表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
文明の濫觴  作者: 烏木
第7章 三年目
126/293

第23話 引継ぎ

のべ八日間実施した瓢池(ふくべいけ)の点検は滞りなく終わり、特に問題は発見できなかった。この点検は俺一人でするとずっと俺が管理しなければならなくなるので自分達で管理できるよう人手をだしてもらった。


そして正式に供用を開始するため、瓢池の斜樋(しゃひ)の取水口を全閉して湛水(たんすい)を始めたのが約半月前。


その瓢池の堤の上に美結さんと来ている。

瓢池の状況確認に訪れた訳だが、早くも半分以上水位が回復している。


菜種梅雨(なたねづゆ)のお陰で結構貯まってますね」


菜種梅雨というのは菜の花が咲く三月から四月にかけてに降る長雨の事を言い、春霖(しゅんりん)とも春雨(はるさめ)とも言われる。もっとも、春雨はこの時季の霧雨からせいぜい小雨ぐらいまでを指す事が多く“春雨じゃ濡れて行こう”の春雨が本降りや土砂降りだったら月形半平太は阿呆の子になるので絵にならない。


「この調子なら代掻きも田植えも問題ないでしょう」

「まあ、瓢池は保険だけどね」


瓢池の利水容量二,〇〇〇立米の水を全てロスなく水田に充てても水深は七センチメートルに満たず、ロスや地面や畦に浸透する分を考えると(はなは)だ心許無い水量でしかない。だから俺は瓢池はオリノコ川から取水する水が足りない時の保険と位置付けている。


「それでも水温が高い水が確保できるのは大きいです」

「そうなの?」

「稲にとって水温って結構重要で水を温めるための水路だってあるんですよ?」

「“ぬるめ”とか?」


水温が低すぎると冷水温障害が起きるので、雪解け水や湧水などの冷水しか水源が無い場所だと水田の回りに水路を巡らせて用水路の冷水を(ぬる)くしてから水田に引水するという手法が採られる事があり、こういった水温を上げるための水路(温水路)は、俗称で“ぬるめ(ぬるめ水路)”とか“まわし(まわし水路)”など様々な呼ばれ方をしている。様々な呼び方があるということは昔から色々な地域で冷水温対策がなされていた証左だと思う。


中には用水路その物を水温を上げるための温水路にしてしまう大規模なものもあって、秋田の象潟にある上郷(かみごう)温水路群(おんすいろぐん)などがその好例。


「…………知ってて」


美結さん、ジト目が怖いんですが。


「いえね、鳥海山の麓に上郷温水路群ってのがあって、それが選奨土木遺産や疎水百選に選ばれてるから概要程度はね」


昭和二年建設で大掛かりな温水路としては日本初ともいわれる長岡温水路をはじめ、近隣に続けざまに建設された大森温水路・水岡温水路・小滝温水路・象潟温水路の五つの温水路を纏めて上郷温水路群というのだが、この上郷温水路群は後世に残し伝えていくべき歴史的土木構造物として土木学会選奨土木遺産に選ばれている。

日本初の温水路で尚且つ現役の温水路という事もあるが、それ以外にも凄い逸話がある。


それは長岡温水路を設計して施工監督した佐々木順治郎氏は長岡集落の理事者つまり基本的には農家だという事。

先例も何も無いにも関わらず、専門家でも研究者でもない佐々木順治郎氏が数多(あまた)の落差工(段差)をつけた広くて浅い水路で水を温めながら撹拌するという工夫を考え付き、晩秋と早春の僅かな期間に村人だけで建設して、実際に水温上昇効果があるという事実。

それを知った時の土木の徒としての俺は鼎の軽重を問われた気がした。


「だから冷水温障害ぐらいは知ってるけど、それって雪解け水とかの冷水の話じゃないの?」

「冷水被害だけじゃなく“一度一俵”って言って水温が一度違うと反収に一俵の差が出るって言い回しがあるぐらい水温は結構大事ですよ。亜寒帯の北海道でも栽培されている稲ですけど、やっぱり熱帯原産の植物なんで水温が高い方が育ちが良いんです。確か二十五度から三十度ぐらいが最適と聞いてます。まあ、高すぎるのも駄目ですけどね」

「なるほど。まあ瓢池の利水容量だと焼け石に水、一切れのパンかもだけど」

「一切れのパン? ですか?」

「そういう題名の物語があるの。(つづ)めて言えば“まだ手段が残されていると思えば心は折れない”といった感じかな? 気になるなら後で話してもいいけど」

「……約束ですよ?」


“一切れのパン”ってそんなにマイナーだっけ?


