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むせび泣いた一夜が明けた。
花梨は笑顔で朝食を用意してくれたが、その態度はどこかぎこちなく、学校に登校した時は、正直ほっとした。
ほんと情けない。
そして、朝っぱらから常盤さんがやって来て、早速、手直しを提案して来たのだが、かんばしくなかった。むしろ、暗礁に乗り上げたと言うべきだ。
なんせ、どう直せばいいのかわからないからだ。
今までは常盤さんの具体的にどこを直してくれという要望があった。
でも、偽物っぽいから本物に直してくれというのは、原稿を輝かせてくれというのは、どうすればいいのか僕には、……そして常盤さんにも見当もつかない。
「とりあえず、そうだな……『パンドラの契約者』と似たタイプで、輝いている奴を借りてくるから参考にしたらどうだろう?」
正直、そんなに効果があるとも思えないが、他に案もなかった。僕は頷いた。
そして、常盤さんがレンタルショップに行っている間に、昨日、自暴自棄になって汚した原稿を描き直そうとして、気がついた。
( …………描けない)
ペンが進まない。ペンを握る手が動いてくれなかった。
(うわ……手が本当に動かない)
最初は物珍しかった。だって僕は絵を描こうとしているのに右手が動かないんだから。
でもそれは最初だけだ。
僕は徐々に、焦りだした。
(あれ? …………あれ?)
何回、試して見ても駄目だった。しまいには、
「せーの!」
腹に力を入れて、左手でペンを握る右手を握って、無理やり動かした。
ギギギ! と、右腕は錆びついた機械のようだった。
当然、まともな線を描けはしなかった。
(…………)
肺の奥がすっと冷たくなった。そんな気持ちを紛らわすように、原稿に自分の名前を書いてみた。
『瀬戸京介』
別に問題なく書けた。当たり前だが、ホッとした。
それから、
『瀬戸花梨』『常盤一』『パンドラの契約者』『今日の朝ごはんはサンドイッチ』
思いつくまま、適当に書いたが、いつも通り手は動いた。
次はシャシャシャっと適当に車や犬なんかを描いて見たけど、まあ描けた。特に違和感はない。
でも、僕の不安は一向に消えなかった。
そして、適当ではない。本気の一枚絵を描こうとして……描けなかった。
胸の内が重くなり、それまで普通に動いていた右手が、誰か別人の手のように動かなかった。
「…………………………」
本気で洒落になってない。
何故、そんなことになったのか? 心当たりがない訳じゃない。昨日の件だろう。間違いない。むしろ、他に原因があったらビックリだ。
僕は、結構メンタルに影響されるタイプだ。それは自覚している。昔、打ち切りが決まった時は、筆の進みが遅くなって、結果、〆切に間に合わせる為に粗い原稿を提出して、当たり前のように叩かれた。
そんな僕だが、流石にペンが動かなくなるのは初めてだった。
(………………どうする?)
このまま描けないままだったら、どうなるんだろう?
当然、『パンドラの契約者』の作画を描く話は無くなるだろう。だって描けないんだから。
(……………どうすればいい?)
不安が胸の内をぐるぐると回っていると、突然、扉が開いた。
「お待たせ、瀬戸さん! 色々と借りてきたよ!」
「うわああああああっ!」
驚きの悲鳴をあげた僕に、常盤さんは怪訝そうな顔をした。
「驚きすぎじゃないか、瀬戸さん? ……ノックすれば良かったかな?」
「いえ、なんでもないです」
冷静を装いなから、ごまかすように常盤さんの借りて来た漫画を手に取った。
常盤さんの借りて来た漫画は表紙を見る限り、どれも、現実を舞台にした異能バトル物だ。そのほとんどが、僕も名前くらいは知っている有名どころだったが、中にはまるで知らなかった奴もある。
「どれも『パンドラの契約者』と似た感じの物で、輝いているなって代物だから、読んで見てくれ」
そう進められて、とりあえずメジャーな奴から読んで見たが、絵を描けないことが気になり、全然頭に入らなかった。
(だ、大丈夫だって……一時的なものさ……しばらくすれば描けるようになるさ……)
そう、思い込もうとしたが、胸中の不安は消えはしなかった。
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半月近く経過して、僕は変わらず絵を描けないままだった。
この期間に色々試して見たが、改善はしなかった。むしろ、描けない理由だけはっきりと鮮明になった。
結局のところ、酷評されるのが怖いのだ。一コマ一コマ、考えぬいて全力で仕上げた原稿を駄目だと言われるのは、偽物だと言われるのは、僕、本人が否定されるも同じだ。
それが嫌で、それが辛くて、もうそんな目に遭いたくなくて、描けないんだと思う。
馬鹿だなぁ、とは思う。結局、描かなければ一話は永遠に終わらないのに。それが解っていて踏み出せない。
(それに、前と同じように描けるようになっても、それだけじゃ、合格しない……)
もはや、僕には一話を完成させることが不可能に思えてきた。
