第27話 大潮
キャンプ場関連は向こうから公式に言われたわけでは無いので『無かった事』にしておいて、目下の課題は大潮がやってくるという事。
月に二回ぐらいある大潮に敏感な人が美浦にはいる。
その一つは製塩チーム。
製塩は大潮のころに海水を汲み上げることからスタートして、次の大潮までに製塩を終えるというサイクルなので自然とそうなる。
美浦にある流下式枝条架併用塩田の鹹水溜まりは共用なので、新たに海水を汲み上げたら濃縮していた鹹水が薄まるので煮詰めて塩を析出させる煎熬作業ができなくなるため、濃縮の進捗が思わしくないときの大潮前は結構ピリピリしていたりする。
鹹水ポンプの動力が人力(自転車こぎ)から可搬式蒸気機関になって以降は、遅れを取り戻すために枝条架へのポンプアップを二十四時間体制にする事もあったりする。
そしてもう一つが海産物の水揚げに関連しての話。
大潮になると干潮時には大きく潮が引くので潮間帯の獲物を狙いやすくなるし、冬場を除けばエリ漁の一種の簾立での漁獲が見込めるなどで魚介類が食卓に並ぶ事が多いし、食べきれない分は保存食にしている。
そしてあと数日で大潮を迎えるのだが、今回の大潮はちょっと特徴がある。
干潮は一日にだいたい二回あるが、干潮はあまり引かない干潮と大きく引く干潮が交互に訪れる傾向がある。
そして今回の大潮で大きく引く方の干潮の予想時刻が初日が十時半ごろで、翌日以後は五十分ぐらいずつ後になるから最終日でも十三時と真昼間ど真ん中。
昼間に干潮がこない(=昼間に満潮・干潮は朝夕)とか昼に干潮がきても引かない方の干潮ということがあるから、昼間に大きく引く干潮が大潮でというのは年に何回もない。
普段獲れない漁場が大開放獲り放題になるので、今度の大潮は年に何回もはない超大漁が予想される四日間というわけ。
超大漁が予想されるので保存食作りのために製塩施設から普段の大潮のときよりも大量の鹹水(濃縮した海水)と同じく大量の塩を確保している。
保存食の要点は含水率と水分活性の低下なので塩や砂糖が鍵を握るのだが塩の方が量を確保できるので塩を確保したという事。
どうして鹹水を確保しているのかというと燃料がもったいないから。
塩漬けには大きく分けて塩を直接塗す乾塩法と塩水に漬け込む湿塩法というものが存在する。
乾塩法は塩を大量に使うのと失敗することがあるのでアンチョビなどの一部例外を除けば原則として湿塩法を使用している。
湿塩法だとせっかく燃料を使って水分を蒸発させた塩を水に溶かすことになるので、それなら煎熬前の鹹水を使った方が燃料の節約になる。
もっとも、湿塩法は塩漬時間が長くなることが多いので用意した塩漬用の樽の数が生産限度となる。
煎熬前の鹹水は十二度から十四度ぐらいの塩水なのでそのまま塩漬液に使えるぐらいの塩分濃度がある。
ただし、鹹水をそのまま塩漬液にするのは問題がある。
それは好塩菌や耐塩菌に分類される塩分濃度十数度の鹹水の中でも生きていたり増殖する細菌の存在で、その中には食中毒の原因になる腸炎ビブリオも含まれる。
だから使う前に煮沸して殺菌する必要がある。
ここまでは塩蔵品とか干物、燻製の用途のものだが、佃煮用に醤油と味醂と砂糖も確保している。砂糖は多くは確保できなかったから、どこかで醤油と味醂での佃煮に変わる可能性はあるけど。
そうやって準備万端待ち構えていたつもりだったのだけど……
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大潮の初日の干潮時刻のちょっと前にも関わらず、第三厨房ではてんてこ舞いときりきり舞いが共演していて猫の手も借りたい状況になっている。
「選別終わった分、早く持ってって」
「砂吐きさせてる貝にバカガイ無いよな? あったら直ぐ寄越せ」
「牡蠣打ちの応援頼む」
「カキウチがんばれー!」
宣幸くん、それ違う。
違うけどピリピリした空気がちょっと和んだから花丸あげる。
「煮干あげるから傍に寄るな!」
「三枚おろしどこ!?」
「アラの回収に来ました!」
開始早々簾立班から大量の鰯が送られてきて処理していたら矢継ぎ早に第二弾が到着した。
その中には鰯に混じって型のいい鯖もそれなりの数が入っていて、選別しながら処理していたら磯班からは大量の牡蠣が、潮干狩り班からはアサリを中心にした大量の二枚貝軍団が着弾した。
海産物は鮮度が命なのでフル回転で塩漬けに干物に佃煮にと加工していたのだが、それ以降も次々運び込まれる海産物の飽和攻撃を受けて第三厨房は早々に陥落。
やっぱり第三というのがいけないんだと思います。まる。
早くも漁の停止を要請するとともに瑞穂会館の厨房も使用する決断を下すも時既に遅し。
停止要請が届くまでに漁獲されていた分だけでもう一回死ねる物量でした。
というかちゃんと漁を停止したんだよね?
