プロローグ
四季千夏が意識を取り戻した時、まず鼻についたのは酷い臭いだ。どこかで嗅いだことがあるような、しかし馴染みの無い臭い。
ベッタリと何か粘ついた液体が髪を濡らしている。
そのせいで髪の毛が顔に張り付いて気持ちが悪いが、ふとそこで疑問を感じた……果たして、自身の髪はこれほどにも長かっただろうか?
ゴツゴツとした地面に寝ているのが辛くなり、おもむろに起き上がって目を開く。一番最初に目に入った自身の手、記憶よりも随分と小さくなっている事には気付かず、先程から気分を害されている液体……手にも付いていたそれを見て千夏は硬直する。
赤い。真っ赤、というよりは赤黒い液体だった。鉄のような臭いが微かにして、その臭いに既視感を感じて、すぐに気付く。
「血……?」
思わず口にして、直後に背後から金属が擦れるような音が聞こえた。反射的に振りかえると、そこには『死神』がいた。
「……っひ!」
喉から引き攣るような音が漏れる。ズダボロの黒い装束に道化のような仮面、ひび割ればかりの巨大な鎌。
見るだけで怖気がつく異様な雰囲気を放つ死神が、およそ日常生活で見ることなど皆無なその大鎌を目の前に立つ男の腹に突き立てていた。まるで当然の事のように人体を貫通し、刃先からは血が滴っている。
腰を抜かせて尻餅をついた千夏は更なる事実に気付く。千夏の目の前には、血溜まりに沈む人間が一人。少し離れた所にも一人、いや二人。腹を刺された男の他、計三人が血に伏していた。
「う、がぁばっ」
鎌で刺された男が、嘔吐するような音を出して血反吐を口から溢れさせた。ビタビタと大量の血が地面に広がり、死神はそれをみて満足そうに笑った……ように見えた。
ゆっくりと、おそらく苦しみが長引くように鎌を抜き、男の身体が血の海に沈む。その様子をうっとりと見つめていたピエロの仮面が……勢いよく千夏の方へ向いた。
「き、君……早く、逃げろォ!」
千夏の目の前で倒れていた一人、血の気のない顔色をしていた男が最後の力を振り絞って、千夏に言った。
自身の血溜まりに手を付いて、震える手を叱咤させてその男は立ち上がろうとする。しかし……腹が大きく切り裂かれている為に上半身だけが起き上がり、置いていかれた下半身は断面から内臓を吐き出した。
飛び散った臓物が血の池を跳ねさせて、千夏の顔に赤が飛び散った。その瞬間、腹の底から込み上げてくる吐き気。我慢できず、その場で俯いて千夏は腹の中のものを吐き出した。
自分の嗚咽が響く中、千夏の耳は風切り音の様なものを微かに捉える。嘔吐しながら、視線を少し上にあげると……千夏の目の前に、ついさっきまで離れた位置にいた死神が、鎌を持って立っていた。いや、どうやらその鎌はすでに振り抜かれた後だったらしい。
偶然、千夏が嘔吐する為に身体を折り曲げたから……奇跡的に、死神の鎌を回避する事が出来たのだ。
その事を死神の体勢から把握し、千夏は自分の身体が縮み上がるのを感じた。上半身だけを起こした男が血と共に何か言葉を口から吐きだす。
『風弾……っ』
口を吐瀉物まみれにして呆然とする千夏の身体を強い衝撃が襲う。一瞬、視界が回転してその後に身体中のあらゆるところが痛みを発した。
千夏が自身の状態を認識できた時、千夏の身体は先程まで居た場所から遠く離れた壁にもたれかかっていた。
こちらに向けて手を向ける、今の今まで目の前で腹から臓物を撒き散らして死にかけていた男の姿が遠くに見える。
その男は、キョトンと目を丸くしている千夏を見て少しだけ頬を緩め……横にいた死神に首を落とされた。
壁に身体を預けて、千夏は今の自分の状況を不思議と冷静になって分析できていた。千夏が居るのは、岩の肌に囲まれたどこか薄暗い閉所。洞窟……? だろうか。それにしては明るいが、まるで岩で出来た部屋の様になっているそこには千夏と四人の人間の死体。そして……その四人を手にかけたであろう、大きな鎌を持ったボロボロの黒装束に道化の様な仮面を被った謎の存在。
死神、と千夏が内心で呼称しているそれは、黒装束の隙間から覗く枯れ木のような一本足をくねらせて……笑った。
(俺、死ぬんだ)
ぼんやりと、自身の行く末を察した千夏の股が冷たくなる。どうやら漏らしてしまったらしい。
男子高校生にもなって恥ずかしいものであるが、死を予感した瞬間、恐怖に心が支配されどうにも我慢できなかった……のだと思う。
頭の中が冷静になったからこそ、千夏の心を絶望が支配していた。ゆっくりと近付いてくる死神、どうやらコイツは、人が苦しむ姿を見るのが楽しいらしい。
