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7月も終わり頃、夜中の9時30分。僕は休憩がてら『パンドラの契約者』の小説を読み返していた。
そう、今は休憩中だ。漫画を描くのが疲れたから『パンドラの契約者』の小説を読み返して、リフレッシュしているんだ。
我ながら、イッちゃってるな……と、思わなくもない。
僕と常盤さんと花梨の3人で大騒ぎしたあの日から1月ちょっと、僕は試行錯誤を繰り返している。
それこそ、今の僕のライフスタイルは『パンドラの契約者』に全て染められているといって過言じゃない。
1番の悩みだった絵が描けないという問題はあの日の後、直ぐに解決した。
あの後、覚悟を決めてペンを取ったら、若干ぎこちなかったけど、それでも手が動いてくれたんだ。
きっとあの日、僕の覚悟が決まったからだと思う。
僕の絵が輝いているって言われた事が、何よりも効いたんだと思う。
いや、まあ、ある意味、マッチポンプなんだけどね……。
兎にも角にも、絵を描けるようになった僕だけど、半月以上絵を描かなかったブランクは確実にあって、勘を取り戻すのに一週間以上はかかった。
そして戻ってからも、やっぱり常盤さんの納得できるようなクオリティではなかった。
だから僕は、常盤さんと、とことん話し合う道を選んだ。
常盤さん自身も上手く説明出来ない、これは違うという言葉が具体的に何か違うのかを考え始めたんだ。
正直、難航している。あの人は本当に説明が下手で要領を得ない。
「ここはもっと未来を見すえた感じ」とか「このセリフはプライドを切り崩しているんだよ」とか、マジで何なんだって思う。
頑張って説明しようとしてくれているのは伝わるんだけど、結果的により理解しづらい。
でも僕は、前よりずっと素直に、常盤さんの言葉を受け入れることが出来ていた。
前は違った。
あれは違う、これは違う、と言われる度に、いったい何が違うんだよって思っていた。
正直、素人のクセにって気持ちが何処かにあった。
けど今は常盤さんが違うというなら、……あの『パンドラの契約者』を愛していると叫ぶ常盤さんが、これは違うんだと言うなら、それは本当に違うんだと受け入れることが出来た。おかげでちょっとはマシになったと思う。
そうそう、週末を利用して、1泊2日で黒矢たちが住んでいる街にも行ってきた。
モデルになっている学校や駅、作中で食べられている食べ物、描写されている風景。戦いの舞台。
街を回りながら語られる常盤さんの解説は、真に迫っていて、花梨と感心しながら聞いて回ったよ。
「よし、休憩終わり」
僕は小説を閉じて、原稿の手直しに入った。
ここ1か月、色々と試したけど、ここ2、3日は、奥行きを考えたコマ割りを試している。三次元的な描写を読み手に意識させたら、もうちょっと良くなるんじゃないかなぁ……って、思ったんだ。
そして、奥行きを意識して描いた原稿と元の原稿を見比べていた時、ふと違和感を感じた。
いや、奥行きどうこうで絵がぐっと良くなった訳じゃないよ。むしろ、意識しすぎて全体のバランスが狂ってる。あんまり、意識するのは良くないのかもしれない。
でも違和感を感じたのはそこじゃない。僕は元の原稿の方に引っかかりを感じたんだ。
そこは1話の中盤、ヒロインの葵ちゃんがクラスメイトに笑顔を向けるシーンなんだけど、笑い方がちょっと葵ちゃんに合ってなかった。
なので、描き直すことにした。
僕は、ホワイトで修正をかけながらも頭の中では自問自答していた。
ーーなんで、僕はこんな天真爛漫な笑顔を描いたんだろう?
ーーそれは、葵ちゃんがヒロインだから。読者に可愛い笑顔を見せなきゃいけないと思ったから、そう描いたんだ。
ーーたしかにそうだった。でも、葵ちゃんはこんな笑顔を浮かべないだろう? 彼女は自分のいたらなさを自覚しているんだから。
『パンドラの契約者』のヒロイン、神坂葵は、作中でミステリアスな暗躍者として登場する花崎紫歌の、幼稚園からの付き合いのある親友だ。
だから紫歌ちゃんが悪魔に取り憑かれた時、彼女は葵ちゃんにだけは真実を伝え、助けを求めた。
彼女が一番信頼していたのが葵ちゃんだったわけだ。
でも、彼女たちは結果的にすれ違った。
葵ちゃんは紫歌ちゃんを助けようとはしたのだが、頭の回転が早く現実主義者の彼女は、悪魔の存在を信じずカウンセリングを進めたんだ。
その当時は、まだ悪魔憑きの噂なんて欠片もなかったから、無理もない判断だったと思う。
でも、それは紫歌ちゃんにとっては、無意味で、葵ちゃんですら理解してくれないと失望するには充分だった。
その後、紫歌ちゃんは消えた。
それは葵ちゃんにとって、親友を助けられなかった、親友に寄り添えなかったという負い目だ。
彼女は、自分の無力さといたらなさを思い知っている。
だから、なんの悩みもないような天真爛漫な笑顔なんて浮かべない。
でも、そこで彼女は折れないし、諦めない。 この広い日本で紫歌ちゃんを探し出し、今度こそ助けようとする強い娘だ。
だから、彼女の笑顔は、そういった強さを秘め、見た者に力強さを与える、真っ直ぐな笑顔なんだ。
「よし、出来た……」
その一コマを修正し終わった。
だけど、
「…………」
今度はその次のコマが気になり始めた。次の次のコマも気になる。
順番に一コマずつ直していくが、次から次へとおかしな所が出てきた。
おかしな所と言っても、一つ一つは大したことじゃない、ちょっと表情が合ってなかったり、ちょっと感情がずれていたり、ちょっと所作が大袈裟だったり、
本当にちょっとしたことだ。でもそのちょっとしたことが全体の流れを歪ませたり、キャラクターのやり取りの噛み合わせを崩したりしている。
と、そこで初めて気が付いた。
自分の中に『パンドラの契約者』という物語がはっきり存在している事に。
ーーえ?