潮が満ちてきたから撤収したんじゃないよね?
第三厨房と瑞穂会館の厨房では捌ききれない分は久々に出端屋敷の竃に火を入れた。
竃はあっても調理人の手が回らないので出端屋敷では魚粉用に煮熟するだけにしている。
極論を言えばテキトーにぶつ切りした魚やなんなら丸のままの魚とか、調理したときに出るアラなどをグズグズになるまで水で煮るだけなので誰でも務まる。
煮熟したら漉しとって乾燥させたらフィッシュミールになる。
そうしてできたフィッシュミールは鶏の飼料とか田畑の肥料に使っている。
だいたい小一時間も煮続けたらたいていの骨はそのまま食べられるぐらいふにゃふにゃになるからリン酸やカルシウムの供給源として利用している。
固液分離した液体部分は上澄みの魚油を採り、残りの水溶性の栄養分がたっぷりある水溶液は謎工房で肥料化。
本当は遠心分離機などで魚油とそれ以外を素早く分けて、栄養分たっぷりの水溶液を濃縮して絞り粕に戻してからフィッシュミールを作るのだが、ここでは半日以上静置して魚油が浮いてくるまで放っておくしかないので魚油を採る頃には魚油が酸化した生臭い臭いが酷いし腐敗の心配もあるからそれは叶わない。
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「漁獲組の三班! 全員集合!」
人手も道具も施設も全てのリソースをつぎ込み、日が傾きだしたころに何とか目処が立った。
目処が立ったといっても急いで処理しないといけない工程が終わっただけで、この後も処理は待っている。
今は塩漬中とか煮熟中とかで、とりあえず調理人が人心地をつくぐらいの時間の猶予がやっと作れたので簾立班、磯班、潮干狩り班を召集する。
「第三厨房からの停止要請を無視して漁獲を続けた理由を聞こうか」
停止要請を出してもなかなか着弾が納まらなかったから調べたら、漁を止めなかった疑惑は正しくて三班とも停止要請を無視して漁を続けていた事が判明した。
「鯛も入ってたので先に邪魔な鰯を獲ってたんですけど、そしたら足の速い鯖も……鯛がいたんだから獲るしかないじゃないですか」
「停止要請以降は獲らずに逃がす選択肢は無かったのか?」
「ありません」
中々いい度胸じゃないか。もしかして喧嘩売ってる?
「牡蠣礁が発達しすぎだから。それに貝殻の需要は尽きないから」
「美味しいアサリが一杯いた」
うんうん。美恵姉ちゃん、分かる分かるよ。
アサリ漁師は干潟などで獲らずに船で沖の海底にいるアサリを獲るのはちゃんと理由がある。
干潟は環境変化が大きいし鳥などに捕食される可能性もあるので貝殻を強くする傾向が高く、貝殻は立派だが身が痩せている貝が多い。
またアサリにとっては海岸の砂地より海底の泥地の方が棲みやすいので貝殻が横に広く厚みの少ない身がぎっちり詰まった美味しいアサリになりやすい。
だから略最低低潮面に近いところにいるアサリは普段潮干狩りで獲れる場所にいるアサリより良いアサリになりやすい。
分かるけどそれとこれは別だから。
しかし、牡蠣が多いのか……二枚貝の天敵であるアカニシガイを貝紫のために採りすぎたって事はない? それはない? そうですか。
それより美浦の排水が流れ込むから養分が豊富なのが原因じゃないかって?
