眠れる芥川賞
いいさ、見苦しくたって構わない、あの男を倒せるなら、何だっていいのだ。別に、ここで終わってもいい。なんなら、刺し違えても構わない。
きっと私の命は、お前を滅ぼすために授かったのだ。
「七里ヶ浜! 水上温泉! 玉川上水!」
生まれてはじめて味わう、獰猛な感覚に身を委ね、続けざまに三度、魔法を放ちました。
一撃で地形を変え、オーガをも押し流す水流弾が、川端に襲い掛かります。もはや、傍目には水害にしか見えない光景でした。
けれども川端は、何ら慌てる素振りを見せず、つまらなそうに一瞥すると、
「つくづく水の好きなお方だ」
と跳び上がり、身をかわします。
私の魔法は、誰もいない空間を穿ち、虚しく壁に叩きつけられました。
一方、天井に着地した川端は、まるでコウモリのようにぶら下がり、逆さまの状態で、こちらを見下ろしています(どうやって足元を固定させているのか、不思議でなりません。まさか、下駄を天井に食い込ませているのでしょうか? もしそうだとすると、尋常ならざる脚力の持ち主です)
「軍門に下らぬというなら、せめてそこの娘と共に、まどろみの中で朽ち果てるといい」
言いながら、川端は口の端から、白いもやを吐き始めました。煙草の煙? いいえ、それにしては量が多すぎます。なにせ、天井を覆い尽くさん勢いなのですから。これはもう、霧と言っていいでしょう。
その時ふと、魔王は毒ガスの使い手、というトミエの言葉が思い出されました。
咄嗟に口元を抑え、かがみ込みます。見れば、トミエも同じ姿勢を取っているところでした。
「吸えば、楽に死ねますよ」
と川端は笑います。
どうやらあの霧は、催眠作用を持っているらしく、頭の芯がぼんやりしてくるのを感じました。
「眠れる美女と一緒に、安らかに息を引き取るのは、逸楽としか言いようがありません。これは、私なりの慈悲と受け取ってほしいですね」
確かにそれは、魅力的な最期であるように思われました。平素であれば、うっかりその誘惑に負けていたかもわかりません。
しかし、今の私は怒りに燃えているためか、あれほど持て余していたはずの自殺願望が、綺麗さっぱり蒸発しているのでした。人は、他人を殺したがっている間は、自分を殺せないのかもしれません。
「あいにく、今日の僕は目が冴えている」
睡魔を振り切り、再び水魔法を発射します。
「芸のない」
川端は難なく避けましたが、それでも絶やすことなく水を放ち続けました。そもそも、狙いは川端ではなく、奴が使っている足場にあるのです。
やがて天井に亀裂が走ると、さすがの川端も肝を冷やしたようで、その狼狽ぶりが心地よく、一そう私の魔法は激しさを増していくのでした。
「ガスが漏れた時は、換気に限る」
「む」
それから間もなく、天井の崩落が始まりました。バランスを崩した川端は、真っ逆さまに落下していきます。
私はそれを見て頷くと、トミエとハツコに降りかかる瓦礫を水で蹴散らし、ついでに四方の壁も吹き飛ばしておきました。
天井も壁も失った部屋は、もはや、屋外と変わりありません。寒風が吹きすさび、とてもガスが充満するような環境ではなくなりました。
「お前を憎むあまり、水の威力も上がっているようだ」
「……」
川端は地面に片膝をつき、息を整えていました。着地の際に打ち付けたのか、しきりに脇腹のあたりをさすり、額には脂汗が浮かんでいます。
「ずいぶん苦しそうじゃないか」
これは、いけるのではないか、と勝利を予感したのも束の間、
「こんなものですか」
と川端は笑い、何事も無かったかのように立ち上がりました。
「これで芥川賞が欲しいとは――片腹痛い」
次の瞬間、川端は目と鼻の先の距離で、右足を振り上げていました。一瞬で間合いを詰め、蹴りの姿勢に入ったのだとわかった時にはもう、下駄が、私の顎を蹴り飛ばしていました。
視界が明滅するほどの衝撃に、たまらずたたらを踏んでいると、続けて二度、三度と蹴りが飛んできました。
目にもとまらぬ速さ、跳ぶような動き。川端は、私より十センチ近くも背が低いのですが、ここまで運動能力が高いと、向こうは私を殴り放題なのに、こちらは相手が小さくて狙いづらいという、目も当てられない状況に陥るのでした。人間ではなく、知恵のある猿と格闘しているような感覚です。
「ううっ」
「どこを狙っているのです」
私の拳は、虚しく川端の頭上を空振りました。
対する川端の拳は、正確に私の顔面を打ち抜いていきます。
「情けない。それでも日本男児ですか? 軟弱な作家に、芥川賞は与えられない」
「ぐうっ」
「私を倒すのでしょう? どうしました? 手が止まっていますよ」
左右の頬を、交互に殴られ、顔がガクガクと揺れました。自分の首が繋がっているのが、いっそ不思議に思えてくるほどの痛みを感じます。
「これで勇者を名乗るつもりですか。民衆の希望を、一身に背負っている自覚を持ちなさい」
川端の打撃は、ますます加速し続けます。
果たして、一秒の間に、何度私の顔を殴っているのか。これは現実なのか。そもそも自分は、既に死んでいるのではないか、という懸念すら湧いてきます。ついには痛みさえも遠のき、ひょっとするとこれは、失神の前兆なのでは、と思わせるものがありました。
けれども、薄れゆく私の意識を、川端の声が引っ張り上げました。
「本当に、心が弱い。諦めかけているのが伝わってきます。残念ながら、今回も受賞には至らないようだ」
受賞。
そうだ、私はこんなところで、気を失うわけにはいかないのだ。
拳の雨を浴びながら、ゆっくりと腕を構え直しました。
「貴方には才能がある。気持ちさえしっかりしていれば、必ずや大事を成す人間だと思っています。拳を上げるのです」
「言われ……なくとも!」
左手で、川端の蹴りを受け止めると、右手を振りかぶり、全力で殴り返してやりました。
「……ッ!」
川端は、優に二メートルは吹き飛んだでしょうか。床の上に叩きつけられ、口からは赤い飛沫を吐き出しています。カラン、という音が聞こえたので、おそらく歯も折れていることでしょう。
「……以前より、力が増しておられる」
口元を拭いながら、川端は立ち上がりました。しかし、足腰がふらついているようで、さっきまでの力強さは感じられません。
「直撃だったはずだ。立っているのがやっとなんじゃないか?」
「お互い様でしょう」
川端の言う通り、私の方も、満身創痍と言っていい状態でした。けれども、不思議と気持ちは晴れており、いくらでも動けそうな気分なのでした。




