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文明の濫觴  作者: 烏木
第12章 北へ
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第8話 漁具

ユラブチ集落群にエリ漁を伝えるとして問題になるのが漁網。

魚を捕まえるのは網が無いと色々と大変だが、どのような漁網にするのかを定めるのと漁網を編むことの大変さを分かっているのだろうか。


黒岩さんから聞いた話だが、現代日本で普通に使われている漁網の種類は各要素の組み合わせになるから(網の大きさを除いても)三〇万種類ぐらいはあるそうだ。

そして漁師さんはその中から自分の目的に合った漁網を使うのが肝要なのだそうだ。

製網屋さんも三〇万種類もの網を常に在庫する訳にもいかないから、売れ筋の網は在庫していることはあっても基本的には受注生産なのだそうだ。

黒岩さんの実家で使っていた網は売れ筋ではなかったそうで、毎回製網屋さんへ漁網の種類を指定して発注していたそうで、漁網の構成要素は良く知っていた。


その漁網の構成要素というのは、主に『糸の素材』『糸の色』『糸の太さ』『網目の大きさ』『編み方』との事。

他にも帯状(長方形)なのか袋状(三角形や台形)なのかなども加わってくる。


『糸の素材』は現代日本では主にポリエチレンやナイロンやポリエステルなどの合成繊維が使われているが、用途によって向き不向きはあるそうだ。


日本の漁網に使う糸の歴史を紐解くと、一番最初は(くず)(とう)といったつる性の植物が使われていたそうだ。

個人的な感想だが、つる性植物だと(かご)に近いんじゃないかと思うから竹篭とかもありかもしれない。

実際、ホムハル集落群では魚籠(びく)とか(うけ)とかの漁具は川合産の竹製の物を使っている。


他にも古くは縄文時代から麻糸も使われていたようだが、日本で漁網に麻糸が大々的に使われだしたのは実は江戸時代中期ごろかららしい。

その後は明治時代に綿糸が主流に変わって、現代では合成繊維が主流になっている。


この漁網の糸の素材の変遷は耐用年数に拠るところが大きい。

天然繊維は腐っていくので定期的に交換しないと駄目で、聞くところによると麻糸は半年ぐらいが実用上の限度だそうだ。

竹製や木製の漁具は各地に『(いにしえ)の漁具』として展示されているのをみても分かる通り、上手くすれば何年も持つのに対して麻製は半年ぐらい。

大麻の栽培は太古の昔からあったにも関わらず麻糸の漁網が江戸時代までほとんど普及しなかったのはこの耐用期間の短さにあるのではないかと思う。


綿糸は状況次第ではあるが二年ぐらいは持つそうなので、綿糸の価格が麻糸の四分の一以下なら綿糸で作った方がランニングコストは安くなる。

明治政府が絹糸や綿糸を重要な輸出品に位置付けて増産したため漁網に使える値段になったという事だろう。


そして合成繊維はほぼ分解しないので極論すれば半永久的に使用できる。


まあ、この自然界ではほぼ分解しないことはゴーストギア――流出や逸失や放棄された漁具――になった際に色々と問題を起こしてはいる。

しかし、これを解決するには自然界で分解する素材で釣り糸や漁網を作らないといけないのだが、そうすると二年程度という高頻度で定期的に更新しないといけなくなる。

当然のことながら、ゴーストギアになった漁網の代替ぐらいしかない現在の製網能力では定期更新は無理なので、製網能力を現在の何倍ににもしないと製網しきれないから製網業者を何倍にも増やす必要がある。

設備投資はもちろんの事、職人の育成も必要になる。


漁網を綿糸で作るのなら材料である綿花と製糸能力も必要になる。

現在は製網業者が合成繊維の合成装置を持っていて、注文が入れば注文通りの太さや色の糸を製糸して製網しているが、綿糸で同じ事ができるかと言われると難しいと言わざるを得ない。

つまり製網に取り掛かる前に綿糸の製糸からスタートで同じ期間で製網もできなくなる。


それらを含めれば、漁網の取得コストは跳ね上がるが、これが更新のコストとして定期的にかかるようになる。

では、その増えたコストを誰が負担するのか。

直ぐにプラスチックの全廃を叫ぶ連中が全て漁網を天然素材にする綿花栽培から製網までの広範囲のインフラ整備を含む費用と定期的な更新の費用を全て出すのならその主張に耳を傾けても良いとは思う。


現状の美浦で網に使える糸状・紐状の物と言えば、つる性植物と麻糸と綿糸、それと量の確保は難しいが蚕糸・絹糸になるが、釣り糸には一部で蚕糸も使っているが漁網には綿糸を採用している。