静かに振り下ろされた大鎌の刃が、眼前で止められる。銀色に輝く鏡の様になった刃は、ヒビ割れながらも顔中を吐瀉物と涙や鼻水だらけにした見慣れぬ少女の姿を映した。
(鎌に映った娘、ああ……もしかして、俺か)
天へ向けて振り上げられる鎌を見上げた時、千夏はついさっき鎌の刃に映った……絶望しきった顔の少女を思い出してぼんやりとそう思った。
走馬灯の様に、過去の記憶が千夏の脳を走る。思い出すのは、この場所で目を覚ます直前のこと。
普通に朝起きて、鏡に写る自分の黒髪を少し整え、母親の作ってくれた朝食を食べて通っている高校に向かう為に家を出る。電車に乗って、やがて高校に着いたら友達と他愛のない会話をして、授業が始まれば、うとうとして……。
そこから先の記憶はなかった。
ノイズのような空間を歪ませる渦、歪んでいく周囲の景色と自身の肉体。断片的な記憶のカケラ。
ゆっくりと、死神の鎌が降りてくる。
死にたくないと、思った。
家を出る時、別に特別な会話をするわけでもなく、いつも通り別れた家族の姿。
高校で、下らない会話で笑い合った友の顔。
道化の仮面は、歪で愉快な顔をしている。
将来の夢なんて、漠然としたものしかなかった。ただ、この先にも自分の生きる未来はあるのだろうと根拠もなく考えていた。
死神の刃が近付いてきて、脳裏を過るのはこれをしていれば良かったとか、まだこんなにもやりたい事が……なんて、死を受け入れた思考ではなかった。
死神は確かに笑っている。
どうすれば、この刃を躱す事ができる?
どうすれば、ここを切り抜ける事ができる?
必死に、今やれることを。武器を、この場を生き残れる術を探していた。
『呪文』
まるで初めからそこにあったように、当たり前の様に千夏の『中』に芽生えたものがあった。それが『力』だ、それが『武器』だと。
何故か、使い方は自然に分かった。まるで自分の手足を動かす様に、気付けば使える様になっていた。
それは限りある生を掴む為、己の足で前へ進む為。千夏は腹の底から声を振り絞り、右手を前に強く叫ぶ。
『叛逆剣っ!』
千夏の右手から、光が溢れる。同時に生み出された何者をも弾くような衝撃で既にボロボロだった鎌は砕け散り、余波で死神の身体は吹き飛んだ。
膨張した光は、やがて大きな剣の形を作り出す。
千夏の『今』の身体よりも、ずっと大きな剣だ。真っ白な光を固めた様なその剣は、それを強く握る千夏の心に勇気を与えた。
別に、剣の心得があるわけではない。ましてやこのように自分よりも巨大な剣を、上手く扱えるとは思えない。だというのに、千夏は生気の籠った強い瞳を死神に向けた。大剣を両手で握り込み、もう一度……『呪文』を叫んだ時のように、大きく自身を叱咤する。
「俺は! 戦って、勝つ!」
パキン、と。道化の仮面が割れ落ちた。そこから見えたのは、髑髏に腐った肉を無理矢理くっつけたような化け物の顔。
黒装束の下から、枯れ木のような両腕を取り出して死神は威嚇するように広げた。直後に、一本の足で踏み込んだ死神の身体が目にも留まらぬ速度で千夏に肉薄する。
「っ!?」
あまりの速さに、千夏は剣を振るう事すらできなかった。既に、眼前には両手を広げる死神の姿。見た目は老人よりも細い身体だが、その膂力は恐らく尋常ではない。そんな直感があった。腕の一振りで千夏は絶命するだろう。
光の大剣は千夏にとって羽のように軽く、振るう事自体に問題はない。だが、流石にもう目の前の死神を斬るには遅過ぎた。
それでも、諦めるつもりは毛頭なかった。振われる死神の腕、あえて千夏は姿勢を低くしながら前に踏み込んだ。背中を掠める死神の右腕が服を裂き皮膚を破る、鋭い痛みが走るが……一手、凌いだ。
千夏は吠える。呼応する様に、握る大剣の刃が弾けた。死神が千夏の身体を貫こうと左腕を振るう。爆ぜた大剣の刃が加速して、流星の如き尾を引いた。
まるで光は三日月を描く様に、すれ違い様に死神を両断する。
役目を終えたのか、解ける様に千夏の手の中で大剣は粒子となって空気に溶けていく。その後ろで、上下に分断された死神が地面に落ちた。そして、もう動く事はない。
気付けば過呼吸の様に荒くなった呼吸で肩を揺らし、ピクリとも動かなくなった死神をしばし見下ろす千夏。
呼吸が落ち着いて、湧き上がる様な感情に千夏は大きな瞳から涙を溢して両拳を天に振り上げた。
「ウォオォォォッ!」
自身が今、身を置く状況なんて全く何も分かっていないのだが、ただ自分の命を『勝ち取った』その事実に……千夏は歓喜の勝鬨を挙げた。
『叛逆剣』
使用回数:残四回




