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それがネットに投稿されてからおよそ40と3時間。
〇〇出版社の人間の中で、初めにそれに気付いたのは、入社半年の新人だった。
23才の彼は、今年の4月の頭に入社して、5ヶ月と少し。
まだ一人前とは言えないが、それでも、ある程度仕事を覚え、緊張もほぐれ、昼食のあと、
ーーこれから何をやればいいのか? 今の内に予習しとこう。
などと、気をはりつめる時期は過ぎ去り、
ーーあと30分は休憩時間だから、スマホでもいじるか。
そう考える余裕も出来てきた。
食後のコーヒーを片手ですすりながら、もう片方の手で、スマホを操作し、Twitterのトレンドランキングを上から順にチラ見していく。
一番上は、首脳会談とあり、そういえば今日やるとかニュースで言っていた記憶があるけど、別に政治に興味ないからパス。
2番、3番、4番も興味ないから飛ばして、5番目はわりと好きなアイドルグループの名前だったので確認したけど、グループの誰それが熱愛発覚とか、別にアイドルだって人間だからいーじゃねーかと思いつつ、更に下に2、3個掘り進むとそれの名前があった。
『パンドラの契約者』
たぶん、漫画か小説の題名だ。
入社半年の彼には、それがかつて自分の所の出版社で発行された小説だと気が付きはしなかったが、それでも、トレンドランキングのトップ10に入るぐらいには騒がれているんだから、暇つぶしには丁度いい。
気軽に気楽に画面をタッチした。
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〇〇出版社のベテラン、山崎が昼食を終え仕事場に戻ってくると、神奈川県まで出かけていた筈の隣の同僚が帰ってきていた。
「おかえり、どうだった?」
遠出の成果を尋ねると、
「いや、マジで参ったよ。死ぬほど疲れた」
と、本当にくたびれた声が返ってきた。
この同僚が一体何をしてきたかというと、〇〇出版の主催する、新しい作家を発掘する為の新人賞で大賞を受賞した作家と顔を合わせ、本を出版する為の打ち合わせを終えてきた所だ。
因みに〇〇出版は作者を呼びつけることはなく、こちらの方から出向く流儀を採っていて、必要なら北海道から沖縄まで足を運ぶ。だから、高々、東京ー神奈川の近場で、移動に疲れた訳でもないだろう。
つまり、疲れたのは必然的に新人のせいという事になる。
山崎の知っている範囲では、まだ21歳で、神奈川の大学に通っていて、大賞を受賞したラブコメ作品は、まだ荒削りだがかなりのもん。だった筈だが、
「何、性格に問題あるタイプ?」
本を出すという事は、出版社と作家の共同作業なのだが、ごく稀に、作家の性格が尖り過ぎていて、一緒に仕事できないケースがある。
その21歳の大学生もそのケースかと思ったが、同僚は首を振って否定した。
「いや、今時、めずらしいくらいの好青年だったよ。礼儀正しいし、こっち意見もちゃんと聞いてくれるし、やる気いっぱいだった」
「じゃあ、何が問題?」
「やる気はいっぱいだったんだけど、ちょっとありすぎた。大学卒業後は専業作家やりますって言われてな……それどころか大学辞めて今すぐ専業作家やります、なんて言い出す始末だ」
ああ、なるほど……。
「それはマズイな……ちゃんと止めてやった?」
「当たり前だろ。屋上から、飛び降りそうな人を説得する刑事並みに止めたよ」
同僚は冗談めかしたが、実のところ冗談でもなんでもない。少なくともヘトヘトに疲れるぐらいには真剣に止めたのだろう。もし山崎が、その新人の担当だったとしても、やはり止めた。
本を出すだけで食っていける人間は一握りだ。経験則からすると、新人作家が10人……いや20人いて、やっと1人なれるかなれないかだ。
今回の新人も期待はされているが、期待されている新人が売れなかった例なんて両手に余る。