ーーえっ……えっ?
ーー……ある……いや、ある! そこにあるよ!
そこってどこだよって言われると困るんだけど、確かに黒矢たちが存在していた。
一度自覚したら、更にはっきりとその存在を認識出来た。
慌てて、原稿と見比べると、今までわからなかった事が不思議なくらいに、違いがはっきりとわかった。
僕の描いた原稿は、僕の意図が不純物の様に混じっている。例えば、さっきの葵ちゃんの表情なんかが、わかりやすいのだけど、修正前の天真爛漫な笑顔は、読み手に魅力的に見える様に、なんていう僕の考えが混じっていた。
それは間違った手法じゃない。むしろ、読み手の事を考えて漫画を描くのは当たり前の手法だ。
でも、この場合、本当に伝えなきゃいけない感情を描いていなかったんだ。
いや、気づいていなかったと言うべきなのかな?
なんにせよ、僕の中の『パンドラの契約者』と見比べてみれば一目瞭然だった。
ーー凄い……。
ーーこれが常盤さんの見ている世界なのか?
まるで目玉が一つ増えたかのような、劇的な変化。
それが起きた理由はわからない。
小説を50回以上読み返したから? 常盤さんと延々と話し合ったから? 黒矢たちの街にインスピレーションがあったから?
わからない。わからないけど、今なら凄いのが描けそうな気がした。
ーーこれから、どうしようか?
ーー最初から描き直そう。
ほとんど一瞬で、その結論が出た。チマチマ修正しようなんて微塵も思わなかった。そこにある物語を描き出してみたくてたまらなかった。
僕は、白紙にペンを入れ始めた。心臓の音がやけにうるさい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
気が付いたら日付が変わっていたし、気が付いたら夜が明けていた。
だというのに一向にペンが止まらない。
1から始めたのに、すでに10ページ目に突入だ。背景こそ描いてないけど、驚異的なペースで進んでいる。
いや、むしろオーバーワークなんじゃないかな?
途中、寝なきゃって思う時もあったけど、とても寝ていられなかった。
そうやって描きながらも、自分で自分にびっくりだった。
もう10ページも描いているのに、こんな奴がいい、こんな風にしよう、そんな自分の意思が、一切混じらない。何一つ自由にならない。だって、それははっきりとあるから。それを僕の都合で変えることなんて出来ない。
僕がやっていることは、そこにある世界を、ありのままに写し取っているだけだ。こんな描き方もあるなんて、初めて知った。
「お父さん、朝ごはん出来たから起きろー」
花梨が僕を起こしに来た。
そして、漫画を描いている僕を見てぎょっとした。
「え? すっごい顔なんだけど……まさかお父さん寝てないの⁉︎」
「ああ、その、徹夜した……」
「なんで⁉︎」
「いや、今、凄くいい漫画が描けてるから、最初から描き直しているんだ」
「ええっ⁉︎」
驚きの表情を浮かべた花梨は、ついで嬉しそうな顔に変わったと思ったら、心配そうな顔に変わり、最後は怒った様な表情に行き着いた。
「もう……だからって徹夜はやりすぎだよ。顔ひどいよ……目の下真っ黒。今からでも寝なよ」
「いや、でも……」
「でも?」
「続き描かなきゃいけないし……」
「まだ描く気なの⁉︎」
花梨の目が座った。
あっ、これヤバイ奴だ。
いや、花梨の言うこともわかるんだ。でも何が原因で、今の状態になったのかわからないから、一度眠ると、また元の状態に戻ってしまいそうで、なんともはや……。
そんな、僕の考えを見透かしたかの様な忠告が飛んできた。
「お父さん、漫画は1日で描けません」
「いや、その……」
「寝なさい」
「はい」
僕は頷くしかなかった。
いや、実際、花梨が100%正しい。もう若くないんだし、体を壊したら元も子もない。
僕はいそいそと画材を片付けた。
そして布団に入ってからも、考えることはやっぱり『パンドラの契約者』の事だった。
不思議だ。今、僕の中にある物語は一体、誰が作ったものなんだろう?
