迷いの中で
会社から家に帰るまでのあいだ、織部君の言葉が何度も心に浮かんだ。
『誰かを泣かすことになっても、それが好きになるってことじゃないんですか』
彼の言葉は強いショックを私に与えた。人を好きになる覚悟も持たず、いつのまにか痛みと向き合わず、のほほんと生きていた。織部君、岡本さんと三人で過ごした日々が眩しくて、心地が良く、永遠に続いていけばいいのにと思っていた。彼らの心はとっくに動き出していたのに、臆病な自分だけが一歩も進めていなかった。
洗面所でお化粧落とし。オイルクレンジングで自然に汚れは浮いてくるにもかかわらず、強めに顔をこする。どうせなら鏡に映る自身の醜い顔も消したかった。やっと冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボディを握って口飲みする。頭と鼻がツンと痛んだが、かまわず飲み続ける。喉はからからに渇いていた。
人を好きになる。思えば優輔が初めての恋人だった。片思いをしたことはあったが、いつも自分を好きになる人なんていないと思っていた。秀でた才能もない。美人でも可愛くもなく、教室では大人しく振舞うことでやり過ごしてきた。告白するなんてだいそれた行動をとるのは、とても無理だと考えていた。
優輔が『一緒にいたい』と言ってくれたとき、身体が震えるくらい嬉しかったのは、憧れていた人が自分を想ってくれていた事実が信じられなかったのが大きい。
受身が染みついていた情けない私。ヒギンズ教授に出会って、きっかけをもらったのにまだ元の臆病さが完全に抜けはしない。そう、教授にもメールしなければ。きっと心配をかけている。
「ヒギンズ教授、こんばんは。お疲れさまです。帰宅しました。変わりなく順調に過ごせています。教授は体調きつくないですか? メールの報告が遅くなってごめんなさい、仕事が立て込んでいて」
余計な心配を掛けたくなくて内容を偽った。送信ボタンを押す。数分後、彼から返信があった。
「真由美さん、こんばんは。お疲れさま。変わりなく順調に過ごせているんですね、良かった。仕事が忙しいときは家でゆっくり過ごされますように。大変な中、連絡ありがとうございます。僕は相変わらず力は戻っていませんが、前回以上に弱くもなっていません。体調も良好ですよ、安心してください」
「良かったです、教授がお元気で。仰られたように今からゆっくりします。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
それだけのやり取りだったが、胸の奥が温かくなる。教授が元気だというだけで、重い気持ちがちょっと楽になった。
自分で全てが解決出来ると考えるのは驕りだろう。解決出来なくても、多分大切な人たちの気持ちと向き合うのは、私にしか出来ないこと。これまで沢山受け取った真心、それに応えなければ。織部君の気持ちも岡本さんの気持ち、どちらかを傷付けるかもしれない。いや二人の気持ちを傷付けることになるかもしれない。自分も無傷ではいられないだろう。
私はもしかしたら、人に恋焦がれたことがないのかもしれない。
優輔と過ごした時間は確かにかけがえないものだし、今も変わらず大切な人だ。織部君も、水族館のデートは楽しかったし、彼の苦しそうな表情を見ると私も苦しい。自分の気持ちは誰に向かっているのだろうか。友情と恋情のはざまで迷っている私は、恋愛ドラマでいうところのはっきりしない嫌な女なんだろう。人に想いを寄せられる重みに、潰されそうだ。
少し前ならヒギンズ教授に助けを求めていたかもしれない。私なんか何も出来ないと。それは、彼に対しとても失礼なことだ。だって教授が師として注いでくれた愛情のおかげで、今は自分を信じることが出来るようになった。自分の答えをしっかり見つけたい。辛くても、しんどくても。
先ずはそれぞれの問題に向き合わないと。今日みたいに逃げることは最後にしなきゃ。
布団の中、ふと、まだヒギンズ教授には何も返せていないなと考える。師の愛は大きすぎて、一生賭けても返せそうになかった。教授に謝りながら、いつか彼の願いが叶うように自分の幸せを掴める人になりたいと思っていた。
更新遅くてすいません。読んでくださってありがとうございます。