だからまあ、編集者としては、専業作家になりたいなんてセリフは、まず100万部売り上げてから言って欲しいものだ。
だから、
「大変だったなぁ。ご苦労さん」
と、同僚の苦労をねぎらったのだが、
「そっちの方こそ。編集長に聞いたんだけど、伝説の常盤がまた現れたんだって?」
と、強烈なカウンターパンチを喰らった。
「いや、電話だったから、会ったわけじゃないよ」
そう否定する声にも、我ながら力が入らなかった。
伝説の常盤。
かつて、お気に入りの小説が打ち切られた事に納得できず、わざわざウチまで抗議しに来て、何時間という説得にも耳をかさず、最後には警備員に叩き出されたその人の事を、〇〇出版の人間は伝説の常盤と呼んでいる。
まあ、一種の笑い話だ。山崎だって、そのおっさんと向き合い、延々と不毛な会話をしたのが自分でさえなければ、笑い話として笑えていただろう。
だが、当事者として、あの熱意を真正面から受けた自分には、とてもじゃないが笑えなかった。当時の事を思い出すだけで疲れてくる。
「轟先生はスロースターターなんだよ! ここからパンドラの契約者の真骨頂じゃないか⁉︎ あなたは担当編集者なのに、この先の熱くスリリングな物語が想像出来ないのか⁉︎」
身を乗り出すように語られた熱論は、割と的を得ていたから、結果的により疲れた。
わかる。轟先生がスロースターターであることも、打ち切られたこの先が、駆け抜ける様な疾走感を与えてくれるであろう事は、轟先生の担当でその発売にゴーサインを出した自分には十分わかってる。
山崎だって、イチ読者、イチファンだったなら、同じように思い、惜しいな……そう嘆いただろう。
だが、編集者にとっては、作品を売るのは仕事なのだ。面白い面白くないではなく、売れるか売れないかが何より大事で、『パンドラの契約者』は売れず赤字だった。それが、全てだ。
あのおっさんは、スロースターターという言葉を、巻を増すごとに面白くなる長所だと思っているフシがあったし、轟先生の作品には正にそんな所があるのだが、イチ編集者として言わせて貰えば、それは明確な欠点だ。
売れなければ1巻打ち切りも珍しくないライトノベルでは、スロースターターである位なら、出だしが奇抜で面白く、でもその後がグダグダになるような、いわば竜頭蛇尾のような作品の方がまだマシだ。
だから、残念ながら『パンドラの契約者』は打ち切られるべく打ち切られたとしか言いようがない。例え、何時間粘られても、続刊を出せない物は出せないのだ。
「いやあ、アレを漫画にしたいんだって? まだ諦めてなかったんだなぁ」
「そうなんだよ。そんな馬鹿な夢を見てる位なら、天空のフルールを買ってくれればいいのに……」
ため息と共に、そう愚痴る山崎。
因みに常盤一は天空のフルールを当然の如く買い、既に1巻に至っては30回近く読み返しているのだが、山崎には知るよしもない。
「常盤伝説に、また新たな1ページが……」
「いいよ、そんな馬鹿な伝説」
と、そんな会話をしていたその時だ。
入社半年の新人が血相を変えて飛び込んできた。
「先輩! 山崎先輩!」
「どうした?」
「アレって、ウチが出していたラノベじゃないんですか⁉︎ もしかしてアレを断ったの、ウチなんですか⁉︎」
「何がだ?」
アレとか言われてもさっぱりわからん。
「だから! パンドラの契約者ですよ! あれ書いたのは、ウチで天空のフルール出してる轟先生なんですよね⁉︎ 山崎先輩が担当なんですよね⁉︎ 漫画化断ったんですか⁉︎」
「パンドラの契約者? 漫画化?」
まさか、あの常盤がまた何かやらかしたのか?
そんな風にいぶかしむ山崎に、新人は焦れたように叫んでスマホを差し出してきた。
「ああ、もう! とにかく、これ見て下さい! これ絶対にウチの雑誌で出すべきですよ! マジ、看板になるに決まっています! 他所に取られる前に声かけないと!」
伝説の常盤と、それに振り回される苦労人、山崎。
〇〇出版どころか、出版業界全体に広まる逸話は、今からが始まりだ。




