣を持つガキなど、所詮はこの程度か」
つまらなそうに目を眇める、父。
油断――
「隙あり!」
「無いのだ、そのようなものは」
――など、一切していなかった。
振り絞った渾身の奇襲は、あっさりと弾かれた。
思ったよりも傷が深いらしい。
腕から力が抜け、わたしの剣は宙を舞った。
ここまでか。
父と離れて十年。
自分なりに精一杯強さを求めて剣を磨いてきたつもりだった。
だが、たどり着けたのは、父の腕にほんの小さな切り傷を付けられる程度の強さでしかなかった。
わたしなど、所詮その程度の人間だったのだろう。
まぁいい。
最期に身にまとっているのが、シェフが似合うと言ってくれた可愛いドレスだったのだ。
わたしの人生も、そう捨てたものではなかった……
「死ね」
父の声が聞こえ、わたしは瞼を閉じた。
シェフ――ありがt
「ぐぅおぅっ!」
突然の父のうめき声に思わず瞼を開ける。
閉じる直前に見た景色とは一変していた。
紫色のネコが、目の前に立っていた。
いや、この仮装は――
「……シェフ?」
「アイナさんに――」
背筋が冷えた。
今のは、確かにシェフの声だ。
だが……シェフの声ではない。
「アイナさんになにをするんだ!」
怒号と共に圧縮された空気が世界を揺らす。
父が吹き飛ばされ、数十メートル先の地面へと叩きつけられる。
……シェ、フ?
今、目の前に立っているネコの着ぐるみは、本当にシェフなのだろうか。
振り返ったら、全くの別人だったり……
「大丈夫ですか、アイナさん!?」
「シェフ……だ」
振り返った顔は、紛れもなくシェフで、いつも優しくわたしを見つめてくれる大きな瞳が涙に潤んでいる。
あぁ、シェフ……泣かないでほしい。
シェフに泣かれると、わたしはどうしていいのか分からなくなってしまう。
思わず、抱きしめて「よしよし」と言ってしまいたくなる。
「ドラゴン族の凄い薬があるんです。これを使わせてもらいましょう。大丈夫です、お金を請求されたら、ボクが責任をもってお支払いしますから!」
そんなことを慌ただしく言って、斬られたわたしの腹部に視線を向ける。
そして、傷口を見て顔をゆがめる。
あぁ、泣かないでシェフ。
もし今、わたしの体力が十全で、腕を持ち上げることはできていたら、その髪を何度となく撫でてしまっていただろう。
その涙が消え、笑顔が戻ってくるまで、何度でも。
「薬を塗ります。沁みたらすみません」
そう言って、深緑のどろっとした物を、わたしの腹部へと塗る。
「ぅ……ぎゅっ!」
激しい痛みが全身を駆け抜けていく。
だが、痛みが駆け抜けた後、意識を奪われそうだった激痛が消えた。
確認するため、斬られた部分を手でなぞる、こする、血を拭い取る。
傷が――なくなっていた。
「すごい……」
「すごいですよね、この薬。ドラゴン族の妙薬でぇぇええええへそぉぉおお!?」
シェフが、切り裂かれたドレスから覗くわたしのへそを見て、大きな声を上げる。
……むぅ。
「わたしは、デベソではない」
「そうじゃないです!? 決してそのようなことを言ったわけでは!?」
慌てて弁明し、再びわたしのおへそを見て、ばっと顔を背ける。
「ありがtっ……いや、違う! 肌いr……でもなくて!」
なんだか、シェフが頭を抱えて見悶えている。
ねこねこダンス……かわいい。
「こ、これで、お腹を隠して、鎧に着替えてきてくださいっ、あの、その……目のやり場に困ります!」
そう言って、折角の可愛いネコの頭部を脱いでわたしに渡してくる。
目のやり場に困る。
そう言われて、なんだか知らないけれど……物凄く恥ずかしくなった。
もしかしたら、おへそとは、あまり人に見られていい場所ではないのではないだろうか?
それをシェフに……
「しょっ、そ、そうだな、鎧は、必要かもにゃ!?」
ネコ着ぐるみの頭部を渡された影響か、語尾がちょっとネコになった。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
デベソではないけれど、それでも恥ずかしい……っ。
そうだ、鎧着よう。
けれど、シェフを置いていくわけにはいかない。
「シェフも一緒に【歩くトラットリア】へ――」
「逃がすと思うか?」
シェフの向こうに、父がいた。
大剣を上段に構え、わたし諸共シェフを叩き斬るつもりの殺気が迸る。
「シェ――」
危ないと叫ぼうとした時、わたしより先にシェフが叫んでいた。
「今は乙女の一大事なんです!」
振り向き様、固く握った拳を振り抜き、父の剣を弾いて、再び父を数百メートルほど吹き飛ばした。
「…………すごい」
あの父を、圧倒している。
シェフ……君は、一体……?
「さっきから、なんなんですか、あの人は!?」
「あれは……わたしの、父だ」
「えっ!? お父様!?」
両手で両頬を押さえて、頬をほっそりとさせるくらいに口を開けて、シェフが顔色を悪くする。
「心証最悪じゃないですか、ボク!?」
何を気にしているのか、「おしゅうとさん」とかなんとか、ぶつぶつ言っていたが、わたしにはよく分からなかった。