「瀬戸さん、一度、『パンドラの契約者』の舞台である街に行って見ないか? 何かインスピレーションが得られるかもしれない」
また、常盤さんが新たな提案をしてきた。この半月、常盤さんの進めで他の漫画を読んでみたり、『パンドラの契約者』の小説版を読み返したりと、色々と試している。今のところ効果は出ていない。
常盤さんには、まだ僕が漫画を描けなくなったことを知られてはいない。皮肉にも壁にぶつかっていると思われていて、無理に描かそうとはしなかったんだ。
でも、隠し続けるのも限界だ。そもそも、うちの家計はそんなに余裕がある訳じゃない。いつまでも停滞している時間はない。
(なんとかしなきゃ)
(どうにもならない)
矛盾した気持ちが交錯している。
「おーい。瀬戸さん」
「! ……は、はい! なんでしょう?」
どうやら、常盤さんを置きざりに考え込んでいたらしい。慌てて返事を返した。
「いや、だから一度、黒矢たちが住んでいる街に行って見ないか?」
「…………それ、そんなに意味あります?」
『パンドラの契約者』は現代が舞台で、主人公の住んでいる場所もきちんと明記してある。関東のとある地区だ。
だから、行けるといえば行けるのだが、正直、そんなに意味があるとも思えない。
僕はそう思うのだが、常盤さんの考えは違った。
「そりゃ、あるだろう。黒矢や葵ちゃんが暮らしている街だよ?」
「いや、そういう設定ですけど……」
「設定? 違うよ。黒矢や葵ちゃんはこの街で暮らしているんだ」
そこには、反論をためらうような何かがあった。
「黒矢は5歳でこの街に引っ越してから、幸せな少年時代も、不幸な悲劇もここで起きたんだ。葵ちゃんは隣街に住んでいて、高校に入ってからこの街に関わるようになったんだ」
「………………」
「いや、言いたい事は分かるよ? これはフィクションですって言いたいんだろ? でもさ、私はこう思っているんだ。『パンドラの契約者』という世界はそこにあるんだって。いや『パンドラの契約者』に関わらず漫画家や小説家が生み出した世界はそこにあるんだって思ってる。そこって何処だよ? って問われると困るんだけど……でも、とにかく轟先生によって生み出された世界があって、そこで色んな人間が泣いて笑って生きているんだって思ってる。だから、黒矢たちが住んでいる街を見るのはマイナスにはならないと思うんだ」
「………………」
無茶苦茶な理屈だった。常識人なら、まず眉をひそめる理屈。
あの人、頭におかしいね? 現実とフィクションの区別がつかないの? そう言われも仕方がない。
でも僕は、常盤さんの言葉に超えられない差を感じた。
むせび泣いたあの日から、僕と常盤さんで何が違うのか、ずっと考えてきた。セリフは全く同じなのに。僕の方が、遥かに絵が綺麗なのに、違いは何なんだって思っていた。
その答えが今、見つかった気がした。
そして同時に、僕には無理だ。そうも感じた。
僕には、そこまで思えない。
「……常盤さんにとって、漫画家はどんな仕事です?」
「ん? どんな仕事? そうだな…………新しい世界を作る仕事かな。つまり創造主、新世界の神だな」
常盤さんは最後のセリフをおどけた感じで言ったけど、間違いなく本気でそう思ってる。
「黒矢たちの街を見に行く件、ちょっと待って貰ってもいいですか? 日帰りじゃあ無理でしょうし、花梨にも相談しないと……」
嘘だった。僕が本当に考えている事は全然別のことだった。
それから常盤さんが帰宅して、花梨が帰って来る頃には考えがまとまっていた。
その考えを、最初に花梨に伝えようと思った。花梨はきっと、僕が漫画家として成功することを期待していた。だからこそ、花梨に最初に伝えなきゃいけない。
夕食を食べた後、いつだったかのように切り出した。
「花梨。ちょっといいかな?」
「うん? 何?」
「僕は『パンドラの契約者』の作画を降りて漫画家を止めることにしたよ」
「お父さん⁉︎」
驚く花梨に、その考えに至るまでの経過を正直に話した。
今、現在、スランプに陥っていること。仮に回復したところで、常盤さんの要求するクォリティーを満たすのに何年かかるか見当もつかないこと。完成するまで、うちの家計が到底持たないこと。だから、潔く漫画家を止めて、新たに職を探すこと。
その一つ一つを丁寧に説明していくと、花梨は悲しげな顔を浮かべたけど、僕を非難したりはしなかった。
「そっか…………じゃあ、しょうがないよね………お父さんの漫画、見てみ…………ううん。なんでもない」
花梨は首を振ると、笑顔を浮かべて、
「お父さん……お疲れ様」
そう、僕に告げた。
花梨との話し合いが終わった後、僕は自分の部屋に戻った。
机の引き出しを開けて、常盤さんから借りていた金塊を取り出した。これを返すのは漫画が出版してからの筈だった。
「結局、駄目だったなぁ」
明日、常盤さんに作画を降りることを伝えなければならない。
失望されるだろうか? 怒るだろうか? 罵倒されるだろうか?
(嫌だなぁ)
そう思って気が付いた。
常盤さんと、もう一度、本気で漫画を作ろうとしたことは楽しかったのだと。
全てを諦めた今だからこそ、素直にそう思った。
「あーあ、続き、描いて見たかったな……」