……否定できん。
それはともかくとして、なぜ漁をやめなかったのかを更に尋問したら三班とも“他の班がやめれば自分の班は続けても大丈夫と思った”と。
お前らなぁ……
いやいや切れてないですよ?
こめかみあたりに井桁が浮いていると思うけど切れてないですよ?
でも、なんとかしてあいつらの手綱を握る努力をしないと拙い気がビンビンする。
干満差は正弦波に近い動きをするので、一番干満差がある大潮と干満差が一番小さい小潮の間の中潮のころは日々の干満差の変化が大きく、逆に大潮や小潮では干満差の変化は少ない。
だから大潮や小潮のときは四日間ぐらい似たような干満差になる。
そして今日は大潮の初日。
こんな調子を明々後日まで続けられると困る。大変困る。困るんですって。ネタでも振りでもなくヤバイって。
「今日獲ってしまったものは仕方が無い。善い悪いで言えば悪いが、時間は巻き戻らないから何とかはするが、今の問題は明日からの事」
各自の自粛を求めたのだが……
「アサリは次は春だから獲りたい」
「簾立は水物。魚次第だから何とも言えません」
「牡蠣の間引きはまだ必要。正直夏場から危惧してた」
獲りたいという気持ちは分かるけど限度というものがある。
保存食も今日だけでこれでもかとばかりに積み上がるから、これ以上獲っても仮に保存食に加工したとしても腐らすまでの時間を引き延ばすだけで結局食べないのが目に見えている。
「簾立は今回が今年最後だから最後まで完走したい。牡蠣礁はこれから冬にかけて獲っていけばいいんだから牡蠣はやめて夕飯用に潮溜まりの大物狙いにして欲しい」
「いやいや貝殻需要は重要だし、牡蠣ならオイスターソースにすれば保存も利くし獲らない理由がない」
「簾立はどんだけ入っているかは蓋を開けてみないと分からないから調理部門の処理能力に合わせるのは無理。だから磯班は簾立の量を見てから獲る量を決めるとか」
「それ、今日の状態だったら無しってなんねえか?」
「…………」
処理能力の限界に配慮してくれるのはありがたいが、そうじゃなくてできれば止めてくれというのが俺の言い分。
そんな風に思っていたらいつの間にか席を外していた美恵姉ちゃんが将司と美野里を連れて戻ってきた。
「ノリさん、説教部屋開催してるんだって?」
「あっ、ミノ姉さん! “簾立に入った魚は全部獲る”は正解ですよね!」
「当然! 罠に填めた以上はちゃんと捕まえるが正義」
「干潟の奥のアサリは次は春だから獲っちゃうでいいよね」
「うんうん。美恵姉ちゃんは旬ってものをよく分かってて花丸!」
くっ……援軍を呼びやがった。
「義教、今日は偶々鰯の群れが飛び込んだだけで、そうじゃなければ大丈夫だった筈だ。そんな偶々が続くわけないだろ?」
「これ以上保存食作っても食いきれないって。今回の大潮が終わっても十二日もすれば次の大潮。今回ぐらい条件が良いのはそうそうないけどそれでも大潮は大潮」
「つまりは食う口の問題?」
「そう。物には限度がある」
「じゃあ、滝野に持っていってばら撒け。あと、みんな。そうそうないだろうが、簾立に大量に入ったときは磯班は手加減してやってくれ。それで良いな」
「たぶん干し台とか竹串が足りなくなるから突貫で用意してくれ。それと調理班への説得はやってくれ。俺には説得できる自信が無い」
いや、本当に自信が無い。自分すら騙せていないもの。
それとフラグ立てるな!




