44話 横たわる -3-
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「まったく……あの浮かれ魔神は」
従業員用の通路からキッカが出てくる。
呆れたような、少し不機嫌な表情をしている。
シェフが倒れてしまった。
なんとか着地には成功し外傷は全くなかったのだが、着地後に夥しい量の鼻血を噴いてしまったのだ。
極限の興奮状態に陥ると、顔に血液が集中し、また血流も速くなることから鼻血を噴き出してしまうことがあるという。
落下の恐怖が精神に多大なダメージを与えたのだろうと思われる。
わたしが、ドアを閉めればどうかなどと軽率なことを言ってしまったばかりに……
「わたしのせいで……シェフが…………」
「……うん、まぁ、ある意味剣姫のせいではあるのかもしれないけれどね」
「自業、自得。『煩悩の数×1リットル』の、鼻血が、噴き出した、だけ」
もしかしたら、シェフに愛想を尽かされてしまったかもしれない。
無責任な発言でシェフの命を危険にさらしてしまったわたしに……
「嫌われて、しまった…………かも、しれない」
「いやいやいや。ないない。ないから」
「むしろ、アイナが、嫌ってやる、べき、事案」
キッカは優しいから、わたしを気遣ってそう言ってくれる。
けれど、嫌われてしまったと思える根拠はいくつもある。
「【歩くトラットリア】まで、わたしが運ぼうとしたら……拒否された」
「あれ以上密着してたら、たぶん死んでただろうしね」
「それは、惜しい、ことを、した」
「店に入ってからも、目を合わせては……もらえなかった」
「後ろめたいことだらけだったんでしょ」
「犯罪者は、人の、目を、見ない」
「涙を拭いたら……悲鳴を上げられた」
「アレはあたしにも謎だったわ。なんなの、あれ? どういう感情?」
「理解の、及ばない、生き物。イコール、敵」
このように、シェフは明らかにわたしを避けている。
着地をする前――上空にいた時は、きちんと目を見つめて腕を伸ばしてくれたというのに……シェフの、手が……わたしを…………
とくん……
と、胸が高鳴った。
触れ合った指先が、少ししびれたように熱を帯びて……もどかしい。
柔らかい手だった。
細い腕だった。
華奢な、体だった…………こう、腕でぎゅっと抱きしめた時の感触が、今も胸の中に残って………………
「にゃふ……ぅ!」
「どうした、剣姫!?」
「なにが、あった、の!?」
「にゃ…………にゃんでもにゃい……」
言えない。
言えるはずがない。
シェフの命が危機にさらされている時に、人命救助の只中において、抱きしめたシェフの体の温もりにドキドキしていたなどと……口が裂けても言えようはずもない。
シェフの髪についた甘いバニラのような香りにくらくらしていたなどと……
見つめ合った瞳がきらきらと輝いていて、シェフ以外のすべてが世界から消失してしまったような感覚に陥っていたなどと……言えるはずがない。
もしかしたら、こんなことを考えてしまったから、シェフに避けられているのかもしれない。
男性の肌に触れ、抱き寄せて、髪の香りを嗅いで、にやにや喜ぶような女など…………
「変態ではないかっ!」
「タマちゃん? うん、そうだよ。ようやく気付いた?」
「アイナは、少し、鈍感」
「違う、シェフは変態ではない!」
「「いやいやいや!」」
キッカとグロリアが、なんだか仲良しだ。
グロリアは、わたしと一緒にいる時よりも、キッカといる方が生き生きしているように見える。
きっと、感性の近い二人なのだろう。
そういえば、体型や服装が少し似ている気がする。
細身で、小柄で、脚がすらっとしていて、胸元がすっきりしている。
そして、シェフとも親しげに会話を楽しんでいる。
「二人は、シェフと仲がいい……わたしよりも、ずっと」
「そんなことないわよ」
「むしろ、わたしは、仲良く、するつもりは、ない」
「けれど……わたしは、避けられて…………」
「だから、それは…………」
重たいため息を吐いて、キッカがウサ耳を外して頭を搔く。
くしゃくしゃになった髪を手ぐしで整えて、綺麗になったところにウサ耳を着け直す。几帳面だ。
「剣姫。なんでタマちゃんがあぁなったのか、自分の胸に聞いてみなさい」
「胸……に?」
胸に聞くというのは……
「キッカがたまに、お風呂上がりにやっている『あなたは出来る娘よ。もっともっと大きく育つの! 大丈夫、あたしは信じているから、あなたは、もっとビッグになれるって!』……という感じのことだろうか?」
「それ、タマちゃんの前で話したら喉笛を掻き切ってやるからね!?」
それでは、ないらしい。
では、胸に聞くとは……?
…………胸……………………胸………………はっ!?
「も、もしかして……」
そうなのか……
そういうことなのか……
「もしかして、シェフは……」
そんなこと、一度も考えたことがなかった。だが、もしそうだというのであれば、辻褄が合う…………
信じたくないことではあるが…………シェフは…………
「シェフは、大きな胸が――嫌い?」
「「それはない!」」
まったく同時に、まったく同じ強さで、まったく同じことを、左右から言われた。
キッカとグロリアは、もはや親友の域に達している、そんな気になったある日の午後だった。




