譲れない想い
重いまぶたを擦りながら、歯を磨く。洗面所の鏡に飛んだ歯磨き粉を、ペーパーでさっと拭き取る。トイレ掃除も出勤前に済ませるようになった。大きく背伸びすると、天窓から差し込む日光を浴び、スーツを整えて玄関を出る。
電車に揺られながら、頭の中を整理する。橘さんの思惑が読めない。というより、ほとんど彼女のことを知らなかった。目の前で啖呵を切られたが、優輔とは会ってもいない見合い相手のはずなのに婚約者になるはずだったと発言していたし、なにか深いわけがありそうだ。なんとか話す機会を持てればいいんだけれどと考えていたら、あっという間に会社の最寄駅に着いていた。ショールをかけていたが、風が冷たくて首に引き寄せる。
執務室に入ると暖かく、岡本さんの顔をみかけホッとする。
「岡本さん、おはよう」
「矢野先輩、おはようございます」
「よう矢野さん」
織部君も、寄ってきた。岡本さんの顔がちょっとだけ赤くなる。
「織部先輩、プロジェクト頑張るのはいいですが、目にくまが出来ていますよ。きちんと寝ているんですか?」
彼女は心配な様子だった。
「ありがとう、岡本さん。これでも自分の限界は知っているつもり。研究発表については課のみんなが協力してくれているから大丈夫だよ。それに、矢野さんも岡本さんも応援してくれているからね。心強い」
彼女の顔が翳る。そこは、私の名前より岡本さんの名前が先に出るべきだと思う。いつも彼の様子を見つめ私より気を配っているのは彼女だ。歯がゆい気持ちが伝わってきて居心地が悪かった。
「私、お茶汲んできます」
岡本さんが、給湯室に駆け込んで行く。私も慌て後を追った。
給湯室では、彼女が淡々と湯沸かし器に水を補給していた。私の顔を見て言う。
「織部先輩の一番は、やっぱり矢野先輩なんですね」
目が真っ赤だった。想いが伝わってくる。
「ごめん」
「先輩に謝ってほしくなんてないです。凄くみっともない私」
「みっともなくないよ。岡本さんが、誰より織部君を見ているの知ってる」
「もう矢野先輩には敵わないな。それは、先輩も彼のことを気にしているからですよね」
私の言葉に岡本さんが笑顔を作って答えたけれど、瞳からは涙がこぼれていた。それが綺麗で私の胸は痛くなった。
「だって、二人とも大切な仲間だから」
「先輩は優し過ぎる」
そう言って、彼女は先に給湯室を出て行った。岡本さんも、織部君も大切な仲間でずっとトリオだと思っていたのに。人の関係って変わってしまうものなんだ。
私は『優し過ぎる』という言葉の意味を、しばらく一人で考えていた。
読んでくださった方、本当にありがとうございます!