いや、もちろん轟先生なんだけど、少なくとも1話に流れとテーマを与えたのは常盤さんだ。
常盤さんはことあるごとに、1話は黒矢と葵ちゃんの物語だと繰り返していたけど、今ならはっきりわかる、その通りだと。
1話では二人の日常が描かれるのだけど、日常の部分では二人が話すシーンがない。無関係のフリしている以前に、二人につながる部分がないんだ。二人はその行動範囲も友好範囲も趣味も考え方も生き方もあまりに違いすぎる。きっと、悪魔なんてものが蘇ったりしなければ、二人は会話することすらなく高校を卒業して、それぞれの道を歩いて行っただろう。
そんな二人が、悪魔という、二人にとって災厄でしかない存在の所為で出会い、運命を共にしていく。
それが1話で伝えたいテーマなんだろうけど、僕が小説を50回以上読み返してもそこまで読み取れないというか、これ絶対に常盤さんの感性が混じってるよ。
常盤さんの作った本家を超えた二次創作物。
そう考えると常盤さんが作ったと言えるかもしれない。
その上で僕がネームを原稿に直してる。キャラだってデザインしたのは僕だ。
まるで伝言ゲームみたいだ。
そんなことをつらつらと考えていたんだけど、やっぱり疲れていたんだろう。いくらもしない内に僕は寝入ってしまった。
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『パンドラの契約者』を初めから描き直してから6日目、僕は1話を描き終えた。
ふーっとため息と共に、やりきったという充実感に満たされた。
ーー終わった。
ーーこれ以上はない。
ここ最近、張り切っていた反動か、全身の力が抜けた。
まだ朝の10時だけど、今日はもうペンを握れないだろう。
とりあえず、道具を片付けてから、1話を始めから終わりまで見直してみたが……。
ーーうん。最高だ。
ーー続きが見たくて仕方ない。
そう思った。つい、自画自賛かよ、とか、続きを描くのはお前じゃないか? なんて思いもしたが、でも、それが正直な感想だった。
それから、まずは花梨に見てもらうことにした。
リビングを軽く掃除していた花梨を捕まえて、原稿を渡した。
「……すっごい面白いよ……常盤さんのネームよりずっとパワーアップしてる」
僕の原稿を見た花梨は涙にじませながら、でも笑顔でそう言った。
「大げさだよ、花梨……なにも、泣くことはないじゃないか」
「だって……だってさ……お父さん、すっごい頑張ったじゃん……」
「うん……」
花梨の言う通りだ。僕は頑張ったんだ。本当に本当に頑張ったんだ。
それからしばらく、僕らは無言だったけど、やがて涙を拭った花梨が明るく言った。
「さっ、常盤さんにも見せてあげないと。……あの人、首を長くして待ってるよ、きっと」
「あ、ああ、そうだね」
僕はスマホで常盤さんに原稿が出来た事を伝えた。
したら、15分後、常盤さんがやって来た。
「……いくらなんでも、早すぎじゃないですか?」
15分? どうやって15分で来たんだ? この人、隣の県に住んでるんだよ?
「いやー、この前来たとき、寝てたじゃないか? 花梨ちゃんから理由を聞いたら、凄くいい原稿が描けてて徹夜したんだろう? それを聞いてから、期待して、期待して、こっちまで寝れなくなったよ! それで、おととい電話したとき、もう少しで終わりますって言っただろう? もう、いてもたってもいられなくなってね、昨日から近くの漫画喫茶でスタンバイだ!」
「…………」
熱狂的なファンというものは限度を知らない。
きっと、僕か漫画家を止めるのを、半殺しにしてでも止めるってのは、本気なんだろう。
ドン引きしている僕に構わず、常盤さんは原稿を要求してきた。
「そんなことより……そんなことよりもだ! 1話1話!」
目が輝いていた。
僕は、家に上がって貰って、原稿を差し出した。
常盤さんはそれを受け取ると、さっそく原稿をめくり出した。
今まで、何度も繰り返した行為だが、相変わらず慣れない。これなら大丈夫だと思いつつも、やっぱりドキドキする。
しばらくして、読み終えた常盤さんの視線が僕の方を向いた。
そして、
「瀬戸さん……」
「はい」
「きっと私は……これを見る為に生まれて来たんだと思うよ」
ーーえっ? 生まれた? ……何?
最初、あまりにも大仰な言葉が飛び出してきて、理解が追いつかなかった。しばらくして、合格なんだって気付いた。
ーーは、はは……あははははははっ! どんな表現なんだよ全くこの人は⁉︎
「大げさですよ、常盤さん」
「いやいや、大げさなものか! 妥当な表現だろう⁉︎」
身振り手振りで示そうとする常盤さんが可笑しくて、僕は笑った。
常盤さんと出会ってから、約3カ月、僕はようやく『パンドラの契約者』の第1話を完成させることが出来た。