「ところで、堆肥の方の具合はどう?」

「順調ですよ。後十日ぐらいで田んぼに撒く予定」

「……聞き方が悪かった。すまない。どれぐらい任せてる?」

「へ?」

「オリノコの人たちにどれぐらい任せてる?」

「切り返し作業は手伝ってもらってます」

「切り返しの実施判断とか品質チェックとかは?」

「もちろん私がやってます」

「……そう。じゃあ鶏はどう?」

「更新は上手くいきましたよ。後一月もすれば産卵ペースも安定するでしょう」


鶏の()()寿命は卵用種で一年半から二年ぐらい。(肉用種だと肥育速度が良いブロイラーだと二箇月ぐらいで、遅い地鶏などでも半年以内)

典型的な卵用種は生後五箇月ぐらいから卵を産み出して、それから一年ちょっとぐらいが経済的な採卵ができる期間。そこから一箇月ぐらい休産させたら半年ぐらいはまだ採算範囲の産卵が期待できる。だから、通常は一年半ぐらいで、あってもプラス半年程度が経済的に飼育できる限界になる。

美浦もオリノコも卵用鶏は更新していて今のオリノコは三代目に入れ替えたばかり。


だが、俺は更新した鶏の様子を聞きたいのではない。


「採卵は誰がやってる? 給餌は? 飼料作りは? それ誰がやってる?」

「私がやってますけど……ああ、大した手間じゃないから大丈夫ですよ?」

「……永住するつもりなの?」

「いえ……ん? どういう事です?」


自分が居なくなった後にどうするつもりだったのか……

“自分がやれる事に全力で取り組む”というのは美徳なのだろうが自分で抱え込んでしまってはどうにもならない。


「美浦に戻った後、養鶏はどうなる? 肥料作りはどうなる?」

「えっ?」

「オリノコの誰がそれをできるの?」

「やり方を教われば誰でもできるんじゃ……」

「確かに教えればできるだろうね」

「ですよね」

「だから美結さん(みいちゃん)が教えなきゃ駄目だよね」

「私がですか?」

「そう」

「……メ、メダカに空が飛べましょうか」

「メダカもトビウオも同じダツ目の魚。頑張ればトビウオのように飛べるようになるかもしれない」


メダカに空が云々は、佐智恵がテレビか何かで聞いて感銘を受けたとかで“私にはできない事を要求するな”的な事をいうときによく使うフレーズである。言い分に納得すれば“せやな”で済ますが、納得できないときの返しの一つや二つは当然用意している。真似れば良いという物ではないのだよ。


「それは屁理屈だよ」

「屁理屈でも何でもいいから、面倒がらずに引継ぎしなさい。しなきゃ永住コースまっしぐらだよ?」

「めんどくさいんじゃなくて無理なの! 言葉なんてどこまで掘り下げて説明しなきゃいけないか分かんない!」


何かを説明するときに障害になるのが知識の差。

その中でも特にネックになるのが語彙の問題。

前提知識や説明に必要な概念などを言語化した物が説明を受ける人の語彙に含まれていないなら、その概念などを説明して理解させるところからスタートになる。当然ながらその説明に必要な概念などが語彙にないと更に前段からとなり、前提の説明に必要な前提の説明に必要な前提の……前提と説明がゲシュタルト崩壊するわ。


説明する側とされる側の双方の共通認識部分まで降りてから説明する内容の水準まで引き上げる必要があるので、説明する内容と受ける側の知識の差が小さいか受ける側の方が知識が豊富だったり抜群の理解力を持っている場合を除けば真の意味での説明って結構大変で双方に多大な努力が必要になる。


「まあねぇ……でもみいちゃんだって全部言語化・数値化して覚えたわけじゃないでしょ?」

「でも、説明の上手い人は誰にでも分かり易く説明できるって言うじゃないですか。私はノリさんみたいに上手くできないから」

「ああ、あれね……あれって極論を言えばどの水準まで理解してもらえば良いか見極めた上で分かったような気にさせてるだけだよ。学術論文とかの例外はあるけどだいたいにおいて分かったような気で十分だから。“いいんだよ細けえ事は”じゃないけど、やれさえすれば詳細な理論は分かって無くても良いの。学ぶは真似るから始まるんだから、理屈や理論は後回しでいいから“こういう時はこうする”だけで今は十分だよ」

「…………」

「それとね、黒岩夫婦になら言語化した説明もある程度できるっしょ?」

「ええ、まあ」

「お二人は永住しても良いとの事だから彼らに手伝ってもらえば良い。それと俺はあと何年かは定期的に来ると思うから。極論、基本作業ができるだけでも良い」

「でもそれで良いんですか? そんなんじゃ何かあるとすぐ失敗しちゃいますよ」

「別に失敗してもいいじゃん。何のために幾つも保険掛けてると思ってる? 今現在でも節約すれば一年以上食べていける備蓄米があるんだよ。命に関わる事にはなんない」

「……はーい」

「親父殿には夏までには帰るって言っていい?」

「……うん」

「それじゃあ、水路点検しながら戻りますか」

「あっ、ちょっと寄り道して山菜採っていいですか?」

「いいよ」


学校と職業訓練はまだまだ手が離れないが、衣食住に関してはそろそろ独り立ちできるだろう。常駐体制も基本解除でいいと思うけど、黒岩夫婦は居残る意向なんで駐在員なのか何なのかはアレだが、お任せする事になっている。


インフラ整備は黒岩夫婦のためというのも含めて便所(下水道)を何とかすればぐらいかな?

いや、登り窯があったっけ。

それに漆原剛史さん(お父さん)から原料土のためにオリノコ川を渡る橋が欲しい的な事も……

それに滝野の件もあるか。


いつになったら落ち着けるのやら。

本章はここまでです。

閑話は料理関係を幾つかと思っています。


フラッシュオーバー直前のプロジェクトに放り込まれてしまいましたので次章の執筆ができていません。ごめんなさい。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