綿糸を使っているのは、量が採れて紡績機が使えるので製造コストも安く耐用期間も長いから。



次の『糸の色』だが、これが地味に漁獲量に影響を与えるとの事。

俺は漁網の色と言われると白色(透明)か赤色というイメージがあるが、青色・緑色・紫色・橙色など色々な色があるそうだ。

『獲物を狙うのに適した色』とか『獲物を網から外す作業がやりやすい色』とか『漁師さんにとって個人的に縁起のいい色』とか千差万別だが、製網業者が複数の染料を混ぜて繊維を合成するのでどんな色でも出せるらしい。


本当かどうかは定かではないという前置きがあったが、黒岩さんが言うには“青系の光はレイリー散乱しやすく深いところまで届かないので深いところでは赤系の光が多くなり赤系の網は保護色のように背景に紛れて見えなくなるから深く潜らす漁網は赤系の方が魚がかかる”との事。

実際の機序はともかくとして、浅いところの漁では青色系や透明の白色系の方が、深いところでは橙色系や赤色系の漁網の方が漁獲が増える例が多いのは確かだそうだ。


美浦では無漂白無染色の生成り色。

綿花の取入れが終わった秋から新たな漁網を製網して毎年更新しているから一年で使い捨ての漁網のために綿糸を染めたり漂白したりするのは労力と資源がもったいないのよ。



『糸の太さ』は強度と重量に絡む話。

糸が太くなるほど強度は増すが重量も増えて取り回しが厄介になるから、目的に適う強度がある一番細い糸を使う事になる。

現代では合成繊維が使われる例が多いのは、重量あたりの強度が天然繊維とは段違いに高いので天然繊維より細い糸で軽く作れるというのも大きい。


糸の太さは直径で測るのではなく、デニールやテックスなどの恒長式番手といって一定の長さの時の重量で表したり、毛番手や綿番手や麻番手などの恒重式番手といって一定の重さの糸が基準の何倍の長さかで表す。

これは糸は縒り合すので見掛けの直径は一定ではないためで、重量と長さと密度から糸の断面積(=糸の強度)を表した方が実用的だから。


素材の密度が違うと同じデニールや番手でも太さは異なってくるが、素材が同じならデニールなどの恒長式番手は大きくなるほど糸は太く、綿番手などの恒重式番手は番手が小さいほど太くなる。

恒重式番手の場合は素材ごとに基準の重量が異なるのだが、それは同じ番手なら同じ太さになるように調整した結果なのだと思う。


手芸や裁縫をしている人は番手(恒重式番手)も知っていると思うけど、一般的に現代日本で著名なのはデニールだと思う。

しかし、デニールは慣用的に使われてきた単位に過ぎず、ISO(国際規格)やJIS(日本産業規格)ではテックス(テクス)という単位が採用されている。

デニールは九,〇〇〇メートルの時の重量グラムだが、テックスは一,〇〇〇メートルの長さでの重量グラムなので、一デニール=九テックスになる。

通常は十分の一を示すSI接頭語のデシを付けてデシテックスにすれば、一デニール=〇.九デシテックスとなり値がデニールに近くなるようにして使用している事が多い。



『網目の大きさ』は狙う魚種や使用方法によって異なる。

刺し網や流し網は仕掛ける時と巻き上げる時にしか網は動かさず、網の目に引っ掛かって動けなくなった魚を獲る漁法なので、網目の大きさによって獲れる魚の大きさが異なる。

つまり、刺し網や流し網は網目の形や大きさで漁獲する魚種や大きさを選択できるという事でもある。


巻き網や引き網は網を動かして獲るので、網目が小さいと水の通りが悪くなって抵抗が大きくなるし、網の強度も必要になる。

それと、網を動かす速度に対して網目が小さ過ぎると網を透過せずに溢れる水が発生して魚が逃げる。

バケツで魚を獲るのとたも網で魚を獲るののどちらが簡単かを想像してもらえれば分かると思う。

クラゲが漁師さんに嫌われるのは網の中の魚をクラゲが刺して値が下がるとか自分が刺されるというのもあるが、網目を塞いでしまって網目を透過する水を減らして魚に逃げられたり、網に想定以上の荷重がかかって破網する危険があることもその理由だろう。


『糸の太さ』と『網目の大きさ』は相関関係にもあるので組み合わせは用途で決める事になるが、美浦では中々想定通りにはならず実際に使って試行錯誤を今も繰り返している。



最後の『編み方』だが、大まかには『有結節網』『無結節網』『ラッセル網』の三種類に大別できるそうだ。例によって例外はあるそうだが。


有結節網は糸と糸が交わる所を結んでいるため結節がある網の事で、主に結び目が本目(ほんめ)結び(こま結び)の本目網と蛙又(かえるまた)結びの蛙又網の二種類がある。

無結節網は交点で糸同士を撚り合わすことで結節を無くした網の事。

そしてラッセル網はレースを編むようにして作る網の事。


有結節網は、手間は手間だが作成難度自体はさほど高くはないし、破網しても結節部で止まるので大規模には破網しにくいし修復も楽だそうだ。

欠点としては、他と比べて重くなるのと結節部があるため絡まりやすいなど取り回しが面倒だったり動かすときに抵抗になったりするし、魚体を痛めたりもするなど。


無結節網は、軽くて丈夫で潮流の影響も受けにくいなど取り回しが楽だし、結節が無いから魚体を痛める事も少ないので、現代日本では結構採用されているそうだ。

欠点としては、機械で編めるならともかく手作業だと作成が大変なのと、破網時に伝播しやすく大規模に網が壊れるおそれがあるのに修復が凄く面倒との事。


ラッセル網は、作成自体は一番簡単で生産性が高い。

ただ、ある意味では編物(ニット)なので全体を固定するような用途でないと使いづらい。


美浦では基本的には有結節網の蛙又網を使っているが、簀立ての囲い部分のように固定して使う用途ではラッセル網も使っている。

無結節網は手作業で作るのが大変で、毎年更新だとやってられないってなる。


それらの網の種類をどうするかという難問もあるが、それ以外にも漁網を作るリソースも問題になる。


「……漁網か……確か綿糸はあるよね?」

「そうだな。潤沢には無いがある程度はある筈」


綿糸はそもそもストックはあるし美浦平の津波による塩分が抜けるまでは塩害に強い綿花を植える予定だから必要最小限に抑えるのならば綿糸の確保は何とかなると思うが、潤沢に使うのなら無理。


漁網やら何やらをどうするか考えていなかったようだが、原料の確認から入るのは成長したと思えばいいか?

個人的には“誤誘導している漁網に引っ張られてどうする”と思うが。


「そうすると漁網を編む人手か……輝政(てる)くん、どれぐらい掛かりそう?」

「直ぐには……どれぐらいの量がいるかだけど……義秀(ひで)くん、川エリの規模って分かる?」

「確か、三〇メートルぐらいはあった筈」

「三〇メートル掛ける六箇所で一八〇メートル……最低でも二〇〇メートルはいるとなると……」

「幾ら何でもできあがるまでに潰れるって」

「待って待って。毎年漁網を編む人手の確保まで考えたら無謀だって」

「そうだな。最初はともかく、更新は編み方教えて自分達で編めるようにしないとやってられないが……編針(あばり)目板(めいた)を渡して“自分達で編め”ってぜってい無理。俺できんもの」


網目の大きさにもよるが慣れている者なら一メートル四方のラッセル網なら一日弱、蛙又網だと二日弱ぐらいかかる。

慣れていない者だと三倍の時間はかかるし品質もお察しという奴で、美浦やホムハル集落群でも編めない者の方が多いのが現状。


深さ一メートルの網が二〇〇メートルとなると、慣れている者が作成するとしても、単純計算ならラッセル網だと一八〇人日、蛙又網だと三六〇人日程度はかかる計算になる。

そして現状の漁網は持って二年なので現状の漁網更新に加えてこの工数が毎年かかることになる。


ホムハル集落群では更新用の網を編むのは各集落でやっているから美浦としては材料の綿糸を売るだけで済んでいる。

しかし、網の編み方を知っているのか怪しいユラブチ集落群に何も考えずに大量の漁網を供給したら毎年の更新の負担が大き過ぎる。


「……なぁ、全部漁網じゃなくて必要な所以外は竹篭とかでも行けるんじゃ? それなら川合にも手伝ってもらえるし」


そうそう。昭尚(あきなお)くん。良いところに気付いたぞ。

誘導部のエリは竹や木の杭を並べて打ち込むだけとか筵などを括りつける程度にして漁網は捕獲部分だけにするというのは方法論としてはあり。

もっとも、捕獲部も必ずしも漁網を使う必要はなくて竹製の篭でもいいんだ。


まあ、身も蓋もない事を言えば、エリなんぞ造らずに竹製や木製の(うけ)とか篭網とかを提供するだけで良いし、その方が双方にとって素早く実現できるし簡単で効果もあるんだ。


「いっその事、簀立じゃなくて筌にした方が良いと思うのだが……如何だろうか?」


これまで黙っていた輝政(てるまさ)くんが筌を出してきた。

もしかすると最初から筌が現実的だと考えていたけど他がエリ漁推しだったからこの流れを待っていたのかな?

それとも俺が“悪くない案だとは思う”と言ったので、もっと良い案がある筈と考えたのかな?


「…………それだ!」


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― 新着の感想 ―
…(; ・`д・´)オリノコのときと同じ結論だけど、当時より出てきたアイデアが豊富。できることが増えたんだなぁ、だけど限界はそんなに変わらないんだなぁ、などと。
魚網はまったく分かりません。山の人間で、川漁もした事もないし。 デニールは女性なら聞いたor見た事があるって人も多いと思う。ストッキングのパッケージに書いてあったりしますから。
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